― 広告と哲学の共通性。偉大な哲学者たちは卓越した広告マンでもあった。プラトンはイデアというコンセプトを着想し、2000年以上にもわたって人々に広まった。デカルトはコギトというコンセプト。「我思う」という有名な言葉。これら哲学の重要な概念は、広告におけるコンセプトに似ている。そしてこの魅力的なコンセプトは多くの読者を獲得した。哲学の仕事とは、コンセプト(概念)を創造することだ。
「おしりだって、洗ってほしい」
「亭主元気で留守がいい」
さて。心に残る、あるいは皆の心の声の象徴のように響く。これは確かに哲学と類似性があるのかもしれない。哲学とはその程度だと言えるかもしれないし、寧ろ、広告とはそうした崇高な大衆心理の抽象化作業という方が正しいだろうか。
多くの人たちが、他人の考えをお互いに予想しながら、自分たちの考えを形成する。この考え方を間主観性、相互主観性、あるいは共同主観性とも呼び、ケインズは美人コンテストを例示した。結局のところ、我々の認知も相対的に形成されるものであり、自己確認も他社との比較や距離感で測る事が多い。その時代の人類の真理を抽出したり、誘導するのが広告ならば、いつの時代にも通用する真理を抽出し掲揚するのが哲学か。
ー 記憶は、パーソナルアイデンティティーの構築において、重大な役割を果たす。多くの記憶を蓄積し、外部化するほど、パーソナルアイデンティティーの構築と発達に対するナラティブが、より多くの制約を受けることになる。記憶の増加はさらに、我々自身を最低する自由度を低下させる。
…記憶が選択肢の増加に役立つならば、記憶の増加が自由度を低下させるというのは本当にそうかなと思うが、掲揚され、誘導される場合のキャッチコピーには、大勢がチラつくという意味で、もしかすると自由度低下は当てはまるのかも知れない。そんな問いを投げかける本だ。