姜戎のレビュー一覧

  • 神なるオオカミ 上

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    文革でモンゴルの草原に下放された知識青年が、モンゴルの長老との交流を通じ、世界を制覇したモンゴルの民の知恵の源が狼であることに気付く。狼の赤子を育てようと試みるが、果たしてどうなるか。

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    2026年10月05日
  • 神なるオオカミ 下

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    主人公は捕獲した子オオカミを育てつつ、漢民族の進出がモンゴル平原の伝統や生態系を破壊していくのを目の当たりにする。持続可能なエコシステムを実現する狼の知恵を伝える本書の価値は非常に高い

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    2026年10月05日
  • 神なるオオカミ 上

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    多分今年一番の当たりでした。
    なぜ草原のものたちはオオカミを畏れるのか。
    なぜ草原のものたちはオオカミと戦うのか。
    すべての答えがそこにあり、オオカミたちからの問いがここにあります。

    彼らに答える言葉をもたない者は、未来に耳を貸さない者かもしれない。

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    2009年10月07日
  • 神なるオオカミ 下

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    オオカミの子・小狼を飼い始めた陳陣、オオカミについての新たな発見の連続、草原には近代化と農耕文化の波・・・

    人間もオオカミも、この美しくも貧しい草原に生きるのがあまりにも大変で、つねに天(タンゴル)に訴えるしかない。もし人生で神様の支えがなければ、生活はあまりにも望みがなくなってしまう。

    長いオオカミの物語が終わり、最後の==知的探索・オオカミ・トーテムについての講座と対話== が大変興味深い。

    草原民族と農耕民族の違いは、オオカミと羊の違いのようだ。

    多くの漢字には中華の祖先である遊牧民から生まれた痕跡がある、「美」と言う漢字は「羊」と「大」が組み合わさったものだ。「大きな羊は美しい」
    モンゴル人は太っている女性が美人とされる。

    漢王朝ではやせた女性が美人だあるのに、次の唐王朝では太った女性が美人になるのか?唐王朝がモンゴル草原の遊牧民族である鮮卑族の血統だと知って理解できた。

    天(タングル)の崇拝と天子の呼称は、上古時代の西北遊牧族に由来するものだ。

    モンゴル民族は世界でもっともオオカミ・トーテムを敬虔に信奉していた遊牧民族、自分たちの祖先が「蒼きオオカミ」と考え、中心的な部族の名前にオオカミという言葉を使っている。

    古代ローマ帝国でもオオカミ精神を崇拝していた。「ローマ人の物語」ローマ建国神話を参照。

    日本でも、オオカミは農地の守り神として、また「御神狗」と言う魔よけとしてあがめられる風習があった。1905年に、奈良県の山中で捕獲された一匹を最後に、オオカミは日本では絶滅したとされる。

    日本では、農作物に害を及ぼす害獣を退治する神獣・益獣とも扱われ、日本語の「オオカミ」の語源は「大神」との説もあり、狼が「狛犬」になっている神社もある。





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    2009年10月07日
  • 神なるオオカミ 上

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     朝日新聞、中国出版事情特集の最初に取り上げられたのが本書「狼図騰」(神なるオオカミ)である。「毛択東語録」以降、最も読まれている本と紹介されていた。

    文化大革命時代、内モンゴルに下方された陳陣、
    遊牧民の最大の敵でありながら、崇拝の対象である「オオカミ」にのめりこんでゆく。

    上・下巻1000ページを超える長い長いオオカミの話が続く、


    わずか十数万のモンゴル騎兵がなぜユーラシア大陸を席巻したのか?

    遊牧民族のオオカミ・トーテムと中華民族の竜トーテムとどのように結びつくのか?
    神社で見る竜の顔がオオカミの顔に似ているような気がしてきた・・・

    草原の天(タンゴル)の道理は、遊牧民族の側にある。草原民族が守っているのは「大きな命」草原と自然の命は人名よりも大切。農耕民族が守っているのは「小さな命」もっとも貴重なものは人命と生きること。

    オオカミは草原を守る神なのに、どうしてオオカミ狩りをするのか?
    オオカミ狩りをしなければモンゴル人はもっと少なくなるが、オオカミを狩りすぎてもモンゴル人が少なくなる。


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    2009年10月07日
  • 神なるオオカミ 上

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    冒頭、夜間に一人、馬で家路を急ぐ主人公が、うっかりオオカミの群れに遭遇してしまうシーン。手に汗にぎるアクション映画のようなドラマティックかつ緊張感に満ちた場面に、読んでいる私はすっかり魅了されてしまった。
    都会育ちの主人公は、乗っている馬が必死で警告を発しているのに気づかず、自ら危険な場所へ入り込んでしまう。震えあがる主人公と対照的に、乗っている馬もオオカミもまるで歴戦の兵士のように肝が据わっている。

