もし自由自在に外国語が出来れば、
どんなに良いことがあるだろう?
少なくない人が一度や二度、
特に語学学習を、精を出した人なら、
この願望を、口に出したことがあると思います。
日本とは、不思議な国で、
外国語を勉強している人はたくさんいますが、
外国語を使って、自分の考えを「発信」している人は、
非常に少ない国です。
いったい何のために勉強しているのでしょうか?
外国語の重要性を、日本語で執拗に語り、
自分が、何を考えているのかを、
得意の外国語で「発信」する人は、ほとんどいません。
これは、非常に奇異にうつります。
多くの人は、その「発信」する人の、
口車にのせられて、
ひたすら「勉強」します。
グローバル化には、英語が必須と言う人は、
たくさんいますが、その重要性を、日本語で、熱く訴えられても、あまり意味がないような気がします。
しかし、よくよく考えみれば、その「発信」する人の、
語学能力は、わからないわけです。
だって、発信していないわけですから。
それなのに、多くの人が、
語学学習に精を出しています。
学習しても、発信はしない。
これが、日本の語学学習者の根本的な矛盾です。
学習しているのに、発信は、全て日本語にする、
このちぐはぐさが、日本の今の国際社会における、
政治、経済面での凋落の一つの理由かもしれません。
これは、語学能力が低いというわけではなく、
語学に対する、私たちの態度そのものが、問題だからです。
「日本人は、いったい何を考えているのか、わからない」、
学習する人の多さと、発信する人の少なさ、
そして、それを問題視しないことが、
こういう認識を、生んでいるのかもしれません。
語学学習の動機において、
ある人は、進学、留学に必要だったり、就職に必要だったり、仕事で必要だったりと、またある人は、趣味で、学習したりします。
しかし、いつまでたっても、うまくならない。
留学する人は、たくさんいますが、その人達の中でも、
学んだ外国語を使って、
発信する人は、ほとんどいません。
本当に不思議な現象です。
話しは少し変わりますが、
語学をある程度やったことのある人ならわかりますが、
語学は、スポーツと似ています。
それは、
①絶対うまくなる練習方法は、確立していないが、
効果があると練習方法は一応あると言われている
②スポーツと同じように、すぐにうまくなる人もいれば、全然うまくならない人がいる
①に関しては、語学を上達する上で、
効率的な学習方法は果たしてあるかという問いに
集約されます。だから、英語学習方法というジャンルが、書店にあるわけです。
この著作は、多読を勧めています。
それも、絵本からです。
この方法に関しては、かなり昔から学習方法としては、
市民権を得ています。
しかし、この方法が、確実に効果があるかというと、
もちろんそういうわけではありません。
それは、②の通り、ある練習方法で、
うまくなるサッカー選手もいれば、
全然、うまくならないサッカー選手がいるのと同じです。
これは、練習方法の問題なのか、
素質かという問題なのか、本人の努力の度合いや、
練習時間なのか、はたまた、やる気なのかという、
センシティブな問いがあります。
ただ、「本人が楽しい、充実している」と感じることが、
実は、英語学習においても、サッカーをやるにも、
野球をやるうえでも、一番大事です。
サッカーをやる人に、うまい人と下手な人がいるように、
語学をやる人にも、客観的にみて、うまい人と下手な人がいます。
大事なことは、本人が、充実した、サッカーライフを行っているか、
自信を持って、語学ライフを享受しているかです。
うまくなるという、確実な方法がないのなら、
大事なことは、主観で、本人がどう思うかです。
本書で提示されている多読学習は、
実は、語学能力を上げるための最強メソッド=多読(そんなものはありません)!
ではなく、
多読学習が
「語学を学ぶ人が、楽しくて、充実感を感じて、半永久的に続ける学習方法の一つかもしれない」と、
著者たちは、指導経験から、そうかもしれないと思っているからです
(もちろん、専門的に研究をしたり、論文を書いたり、それらを参照したりという提示は、
本書の中ではしていません)。
それは、読書という行為が、多くの人にとって、
つまらない本は読まないけど、
面白い本は、どんどん読み続けられるという、
よくよく考えみれば、不思議な行為に起因するからです。
これが、日本語だろうが、英語だろうが、中国語だろうが、
原理的には変わりません。
多くの人は、つまらない本は読めないけど、面白い本は読む。
その面白い本が、外国語であって、別に問題ないわけです。
大事なことは、何が面白いか、その主観です。
それを知らなければ、永久に面白い本を読むことができません。
また、面白い本にあたるためには、つまらない本にもあたらないといけません。
何が、面白いか、つまらないかは、他人はわかりません。
わかるのは、自分だけです。
わかるためには、読まないとはじまりません、
この著作において、多読を勧めるのは、
そのはじまりが、絵本の方が、そうでないものよりも、
わりかし、つまらない、面白いを、読んだ人の主観で、判断しやすいからでしょう。
また、次に大事なことは、スポーツと比べて、
語学は、「知識」の獲得が、とても大事だということです。
サッカーでもルールを覚えたり、戦術を理解したり、
知識がある程度大事だと思いますが、
一番大事なことは、試合に勝つことでしょう。
語学というものは、勝ち負けはありません。
あるのは、わかるか、わからないかです。
そして、わかることを増やしていくのが、
もちろん、語学能力を上げる上で大事なことですが、
これは、語学の特性で、わかることを増やしていけばいくほど、
わからないことが、どんどん増えていくという不思議さがあります。
わからない単語、語句、表現を知ること(その言葉を話せれている国の文化、風俗を含めて)、
そして、自分が選んだ外国語を使って、表現(話したり、書いたり)すること
がとても大事で、それらは、使える知識量に左右されるということです。
多読学習というのは、言わば、ゆっくりと使える知識を増やす行為を、
ずっと行うことを意味しています。使える知識を増やすと言いますが、
その知識は、無限に、増殖して、その都度で、意味も変わるという、
厄介さを持ち合わせています。
多読を長い間続けていけば、
語学における「使える知識」が増えていきます。
これは、発信できる、外国語の能力が獲得できること意味します。
それは、勉強で獲得する「使える知識」と根本的に違います。
勉強においては、使える知識というのは、極論すれば、
テストで良い点をとれる「使える知識」です。
これはこれで、有用性がありますが、
テストが終われば、その使える知識は、どうでもよい知識になる可能性があります。
しかし、多読学習において、使える知識というのは、自分が主観的に判断して、
使える知識と思ったものです。
この有用性は、はかり知れません。
それは、読むだけではなく、話す、聞く、書くにまで、
良い影響をもたらす可能性は高いと思います。
ただし、絶対ではありません。
くどいようですが、こうすれば、野球がうまくなるとか、サッカーがうまくなるという回答がないように、
語学がうまくなるという絶対解は、存在しません。
それは、日本語でも、読書をしたら、
日本語の話す能力って上がるの、聞く能力、書く能力って上がるの?
という疑問と同じです。
語学学習において、大事なことは、
使える知識を、どのように獲得するかに尽きます。
それが、多読学習なのか、試験によるものなのか、
留学なのか、スカイプ英会話なのか、駅前留学なのかは、
よくわかりませんが、多読学習は、かなり良い点をついていると思います。