大山定一のレビュー一覧
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断片的感想、備忘ノート、散文詩の一節、過去の追憶、目にした風景の描写、日記、手紙などを一冊にまとめあげた手記体の小説。風景描写、あらゆる想念、思考、追憶など、とても緻密で密度が高く、一寸の隙もない。だけれども文章はもたつくことなく、迸るような勢い、速さがある。そして時にはゆっくりと、緩慢になる瞬間もある。まるで音楽のように。人々の他愛のないお喋り、或いは悲しみや絶命の絶叫、パリの騒音として。人が生きていることの旋律がページから、文章の行間から、立ち上り、響いてくる。雑音をも含む寂寥と美しい音楽として。読み始めは風変わりな印象からシュルレアリスムの自動筆記のように感じたけれど、読み進めるうちに絵
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久々に主だった筋のない、断片を繋ぎ合わせたタイプの小説を読んだ。そうして思うのは、私はこういったタイプの小説に非常に安堵感を覚えるということだ。人生は物語ではない。断片を継ぎはぎしたものである。そう言った方が私の実感と合っているし、結局のところなまの人生をより広く肯定しているように感じられる。
内容であるが、意外と明るい。死という絶対無の恐怖に怯えながらも、全体としては生への肯定が貫いているという印象を受ける。特に終盤などはそうである(ちなみにストーリーらしきストーリーがないにも関わらず、終盤にかけて明らかにボルテージは上がっていき、興奮する)。ところが並々ならないのは、この生の肯定を産み出 -
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果たしてこれを物語としてよいものか。
なんて孤独で乾いているのか。まるでランボーが書きえないものを書こうとして時空から立ち上がり、筆を折ったみたい。きっとこれを書き上げたリルケも筆を持てなかったに違いない。
ゲーテは理解されないのを知ってことばを選んで紡いだ。だが、彼は理解されないのを知りつつも、あえてことばを変えなかった。表現や訳、ことばが難解なのではない。彼が書こうとしたそのものが難解なのだ。普通の三文作家なら挑むことさえ思いたてない、そんなものを書こうとしたのだ。こんな世の中ですべてのひとに理解される方が恐ろしい。
たったひとりで、ことば以前の存在を追い求めて、マルテはパリを彷徨う。孤独 -
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事件は起きない。あらすじも伏線もない。パリに来たデンマーク人というフィクショナルな設定があるだけ(リルケはドイツ人)。
そのマルテが、自由な形式で、パリで見る景色を語ったり、かと思うと過去を語る。詩や音楽を語り、そんな連関性のない話を重ねていくが、読者はそれにつれて自分の心の奥底を覗き込むように誘われる。
リルケはこの小説を、散文というよりは詩として書いたという。それほど長い小説ではないが、6年ぐらいの歳月をかけて、文章を練りに練って書いたので、密度は非常に濃く、読み進むのにもエネルギーがいる。数行読んだだけで本を閉じて物思いに耽ってしまう、僕はそんな読み方をした。そんな感じである年のひと夏ぐ -
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中学生の頃のピアノの楽譜入れだった母の手作りのお洒落な鞄がひょっこり出てきて、中を開けるとこの本がひっそりと息づいていました。
『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』の作者は、134年前の1875年12月4日にオーストリアのプラハに生まれた詩人で小説家のライナー・マリア・リルケ、スイスに移り住み薔薇の棘の傷がもとで白血病によって51歳で死去。
これは、孤独な生活を送りながらパリの街で出会った人々や芸術や自分自身の思い出などについて、デンマーク生まれの青年詩人マルテが思いついたことを断片的に書き綴っていくというスタイルで書かれた彼のたったひとつの長編小説です。
この本は中1と中2のときに4度 -
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リルケ自身がこの小説について語った言葉の一部を掲載させていただきます。
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ぼくは『マルテの手記』という小説を
凹型の鋳型か写真のネガティブだと考えている。
悲しみや絶望や痛ましい想念などがここでは一つ一つ
深い窪みや条線をなしているのだ。しかし、もしこの鋳型から
ほんとうの作品を鋳造することが出来るとすれば
(たとえばブロンズをながしてポジティブな立像をつくるように)、
たぶん大変素晴らしい祝福と肯定の小説が出来てくるにちがいない。
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何かしらちょっとでも感じるものがあったなら読んだ方がいい。
リルケは読み手に静かに一つの方角を教えてくれているんだ。
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” 彼らはいずれも自分だけの「死」を待っていた。(中略)子供たちも、いとけない幼な子すら、ありあわせの「子供の死」を死んだのではなかった。心を必死に張りつめて────すでに成長してきた自分とこれから成長するはずだった自分を合わせたような幽邃な死をとげたのだ。”(p23)
私はふと、東日本大震災の津波で亡くなった子供たちを思った。
自然災害の死は戦争の空襲での死に似ている。理不尽で不条理な死。
突然に、誰彼構わず、いっぺんに死に追いやってしまう。
リルケが言うような「死」が彼らにはない。不慮の唐突な死に襲われた人たちを思うと私は胸が痛くなる。
想像力が逞しすぎると笑われるかも知れ -
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マルテの手記が好きって人は、ちょっとヤバい。
何故なら、孤独者の視点が身に浸みてしまうから。
悲しみや苦しみ、そして孤独や不安、影や暗闇、そういったものたちに美しさや豊かさを見出してしまうから。
だけどもリルケが好きって人はそれでいいんです。
少しずつ読んで、隣にマルテがいるような感覚を覚えるまで、じっくり付き合っていくのも良いと思います。
私も実は五年くらい読んでるけど、まだ、終わりません。
リルケ自身も書きあげるのにものすごく時間がかかりました。そういう小説です。
何か面白いことを期待して読み始めると、きっと、面白くないと感じて投げ出してしまう人も多いと思います。
だけど、これらをじっと見 -
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リルケが7年の歳月をかけて完成させた小説。ページをひらくとマルテが歩いたパリの町の空気がどっと押し寄せてくる感じがする。彼の目にするものは盲の新聞売りや、舞踏病のじいさんや、もとは家だったのに今は瓦礫の山になっている光景といったすさまじい退廃、惨めさ、貧困……ではあるけれど、マルテの瞳はそこで止まらずに彼らが祝福された者であることを発見する。
二十歳の頃に読んで、なんだかんだでこれで3度目くらいになるかもしれない。当時のほうがマルテの孤独な文体に深く同期できていたような気がする。いつでもどこでも開ける本じゃあない。妙になつかしい気分になるんだなあ。 -
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あるグループの歌にリルケという詩人の名が出てきて頭の隅にしばらく残っていた。
その矢先、ふと観に行った貴婦人と一角獣のタペストリーの紹介でこの本の引用がなされていた。
こういう同時性で作家に引き寄せられるのもありだと思う。
マルテという作家(実在のモデルあり)を主人公に描かれている話であるが、
貴婦人と一角獣の様に様々な引用がなされており、
そこから感じられる心象風景からリルケ自身の姿が見えてくるメタ的な感覚を受けた。
手記というだけあって、日常の景色が様々に移り変わっていくため、
難解ではあるが、これは印象派の絵画の様に言葉の流れを感じ取っていくものなのだろう。
冒頭で詩人というのは