    野生動物もすごいが、草原の民たちもみんな魅力的。老人から子供まで、誰もが驚くほど身体能力が高く、草原のことを知り尽くしていてとにかくカッコいい。
    彼らがオオカミたちと繰り広げる「生存を懸けた戦い」は、戦国時代の武将たちもビックリの完璧な布陣と老獪な知恵のぶつかり合い。
    読んでいて、思わず「ほんとにこれ、相手は野生動物なの?」と言いたくなるような巧みな戦いぶりにただただ驚く。人間側の圧倒的勝利、なんてものは保証されておらず、完全敗北すらある。三国志も孫子の兵法もかすむほど狡知な戦略の数々。
    主人公の兄貴分であるバトが馬を守るために孤軍奮闘した戦いは、文字を追うのももどかしいほど興奮した。映画化されたそうだが、このシーン、ぜひ映像で見てみたい。カットされていないといいけど。

    主人公がどんどんオオカミと草原の暮らしに魅了されていくにつれ、私も物語にどんどん引き込まれていった。
    やがて主人公は、智恵の塊のようなビリグ爺さんから、「大きな命」と「小さな命」について教えられる。
    この「大きな命」と「小さな命」、それは今現在、各国首脳たちが非常に頭を悩ませ討議し、北欧の女子高生が抗議運動を起こして大きなうねりとなっている環境問題の核心をついている、と思う。非常にシンプルで、素朴な考え方だけに、本の中でも、「古い迷信」などと一蹴され、上層部たちから無視されている。古い迷信どころか、実際は問題を的確にとらえた論理的な考えなのだが。
    「草原」というものが野生動物たちの多様性の実に危うい均衡の上に成立していることを草原の民は完全に理解していて、それだけに何も知らない人間が入植してくることに非常に危機感をつのらせているのだが、その思いは為政者には届かない。

    アクション映画のようなハラハラドキドキを楽しみつつも、背後のこの重大な問題について、暗澹たる気持ちにならずにはいられなかった。
    本には実にアッサリとした地図しか掲載されていないので、グーグルマップで物語の舞台となっているオロン草原などをチェックしていたのだが、衛星写真で見ると、耕地が広がっていることにドキリとする。

    もともとは、文革時代の下放の実態について興味があってこの本を読むことにしたのだが、そういう歴史的なことよりも、野生動物の生き生きとした様子の数々に、本当に驚かされた。主人公であるオオカミだけでなく、牛や馬についても、知らない事実ばかり。
    たとえば、近親交配を避けるための馬たちの戦いの様子などは、驚愕だった。
    放牧の黄金律、とも言うべき、馬と羊とヤギのそれぞれの頭数の割合とか。
    牡牛がいかに猛々しく強いか、とか。
    もう夢中でページをめくった。

    その勢いのまま、下巻へ行きます!
    (主人公の物思いが冗長になりがちなのが欠点と言えば欠点・・・ということで、★ひとつマイナス)

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    2019年11月01日
  • 神なるオオカミ 上

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    久々に分厚い本を読んだ。しかも文字数が多い。
    前半は読むのに時間がかかったけれど後半は一気読み。
    好きなジャンルであるけれど、若者たちの会話の内容には緊張感がなくそのたびに内容自体も間延びした感じでがしたけれどもビリグ爺さんの話はどれもよかった。たぶん、この時期それだけ草原を巡る環境もおおらかさがあったのだろう。これから読む下巻のあらすじを読んでそう思った。
    オオカミが草原を育むための大きな存在であったことに気づかされたし、犬とオオカミの攻防や草原に住む動物たちの描写は興味深く面白かった。

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    2018年06月08日
  • 神なるオオカミ 下

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    生命の真の意味は運動にあるのではなく、戦いにあるのではないか。哺乳類の生命の始まりに、億万個の精子が雌雄を決する精神をもって、一個の卵子をぐるりと取り囲んで攻める。前の者が倒れても後の者がつづき、子宮に精子の死体があふれるほど戦闘を激しく繰り広げる。動くが戦わない、又ぶらぶらして突撃しない精子たちはすべて無情に淘汰され、尿とともに体外に排泄される。もっとも頑強な戦闘力を持つ勇士、一個の精子だけが、億万個の同胞兄弟の死体を踏み、勇猛果敢に奮戦し、卵子に攻め込み、それと結合して、新しい人間の生命の胚胎になる。その間、卵子はたえず液体を分泌し、軟弱無力の精子をすべて殺す。
    生命は戦いによってえられるもので、戦闘は生命の本質である。いままで、世界で多くの農耕民族の偉大な文明が消滅したのは、農業が基本的には平和な労働だからである。
    しかし、狩り猟と遊牧業、そして航海業、商工業は過酷な猟戦、兵戦、海戦、商戦という競争と戦闘が伴う。今の世界では、先進国の民族はすべて遊牧、航海、商工業をおこなってきた民族の子孫である。二つの大国によって北アジアの寒くて貧しい内陸に封じ込められた、人口の少ないモンゴル民族は、依然として絶滅していない。歴史上の古代エジプト、古代バビロン、古代インドの農耕民族より、明らかに強い戦闘力と生命力をもっている。

