カントに始まるドイツ観念論は、神=絶対者=無限という概念を介して、人間の外部から認識され内部に構成された現象の世界と、認識されない物自体の他性と、その双方に通底する真実在をそれぞれを把握しようとする試みなのだと理解した。世界は、認識可能な自我~〈世界〉と、認識の及ばない非我~物自体と、双方に根底する絶対的自我~〈大地〉に大別される。
フィヒテは自我と非我を対置する先験哲学を重視し自然は自我による構成物とした。自我の根底には絶対的自我があり、絶対的自我の〈他〉を許さず全体性を突き詰め無限さえ〈同〉に内包して神と合一しようとする作用が、自我の根源的作用である。しかし神と異なる有限者は同化作用に対し抵抗を受けその抵抗を対象即ち他者として受け取るため、ここには〈同〉と〈他〉の別が生じ、ここで絶対者は〈同〉を〈他〉にまで広げた全てを内包する全体性である。
シェリングは自我と絶対者を対置する自然哲学を重視し自然を自我に根底する絶対者と捉えた。ここでは絶対者は〈同〉の及ばない無限≒物自体であり、〈同〉と〈他〉の間に接点がないため、絶対者を把握するには理性を越えて信仰から知的に直観するしかない。
ヘーゲルは、シェリングの絶対者を悪無限と批判し、神は有限者とその対立項としての悪無限を双方内包する真無限だとした。その理論は、論理学、自然哲学、精神哲学の順に展開され、内外の別なき世界から外的実存の個体化の原理と内的現象の認識の機制を区別して論じていく。論理学は、内外ないまぜの世界について、有→本質→概念というカテゴリー分けを担う。自然哲学は、外的世界の個体を力→物理的科学的反応→有機体に分け、精神哲学は、認識の機制を心→意識→精神の流れで止揚される。法の哲学では、抽象法→道徳→倫理(=人倫)の流れが論じられる。歴史は絶対者の精神の表現型として、有限者を介して展開される。ここで有限者は、〈同〉と〈他〉に通底する神の理念を、弁証法により理性で把握できるものとされる。