「絶滅できない」というタイトルに興味を覚えて読んでみた。
自分がこうした問題の存在について初めて考えたのは、鮭の人工孵化のニュースだったと思う。
遡上してくる鮭を捕まえて捌き卵を取り出し、人の手で受精させて卵を育て、稚魚を川に放流する。
卵を産みに帰ってきた鮭をわざわざ捕獲するのが幼心に疑問だった。
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確かにある意味で尊厳死の問題にも似ている。
人が手を加えた時点でそれは『自然』では無いのではないか。
『自然』についての考え方は、多分日本人はまた少し異なるだろうと思う。
世界は人類の為に創造されたという感覚が無いし、
八百万の神という考えがあるだけに自然=神という感覚の方が強いだろう。
人が保護した動物は、その動物そのものなのだろうか。
動物園で飼育される虎は、確かに種としては虎なのかもしれないが
環境リッチメントが行われているだけで、本来であれば備わっている狩りの能力なども失われ
餌を待つだけの虎は本来の虎の姿とは異なるのではないか。
それでも虎を保護することが、『自然』を守ることに本当につながるのだろうか。
セレンゲティが設立されマサイ族は立ち退きになり立ち入り禁止になったが
サファリツアーの会社はこの地域を利用できることに違和感がある。
自然保護主義者は自然が人間にとって大いに価値があるときしか
自然保護を要求しない。
欧米の白人専門家は欧米諸国で何世代にもわたって行われてきたことを
発展途上国に禁止を求める場合が珍しくない。
この辺りも頷けるところだ。たとえば捕鯨は日本でも関わりのあることで、
獲って油を絞っただけで死骸はそのまま捨てていた米国が
肉も髭も骨もすべて余すことなく利用してきた日本人の捕鯨を批難する。
自分も動物愛護活動をしているので、
動物なんかより人をまず保護しろよと文句を言われるのは実体験としてある。
蛙を保護して繁殖させるため飼育下に移したことで
ストップしていたダム建設工事が実施され
結局生態系全体の調和を破壊することになったというのは
皮肉である。
繁殖の為に交雑させた種は本来の種ではなく
それは保護に該当するのか。
近親交配を巧みに避けることで、遺伝的多様性は低くともやってこれた種もいる。
絶滅とはなにをさすのか、人はどこまで手を出すことが義務なのか可能なのか。
倫理やクローンの問題にもつながっていく。
管理と干渉はどの程度まで許されるのか。
環境から切り離された遺伝子に意味はあるのか。
保護し人工で育てられて野生に戻された鳥は、
鳴き方を含めすべて一から覚え直す必要がある。
命が生きるのはただ遺伝子と命だけではなく環境も重要なファクターである。
進化とはなにか。絶滅を防ぐことが必ずしも正解なのか。
冷凍保存されている細胞から絶滅した種の復活をさせることは
自然保護になるのだろうか。
復活させられるなら絶滅させてもいいのか?
リョコウバトは人間のせいで絶滅してしまったのだから
人の手で復活させようとうのは正しいことのように思えるが
元は害鳥であったことも考えねばならない。
単純に復活させれば良いというものでもないし、
オビオバトの遺伝子を操作してリョコウバトにすることが
「リョコウバトの復活」になりうるのか。
2200万年の進化を果たしてDNAから読み取れるのか。
自然保護というと良いことと考えてしまいがちだが
何事もそれ一辺倒ではなく、
あるがままにしておくのが自然ならば、人のせいで絶滅したり絶滅できなかったりする種がいいるのは
不自然なのではないだろうか。
人がどこまで手を出してよいのか。本当に難しい問題だ。
容易に答えは出せないが、保護=良いことと思考停止するのではなく
それぞれが考えていかなければいけない。
現代の生き方が客観的に見て優れているという
自分たちの頑なな信念がわたしたちに偏見を抱かせる
という言葉も共感した。
20世紀はじめは自然は女性を受け入れない、極端な自然環境は女性にはきついと考えられており
1838年まで北極圏に女性が足を踏み入れたことがないというのは知らなかったので驚いた。
この自然問題は、実は男女の問題にも波及するように思った。
自然の消滅で私たちが実際に失うものは謙虚さ。
これも確かにそのとおりだと思った。
日本人は比較的、自然に対しては謙虚な民族だとは思うが
傲慢にならずにいたいものだ。