    「士は殺すべし、侮辱するべからず」。殺すことも拝むこともできるが飼ってはいけない。と、この本は主張する。

    確かに一体性の無限と違い、この相対性の有限世界は相手の存在を知ることで自分を確認することができると言う、特殊な場所である。
    二つの存在が立ち向かうとき、居残りを掛けた殺し合いへとその摩擦を導くのか、個とその一体感を兼ね備えた切磋琢磨し会う共生社会とするかの、二つの体感があるのではないだろうか。
    まず生き物は対等な選択権の中で生存競争を体験し、その暴力から知力をへて物質への依存による数の暴力を開発したことで、自らつくりだした煙幕に巻き込まれる恐怖を体験している。
    一時的都合による見せ掛けの仲間、利己的に利用し合うための嘘と詐欺が、シンプルであったはずの相対世界を出口の見えない複雑な詭弁に絡めてしまった。
    そのことで、一騎打ちの殺し合いからも手を取り合った切磋琢磨からも横道にそれてしまった。
    自律することで共存する過程をネグってしまい、依存だけの強制社会に紛れ込んでしまった。一度手にした欲という安全地帯が恐怖という副産物を伴っていたために、見せ掛けだけの安全地帯だと知った後も手放すことができなくなってしまったのではないだろうか。と私には思える。

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    2012年03月08日
  • 神なるオオカミ 上

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    生命の真の意味は運動にあるのではなく、戦いにあるのではないか。哺乳類の生命の始まりに、億万個の精子が雌雄を決する精神をもって、一個の卵子をぐるりと取り囲んで攻める。前の者が倒れても後の者がつづき、子宮に精子の死体があふれるほど戦闘を激しく繰り広げる。動くが戦わない、又ぶらぶらして突撃しない精子たちはすべて無情に淘汰され、尿とともに体外に排泄される。もっとも頑強な戦闘力を持つ勇士、一個の精子だけが、億万個の同胞兄弟の死体を踏み、勇猛果敢に奮戦し、卵子に攻め込み、それと結合して、新しい人間の生命の胚胎になる。その間、卵子はたえず液体を分泌し、軟弱無力の精子をすべて殺す。
    生命は戦いによってえられるもので、戦闘は生命の本質である。いままで、世界で多くの農耕民族の偉大な文明が消滅したのは、農業が基本的には平和な労働だからである。
    しかし、狩り猟と遊牧業、そして航海業、商工業は過酷な猟戦、兵戦、海戦、商戦という競争と戦闘が伴う。今の世界では、先進国の民族はすべて遊牧、航海、商工業をおこなってきた民族の子孫である。二つの大国によって北アジアの寒くて貧しい内陸に封じ込められた、人口の少ないモンゴル民族は、依然として絶滅していない。歴史上の古代エジプト、古代バビロン、古代インドの農耕民族より、明らかに強い戦闘力と生命力をもっている。

    「士は殺すべし、侮辱するべからず」。殺すことも拝むこともできるが飼ってはいけない。と、この本は主張する。

    確かに一体性の無限と違い、この相対性の有限世界は相手の存在を知ることで自分を確認することができると言う、特殊な場所である。
    二つの存在が立ち向かうとき、居残りを掛けた殺し合いへとその摩擦を導くのか、個とその一体感を兼ね備えた切磋琢磨し会う共生社会とするかの、二つの体感があるのではないだろうか。
    まず生き物は対等な選択権の中で生存競争を体験し、その暴力から知力をへて物質への依存による数の暴力を開発したことで、自らつくりだした煙幕に巻き込まれる恐怖を体験している。
    一時的都合による見せ掛けの仲間、利己的に利用し合うための嘘と詐欺が、シンプルであったはずの相対世界を出口の見えない複雑な詭弁に絡めてしまった。
    そのことで、一騎打ちの殺し合いからも手を取り合った切磋琢磨からも横道にそれてしまった。
    自律することで共存する過程をネグってしまい、依存だけの強制社会に紛れ込んでしまった。一度手にした欲という安全地帯が恐怖という副産物を伴っていたために、見せ掛けだけの安全地帯だと知った後も手放すことができなくなってしまったのではないだろうか。と私には思える。

