千葉公慈のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
民俗学の本は読んでいておもしろい。特に日本の民俗学に関する著書は、われらのルーツである来し方の日本人が、何を考え、何を怖れて生きてきたのかがわかる。その意味では歴史と共通する部分はあるが、歴史は文字通り「歴史に名を刻んだ」者たちを扱うのに対し、民俗学は名もなき日本人がどんな暮らしをし、いかなる文化の中で生きてきたかを知ることができる。この生活に密着しているところが、歴史とは異なる、身近な楽しさとなるのだろう。
日本人の風習について書かれた本書も、「知れば恐ろしい」という冠がついているが、読んでみればそれほど恐ろしいということもない。なんとなれば著者が古文献にあたり、時代ごとの日本人が感じた恐怖の根拠を合理的に読み解き、説明しているからである。それは、夜道で後ろから聞こえる足音にハッとして、振り返ると家族や隣人が歩いていただけだった、といったときに感じる安心感に似ている。「何かわからない」ものにこそ人は怯えるのであり、根拠が明らかになれば安心する。著者は、花見や七夕といった年中行事、あるいは「えんがちょ」や「かごめかごめ」といった子供の遊びのルーツを解き明かす過程で、そこに潜む恐怖とその根拠を示してくれる。決して独りよがりではない(ときに著者自身の推察もあるが、それにしても何かしらの根拠を示し、それに基づく推察を提示してくれている)、洞察力にあふれた論拠である。だから一時の恐怖にハラハラしつつも、安心して読み進めることができる。
子どもの頃、誰もが遊んだことのあることや、現在にも残る行事といった身近な出来事を通じて、それらのルーツを説いてゆくプロセスは、謎解きのような趣向を帯びる。著者は本業が僧侶だけに、ときに仏教の説法めいた記述もあるが、科学がまだそれほど発達していなかったかつての時代に、宗教の持つ意味や威厳が今よりも大きかったことを思えば、僧侶が古文献に基づいて語る日本人のルーツや習俗は、不思議なほどに説得力を持つのである。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ日本の精進料理の考えと原始仏教(お釈迦様の考え)に違いがあるのかどうかこの本を読むと解ってきます。
精進料理の本を読むと動物性食材は使わないとはいえ、牛乳やバターなどの乳製品を使ったレシピがあることもあります。
玉ねぎやにんにくなどの五葷(ごくん)を使わないのが精進料理との考えもありますが(生姜、山椒などの五辛を禁止する事もある)、実際は五葷を使うレシピも存在しますね。
仏教はインドを始めタイやスリランカのアジアや日本でもあるわけで食べ物の考えも多様化していると思われます。
精進料理の事を書かれた道元禅師の「典座教訓」は少々難しいかもしれませんが、この本は比較的わかりやすく解説されています。
著者の千葉公慈さんは曹洞宗の住職でありますが、もともとは初期仏教やインド仏教理学を専攻されていたようなので今の日本の大乗仏教のみならず大局的に仏教を見られていると思います。
そんな著者独自の解釈もありますが、乳製品、五葷を使用する理由も書かれています。
仏教徒の完全菜食のビーガン食である戒律はお釈迦様の死後に確立された仏教で作られた戒律のように思います。
修行僧の食事としては臭いのきつい五葷は修行の邪魔になるとのことや、精が付くとのことで性欲を抑える意味もあります。
しかし、お釈迦様が現存の時は、ネギやにんにくは体調不良や病気の際には治療食として用いられたと経典に書かれているそうですので、お釈迦様自体はそこまで禁止してはいなかったということです。
乳製品に関してはお釈迦様がスジャーターのミルク粥を食べた後に悟りを開いたという話は有名であります、またお釈迦様が亡くなる前に食べたものは托鉢でいただいたキノコだっという説もありますが、実はこれは日本訳での話でして『マッド・スーカラ』と書かれていて「ミディアム(生焼け)の豚肉」だったそうです。
托鉢は基本的に頂いたものは全て頂くきますので乳製品にしても、豚肉にしても頂いたわけです。
但し、どんな肉でも食べても良いという訳ではなく、三種浄肉という戒律の設定ががあり、生物(動物)が「自分が食べる為に殺されているところを見ていない」「自分が食べる為に殺されたと聞かなかった」「自分が食べる為に殺されたと知らなかった」の三つ以外は禁止されていたのです。
