志賀直哉のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
志賀直哉の代表的な作品を集めた短編集。
『城の崎にて』は1917年、『小僧の神様』は1920年発表。
百年前の作品でありながら、読みやすくて率直に面白かった。
文体が簡潔で無駄がなく、テンポが良い。
状況説明と心情描写が上手いので、ストーリーがすんなり頭に入ってきた。
一番面白かったのは『城の崎にて』だった。
大怪我を負った「私」は、城崎(兵庫県北部の温泉地)に湯治にやってくる。
静かで平穏な生活の中で、立て続けに蜂と鼠の死に出会う。そして、「私」が何気なく投げた石が当たってイモリが死んでしまう。
「私」は、自分が生き物を殺してしまったことを哀しみ、さらに命の儚さを痛感する。
そして、これらの生き物の死を目の当たりにしたことで「生」と「死」が相反する両極端なものではなく、裏表一体、隣り合うものであると悟る。
大怪我から助かった自分も、そこに必然性はなく、やがて静かな死を迎えることを受け入れ、静けさを胸に城崎を去る。
このプロットが簡潔で美しい日本語でまとめられている。
志賀直哉が、日本文学における「小説の神様」と呼ばれる理由がすこし分かった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ死と生を内省的に見つめる、静かな物語。
読書会の今月のお題がなぜ本作かを考えながら読む。
私小説の元祖ともよばれる志賀直哉。自分を見つめ、その自分を決して大仰にしない姿勢は、昨今の集団で暴走する国家や民族の姿勢を冷ややかに見つめることになるのかもしれない。
言文一致を標榜した明治以降の文学、小説は、一人称である「私」の処理をいかに模索してきたか。(『「私」をつくる 近代小説の試み』(岩波新書 安藤宏著)の中で語られている)。 その究極ともいえる、ひとつの形が志賀直哉の私小説だという。
「私」すらも存在しない。「自分」と称する文体が特異である。
しかも、その「自分」の経験のお話であるのに、自分を主人公にしていない。大仰に感情を語れば、それは演技になる。教訓を語れば、他人を動かす、ひいては世の中が自分中心に回ることになる。体験から人生観を語るようでは、悲劇の主人公になってしまう。そうしたことをことごとく回避して成り立っている。
(逆に、太宰治は悲劇の主人公となって、大仰に人生を語る)
この「自分」を消しても文章は通じる気がする。が、それでは日記と違いがない。日記のようではあるが、そこに「自分」という一人称を嵌め込んだところに志賀直哉の真骨頂があるのだろう。
➡読書会後の気づき
「自分」の使用頻度が、あるクダリを境に急増する。そこは、主人公(=著者)が、理性的な思考から本能的な感覚の世界へと転換した場面だった。なるほど、そう思って読むと、テンションがあがっているというか、戸惑いが見て取れる。
その主人公の「自分」、すなわち著者である志賀直哉が見つめるのは「死」であり、死を通して「生」をも意識させる。
鉄道事故で生き残った「自分」は、いまのところ「生」に属する存在だ。城崎温泉の宿で見た屋根の上で死んでいる「蜂」は、生に対する「死」の存在、そして串刺しで子どもらに追われる「鼠」は、「生から死」(あるいは、死にそうな場面から生を勝ち取ろうとする姿か)、そして、石で打たれる「イモリ」は、「生」を奪われる存在。その奪ったのは「自分」であるという関係性。
ただ、どれもが偶然のことであり、そこに、なんら因果応報、必然の繋がりがないという点描。
➡読書会後の気づき
無関係のようで、石があたったイモリが吹っ飛んだ距離四寸は、体長の4倍。これは、著者が山手線の事故で跳ね飛ばされた距離、身長の4倍、5-6mに符合しているという、なかなかの深読み。恐れ入った!