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    2012年03月08日
  • 神なるオオカミ 上

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    中国・内モンゴル自治区に下放された北京の知識青年。モンゴルの自然と人々の素晴らしさに目覚めていく。
    しかし、その自然と英知は徐々に外部の人間の欲望に侵されていく。

    「オオカミ王・ロボ」を読んだ時の感覚が戻ってきました。

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    2009年10月04日
  • 神なるオオカミ 上

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    中国モンゴルの砂漠化は 山羊の増加も原因なんだそうだ。山羊は草を根っこから食べてしまうので カシミヤ山羊が増えると そこはもう草が生えない。遊牧民は動物を育ててるんではなく 草原を育てている、と長老達は言う。生態系への強い理解。経済 ってものの 強欲さ。 経済に飲み込まれ 白鳥を撃ち 花を抜く 草原に麦を植えようとする 新しい世代。毎年 増える黄砂 止まらない砂漠化。

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    2011年09月20日
  • 神なるオオカミ 下

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    上巻では草原に生きる野生動物たちの生き生きとした描写や驚くような習性をわくわくしながら読んだが、下巻に入った途端、すべての命運が暗く悲しい行く末を示唆するようになり、読み進めるのが本当に辛かった。

    主人公の子オオカミへの愛は、最初は共感できるものだったのに、次第にエゴイスティックな「執着」に変わってしまう。自分の「夢」がどんなに利己的なものかを直視せず、温厚な老人が激怒しても、それでも手放そうとしなかったのには本当に驚いてしまった。

    鎖につながれて体中傷だらけの子オオカミが感じていたであろう「痛み」と、老人(ビリグ爺さん)が全人生をかけて守っていたものがすべて失われていき、それを見る老人が感じる「痛み」、この二つの痛みがあまりにも大きすぎて、読んでいると涙がこみあげてきて、でも、なんだかうまく泣くことができなくて、私にはとても辛い読書だった。

    何十年も経て、草原を再び訪れた主人公が「小狼にしたことは今もずっと後悔し続けている」と激しい口調で心情を打ち明けていたが、この男は、もし人生をやり直せたとしても、やはり同じことをするんじゃないだろうか、と私は思う。
    小狼を自由にする機会は何度もあったのに、彼は結局、いつも迷わず「エゴ」の方を選んでいる。(迷った様子は見せているけれど、本心は迷っていない)
    私にはそこが最後までどうしても理解できなかったけれど、それは「知りたい」と思う気持ちが異常なまでに強い人間の「性」なのかなとも思う。そういう人を、通常はマッド・サイエンティスト、なんて呼んだりするんだけれど。

    ところで、エピローグの後に続く「オーカミ・トーテムについての講座と対話」は完全に蛇足だった。
    なんなんだ、このたわごとは!!(笑)
    中国の歴史は、「狼性が羊性をほんの少しだけ上回った時、非常に繁栄する」って、どう考えても後付けのこじつけでしょう。
    血液型性格診断と同レベルのくだらなさ。
    この程度のこじつけは歴史を見渡せばいくらでも見つけられると思う。(日本はオオカミ性が強いんですって。笑)

    物語が始まってからずっと、主人公はところどころでこの独自理論を何度も長々と語る。読んでいて、「このしょーもないエセ歴史語りがなければ5点満点の本なんだが・・・」とすでに十分うんざりしていたのだが、それでは飽き足らず、最後にドカンとまとめてまた同じ話を聞かされるとは!
    こういうのを「著者がトチ狂った」と言うのだと思う。5章にもわたって展開されているのには心底驚いた。ここを読んで、「この本を人に勧めるのはやめよう・・・」と思った。はっきり言って、著者の洞察能力に大いに疑問を感じることになっただけのページだった。
    その長大な文字数に、作者が「本気」だということが分かって、余計に引いた。

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    2019年11月06日
  • 神なるオオカミ 下

    Posted by ブクログ

    エピローグは別の機会に読みたかった。興味深い部分ではあるが、このテーマ、本書で持ってくることはないと思う。オオカミが時々こじつけに思えてしまう。また対話方式で読ませる必要はなく、一人称で文章を仕上げた方が自然だ。会話部分が上・下巻とも緩慢で間延びした感じで残念に思った。「神なるオオカミ」なのだから文体にも緊張感と静謐さがあったらいいのにと。
    とにかくたくさんの漢字を読んだ。登場人物に何度も丁寧にルビが譜ってあることには読みやすくて好感が持てます。

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    2018年06月15日