本書は、2014年12月10日に施行された、秘密保護法に関する検証を綴った一冊である。
何故、今秘密保護法なのか?
著者のひとりである堀敏明は、立法事実がないことに疑問を呈している。
立法事実とは、「その法律が必要とされる事実が社会に存在している」ということ。
例えば窃盗による被害が大勢いれば、それ
...続きを読むを取り締まる法律が必要となるような社会的問題が、立法事実である。
国家秘密漏洩事件が多数起こっているのであれば、秘密保護法が制定される必要とされる立法事実が存在するのであるが、そのような事実は現在確認されるだけでも僅かであるらしい。
ちなみに現在起きている主要な情報漏洩問題に関してはほぼ既存の法律で対応できるという。
では、秘密保護法の出発点とは何か?
2005年10月の日米安全保障協議委員会における「未来の為の変革と再編」という基本原理に則った法律というのが実のところらしい。
内容は日米間の軍事情報包括保護協定。
相互に軍事機密を提供し合う場合に協定を結んだ国の了解なしに第三国に提供するなというのがその内容。
つまり、秘密保護法とは、軍事立法的な側面を持っていることになる。
このような重要な法律にも関わらず、2011年に行われた有識者会議の報告書は議事要旨の一部しか公開されず、最初の段階から秘密に包まれ、資料も改ざんしてまで強引に押し通された法律であるという。
秘密保護法は軍事立法的側面があるため、その対象は軍事機密・防衛・外交機密に限定されるべきはずであるが、スパイ活動やテロ活動も秘密の対象となっている。
このスパイ活動やテロ活動を特定有害活動にあたるとしているところが、我々一般市民に大きく影響するところであるらしい。
2013年11月に当時の幹事長である石破茂が発言した「秘密保護法に反対するデモはテロ行為とその本質においてあまり変らない」という言質においては、デモ行為そのものがテロとみなされる危険性もはらんでいる。
1986年に発覚した共産党国際部長・緒方靖夫宅の盗聴事件なども、秘密保護法のもとでは、スパイ活動やテロ行為の防止を口実にすれば、なんら違法でないことになってしまうのである。
また、特に危険なのが「独立教唆」。
刑法では、Aという人物がBに犯罪を教唆したとしても、実際にBが犯罪に手をそめなければ、AもBも処罰されない。
教唆罪は刑法六十一条で定められているように実行があって初めて成立する法律である。
秘密保護法の場合、特定秘密情報の漏洩を依頼(教唆)した場合、その実行の是非を問わず罰せられることになる。
拡大解釈すれば、共謀した二人の会話だけでも成立してしまうため、密告・内通・スパイなどによって有罪とされるおそれにとどまらず、会話の相手の偽証によって容易い逮捕→勾留→起訴→有罪という事態も起きる。
これは、我が国の刑法の原則である、「処罰は具体的な犯罪行為の存在を前提とする」を逸脱するものである。
しかも秘密保護法には、特定秘密の指定について第三者機関がチェックするシステムがないため、行政機関の長が判断で決定されてしまう。
その結果、刑法の大原則である「罪刑法定主義」が崩れることになる。
処罰の対象となる犯罪は法律できちんと定められていて、誰が読んでもこれは犯罪であると分かるものでなければならないのだが、秘密保護法は、特定秘密の範囲自体が非常に曖昧であるばかりか、「指定された特定秘密自体が秘密」なので、国民は何が特定秘密として指定されているのか全くわからない。
戦前の治安維持法は、国体を変革させる目的とする活動や結社を禁じたもので、拡大解釈による逮捕者が続出したという歴史もある。
まさに秘密保護法は、今後の日本の進路を方向付けるものであると結論づけるものと言える。
問題なのは、有識者の間でも問題とされているものの、国民的議論にまで至らずに施行されたということであると思う。
憲法の原理原則ばかりでなく、法理念の根本を覆すような法律が、今後我々の生活にどのように影響してくるかを想像するに、先行きは暗い。
戦後70年近くきちんと憲法論議をしてこなかった我々のツケが、秘密保護法といった解釈による法の運用を可能にしてしまったのかもしれない。
今こそ、日本国憲法の原理原則を見つめ直し、あるべき未来の国家像を考え直す必要があるのではないかと思った。