生と死を分けるのは、論理、倫理、必然、偶然なのかと、読者が自問することになる(作中の「自分」はその問いを発さない)。
死に対して「理由付け」を行うことは、生をゆがめ、死者を裏切り、現実を物語で粉飾することになると言わんばかりである。
故に、この作品には、物語もストーリーもない、起承転結がない、プロットがない、伏線がない。
西欧的な、往きて還えりし物語にしない、潔さ(を通り越した凄み)がある。なにも盛らない、短歌、俳句の世界であり、まさに東洋的な作品である。 (逆に、翻訳して西欧の世に問うても受けなさそう)
➡ 読書会後の気づき
実は、往きて還りし、ではないが、黄泉の国に落ちたイザナギのように、暗黒の世界に足を踏み入れる場面はある。イモリのクダリがそう。徐々に、周りの描写も明から暗へと転じていっている。
いかにも純文学、私小説の手本とも言える。
純文学は「意味を見出せなくても良い」、「分からないことが評価される」と、小川哲の対談ラジオや、著書の中で触れられていた。小川哲はこうも言う。「答えのある問いは、小説ではない」と。
つまり、答えは読者が探すものであると。
これは、まさに、なんでも答えをすぐに求めるIT時代の現代、あるいは西欧に対するカウンターカルチャーではないか。現代の価値に照らせば、この小説は役に立たつものではない。でも、価値はある。
これは平野啓一郎が『文学は役に立つか』と著書で触れていたこと。現代的価値観で「役にたつか?」ではなく、文学はその存在に「価値はある」と。
多くの点で、現代社会へのカウンターとなっている。
先日、動物学者二人の対談本を読んだ(『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極寿一 鈴木俊貴著)。
霊長類の脳を調べて、それぞれの種の脳で、高度な思考を司る大脳新皮質が占める割合に違いがあり、脳での大脳新皮質の割合は、群れのサイズと比例する、と。そこから導き出された人間の脳から判断される群れの人数は150人という数だった。それが、農耕が始めり、社会が形成される前の時代の集団の人数だった。
その後、農業革命が起こり社会が発展し、集団が生まれ、民族や宗教、国家というもので、集団を束ねる必要が出て来たけど、大脳新皮質は、そんな急に1万年やそこらで進化しない。
そこで、人は言葉を使って、物語を産みだし、それによって集団の意識をひとつの価値観で束ねようとした。
今の世の中も、その延長線上で、ありもしない物語に踊らされて、未来へ突っ走っているようなもの。
ここで、足を止めて、一度、自分を見つめ直す必要があるのではないか。他人と見比べない、不必要な共感を求めない。分断も、そもそも両極への寄り添いでしかなく、「個」の思想によるものではない。
生も死も、なんの因果もない偶然の賜物。それを「個」として静かに見守る。せめて、150人以下の集団の中で、ものごとを判断する。そうすれば、モノゴトの真実が、もう少し見えてくるのではないだろうか。
そんなことを思わせてくれる作品だった。
➡読書会後の気づき
「色使い」は、あった?!
青山墓地の「青」から、蜂の虎斑にあひる(のくちばし)の「黄」、そして「赤」は、イモリの腹だ!
『注文の多い料理店』と同様に、安全圏から危険地帯へと主人公は歩を進めていた?!(深読みし過ぎか・笑) -
Posted by ブクログ
「小説の神様」と称される志賀直哉の短編集。
一篇の頁数が短いので想像よりも案外読み進めやすかった。
だけど、志賀直哉の文体は「簡潔で無駄のない写実的な文章」が特徴ということもあり、多くを語らないのと読み手の想像に委ねる純文学なので読解力、感受性の乏しい私には、「もう少し語ってよ、描いてよ」なんて思ってしまう。
でも、その描かれていない余白を想像するのが純文学の楽しみかたなんだろうな。
面白く感じたのは、表題作の『小僧の神様』、『正義派』、『母の死と新しい母』、『流行感冒』の四篇。
『小僧の神様』と『正義派』は善事をしたのに、何故かモヤモヤが残る。
『小僧の神様』は仙吉と議員Aの認識のズレが面白い。
議員Aの「余計なことをしたかも」とモヤモヤする姿は今も100年前も変わらない。
『正義派』は真実を貫いた結果、誰も浮かばれない。
この作品は著者自身が山手線に跳ねられた実体験が深く関わってるようだけど、電車に跳ねられて平気だったのって凄いよね。
だからこそ、作品に凄みがある。
『母の死と新しい母』は実の母がただただ可哀想だ。母の死を理解できず、若くて新しい母にすっかり懐いてしまう、
子供の残酷なまでの正直さは読んでいて唸らされた。
『流行感冒』
コロナ禍の自粛警察を見ているようでゾッとした。
どこまでが安全でどこからが不謹慎なのか線引きが人により曖昧で、感染症により人間の嫌な部分が浮き彫りになってしまう様子はコロナ禍を彷彿させる
神経質だった主人が真っ先に感染してしまうという滑稽さには皮肉な笑いが出てしまう。
100年前の短編がこんなにも心をザワザワ、モヤモヤさせられるとは思わなかった。
著者にならってこの辺で筆を置きたいと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ表紙は城の崎にての沢蟹か。