(この解釈に疑問を持つ人も多いかもしれませんが)
現在でもタイやミャンマー、スリランカなど(上座仏教ですね)の出家者はこの伝統を守っているそうです。
厳しいとか厳しく無いとかいろいろありますが、現在の日本の仏教の僧侶の方はかなり肉食をされている方は多いようです(禅宗であっても)。
そもそも仏教自体が形骸化されているのも事実で、お釈迦様の教えというものが伝来や年月にともに変化し多様化しているので、食事に関しても多様化しているのも不思議ではありませんね。
精進料理を確立されたのは道元禅師ですが、何を食べて良いのか悪いのかという以外にも道徳的、心理的に大切な「食べるにふさわしい行いをしたのか、それを食べた自分は何をすべきか」
ということも同じように重要だと説かれており、食べ物は体の栄養よりも心の栄養とも書かれています。
原始仏教の『増一阿含経(ぞういつあごんきょう)』には人間の食には【世間食】(せけんじき)と【出世間食】(しゅっせけんじき)の二つに分類されています。
【世間食】は日常生活の営みのこと、【出世間食】は日常の先にある、修行者の悟りを意識した生活の営みのことだそうです。
お釈迦様はこの二つを九食(くじき)という9つの概念に分類されていました。
内容はここでは省略しますが、驚くことに9つのうち8つは精神作用、「心の味わい」であるということなのです。
精進料理とは基本的には“修行僧における食事”の事ですので、『何を食べるか』という事と『どういう思いで食べるか、どう食べ物と向き合うか』という精神面、そして『食べるときの所作』が合わさった仏教ならではの思想哲学に基づいた料理、調理法、食事法といえるのではないかと思います。 -
Posted by ブクログ
本当は怖いなんとやら的などこかカジュアルなものを期待しつつも店頭でパラパラと中身を見てカジュアルではなく生真面目な内容だなということは理解した上で購入しました。
読み始めると確かに生真面目で、序盤の内容は個人的にあまり興味が薄いためにあまり面白さを感じず、後半のわらべ唄や昔話についてのところでやっと面白さが出てきました。ひとつのテーマについて3ページ程度なのが読みやすさになっています。
初めて知る楽しみもあれば、もともとこのような話には興味があったので既知との比較や記憶を呼び覚ます楽しみがありました。そして既知のいわれと異なればやはり諸説あるんだなと再認識でした。
-
Posted by ブクログ
スポーツをしてた時から体が細かったので「たくさん食べろ」と周りから言われ、それがなんとなく今思えばストレスになってたのかなと。
でもお母が「たくさん食べろ」と1度も言ってくることがなかったのはありがたいことでした。
食べたくても食べれない人がいることを思うとあんたにそれを言うことはなかったし、食べたかったら自分で食べると思ってたと言ってました。
実際僕の親父を見てもらえばわかると思うのですが太りませんし、筋トレをしても肥大することもそれほどありません。
身長は遺伝なのでしょう。
多分この体型が僕の健康だと思います。
そういうこともあり、正直食べることに対してあんまり興味が僕はありません。
料理人の方を見てると本当に自分も食べることが好きそうだし、美味しい料理を人に食べてもらいたいと考え仕事されてるので素晴らしいと思います。
もちろんそういう料理を誰かと外食した時に話しながら食べてるとおいしいと感じたり楽しいと感じるのですが…。
1人でいる時に何を食べようかなとか考えるのがめんどくさくて1人なら同じものを食べるようになった気がします。
この本にもあって最近自分でも感じてたことなのですがやはり食べ過ぎはしんどくなるみたいです。
食べ過ぎると眠くなり本が読めなくなるので僕はしないようになったのですが、やっぱり実家とかに帰ると母は張り切るので品数が多くなりちょっと食べ過ぎてしまいしんどくなります。
母には内緒ですが…。w
禅の思考として物を食べる前に今日の自分を振り返り、「自分は食べるにふさわしい人間か?」と問うと書いてありましたが凄く良いと思いました。
今は絶賛豆腐生活ですが飽きればこの本にあった精進料理をベースとした食事に切り換えても良いと思いました。
なんせ偏食なので曜日を決めて何を食べるか変えても良さそう。
過食、断食、偏食、極端に走るのが人間です。
いかに節食できるか。
これが人生をより良くする幸福への近道でしょう。