侘び然び幽玄について考察し、日本人に侘び然びをもう一度考え直して深く身につけるべきだと主張する。
利休や一休、鈴木大拙への批判は確かにと納得できるところもある。
ただ利休本人は侘びを主張したことはないという研究者もいて、彼の権力指向の生き方と然びに関してあまり著者の主張は当てはまらない気も。一休も残した歌などから生悟りに過ぎなかったというのも。もちろん肯定的に評価している箇所もある。
然びは掃き溜めに静かに立つ鶴のこと、掃き溜めが侘びのこととか、侘びは質素で孤絶の相、場で広がりを持ち中核は自身の心の中に存在する、然びは孤高でクールで渋みのある相、侘びに包まれた中で微かな光彩を放ち内なる心が外に放射された姿とか、わかりやすく納得のいく定義をしている。
侘び然びは死生観。侘び然びの根本は愛別離苦としての絶望感、孤絶感、孤絶観。これを味わい得る人間が超然として凡俗の塵世を超えることができるようになる。その境地の魂は侘び尽きて魂さびるほどで、そうなればいよいよ禅が求める感情や欲得に支配されない真の侘数寄に至れる、これが侘びの真髄で、日本人の侘びはここまで到達しなければならないと。通常の侘び然びは、悟りの階梯では、未だ無尽蔵にならない、無一物にもなり得ないその直前の状態を指す。未だ完全ならず達観が生まれていないから逡巡があり、そこがエリートに支持されてきた。しかし本質としての侘び然びは未だ無尽蔵なる法をその内に納めることができない状態で自己を離れたった1人の空間にただ1人存在する、その感覚や状態を指す。これを超えた完全体に成り得た時には侘び寂びは消失し、悟りそのものとなって仏教が説く無一物の境に入り、本物の悟りを得るだろうと。
いいことも言ってるんだけど、他者への批判において著者が立っているところが悟りとか侘び然びとかけ離れているのが残念な感じ。利休や一休への批判とか、現代の左翼とかもそうだし、自分がいかに若い時からどのように考えていて侘び然びについて語る資格があるんだと、そんなに偉そうに語れるあなたは何者なの?って。