小僧の神様と清兵衛の瓢箪はいつか読んだことがあった。知っていた小説だからかこの二つの小説は際立って優れたものであるように感じた。ひいき目すぎるか。
小僧の神様は二つの視点から進んでいく話を神の視点から把握することができるのが面白い。片方のみだとこの情緒は生まれないだろうなんてありきたりなことを考えた。小僧の無知さから生まれる勘違いが可愛らしい。
母の死と新しい母は志賀直哉の私小説らしい。たしかに主人公=志賀直哉自身の心情が素直に描かれているなと感じた。母の死に心を痛めるも新たな美しい母にも素直に心を開いていく様子が淡々とした状態の文章ながらもやさしく述べられている。
城の崎にても実体験らしい。読んでみるとなるほど城崎に行ってみたくなる。城崎にて静養中に見たものが述べられていくだけだがどこかに情緒を感じる。寂しさに魅力があるのだろうか、主人公の思索がただ述べられていて会話が無いことがこの小説の静けさを生み出している?友人と怪我の程度についての会話をした回想はあるが。考えなしな行動でイモリを殺してしまう残酷な場面にはぎょっとした。ふいに命は失われるのだ。突然石が降ってきたイモリともてあそばれて苦しむネズミ。電車にはねられた私は、紙一重で生きているが死んでいても脊椎リウマチになっていても全くおかしくなかった。 -
Posted by ブクログ
志賀直哉の小説は初めて読んだ。文豪の作品となると「難しい」という先入観が先に立つが、一編が10から20ページ程度の短さでとっつき易かったし、尚且つ読み易いのに深みを感じさせる文体が美しかった。
中学や高校の国語便覧の作者紹介で代表作として挙げられていた「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「城の崎にて」を、1冊で網羅出来たのがなんだか嬉しい。憧れの人にようやく会えたような不思議な感覚である。
善いことをしたはずなのになんだかもやもやした後味になったり、信じたいのに心のどこかでは疑ってしまっている自分を自己嫌悪したり、命の儚さに想いを馳せたり、身近な心理に材を取っていて共感を覚えた。 -
Posted by ブクログ
「清兵衛とひょうたん」「小僧の神様」「城の崎にて」など、有名どころが入っているので、初めてという方にはオススメ。
自分の中では今も昔も、「小僧の神様」が好きで、最後の但し書き?に至るまで、いいなと思う。
善いことをする方の、なのに全然胸がスカッとしなくて、逆にしなければという思いも。
小僧の、ただ素直に、これは大変なことだ、神様の仕業と思い、またそれを慰めにするところも。
皆、良い思いでいることに、ホッとする。
「クマ」という犬の話が、二作ほど書かれているが、外に出て行って、迷子になってしまったクマを見つけ、見つけられたクマも疲れ果てながら、志賀直哉への忠誠を深くするところが可愛い。
生きものの勝手気ままさを、私なんかは、ともするとイラッとしたり、つい自分の思い通りにしたくなるのだけど。そうではなくて、むしろその気ままさを楽しむ所があって。
でも、それはまた「城の崎にて」「家守」みたいな、酷く静かな問答にも、どこかで通じているような気がして、怖くもある。 -
Posted by ブクログ
9.25~9.29
高校の現代文で城の崎にて を勉強してから 少しだけ近代文学に興味があった。最近の若者は読書をしない。読書をしなさい。と父母、先生更には国語の評論文にも。流石に耳にタコができるわ!と思い何でもいいから1冊、と思って手に取ったのが志賀直哉。
ある日から読書に抵抗を持つようになっていたが、冒頭の小僧の神様を読んで一変した。主人公が少年、面白い内容。年齢に親近感も湧き、一瞬でした。
次の清兵衛と瓢箪。お金持ち、ということは聞いていた為書くことも上流階級なのかな…と思い…
少年の持っていた瓢箪、買った瓢箪って一体幾らなんぞや?と思い、簡易的に換算して衝撃を覚えたり…
ある意味、近代文学を読むにあたって簡単に時代ごとのお金や価値の勉強をしたら面白いなぁ…と。
和解も頑張って読みました。最初の1.2はほんとに読むのが辛かった…でも3あたりからだんだん面白い展開に。もちろん目を瞑りたくなるような場面もあった。でも最終的に和解を読み終えた時、どこか温かい気持ちになった。
主要にこの3つを紹介したかった。とにかく、何も読書をしなかった私に1歩踏み入れさせてくれた本だ。
他の近代文学も読んでみたくなった。 -
Posted by ブクログ
分厚さも薄いし短編集なので肩ひじ張らずに読める。
表題作でもある「小僧の神様」は文学史でも、志賀直哉=小僧の神様 的に学んだのでワクワクして読んだが、オチ…。最初にこの話が来たので始終こんな話かと思ったらそうではなかった。多分この著者は大恋愛を創作するタイプではなく、身近なこととか日常はそのままにその捉え方を工夫して話にするタイプなのかと感じた。多くの話は一見地味なようだが心のどこかがじんわり(話によってはひんやり)するような、そんな感じである。瓢箪はまた違うテイストだが。変なお涙頂戴だとか娼婦との一時の恋だとか、そんなのが出てこないので個人的には安心して読むことができた。