この本を読む人は多分、帯を見て、少しの覚悟をしなければならない。
『大切な人が生き返ったら――――あなたは本当に喜べますか?』
この文句が、この作品をこれ以上ないほどに物語っている。
50年前に8歳の息子を亡くした老夫婦の元に、その息子が還ってくる。
姿形、記憶、全てが息子そのものだけれど、どこか、何かが違っている。
妻は神の奇蹟だと信じて彼をほとんど無条件に受け入れ、夫は拒絶を示して距離を測りかねながらも少しずつ失われた幸せを取り戻していく。
だが、よみがえったのは息子だけでなく、この町、この国、この世界じゅうの人々で、そのために世界は混乱に陥る。
そのさなかで、老夫婦がとった行動が、この話の軸になっている。
読み始めの印象は、「キリスト教の視点から見れば、よみがえりというのはそういう意味を持っているのか」という新たな発見だった。
輪廻転生の考え方が染み付いているのか、私は最初、よみがえりというものに対してそれほどの疑問も恐れも抱かなかった(もちろん、現実には起こりえない、フィクションだからこそだが)。
生者として生活するとなると行政上の手続きが大変そうだな、という程度だった。
だが、聖書に基づいて考えれば、死者の復活は世紀末以外の何物でもない。
老夫婦の住むアルカディア――――アメリカの南部の小さな町――――の人々が早い段階で拒絶を示したのも無理はない話だ。
けれど、読み進めるうちに、その拒絶が決して宗教的価値観にのみ拠るものではないことに気付かされた。
帯の文句に加えて、私ならこう問う。
「隣人の大切な人だけがよみがえったら―――あなたは本当に許せますか?」
この作品の中で、帰還者たちを抑圧する者達の行いは、老婦人が怒りをあらわにしたように、正しいものではありえない。
けれど、もし、隣人の元にだけ奇蹟が起きたなら――――古来よりの数多の教訓話が示すのと同じように、「正しい行いではない」と分かっていても、「自分の大切な人は戻ってこなかった」という事実から目をそらすためだけに弾圧してしまう人がいても、決して不思議ではないのではないだろうか。
繰り返すが、決してそれは正しい行いとは言えない。
たとえ異質な存在でも、理解できない存在でも、生きている以上ある程度の尊厳は守られるべきだ。
それは間違いない。
けれど、だからといって、ただ「彼らは間違っている」とだけ言うのは、何か違う気がするのだ。
これは当然ながら、あくまで私の個人的な意見にすぎない。
けれど、是非この話を読んで、二つの問いについて考えてみえてほしい。
「大切な人が生き返ったら、ああたは本当に喜べますか?」
「隣人の大切な人だけが生き返ったら、あなたは本当に許せますか?」