石田勇治のレビュー一覧
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ネタバレヒトラーの台頭、いかにしてドイツ6600万人の人間が、自由、脳、生命を独裁者に擲ったかを歴史から学ぶ。前は「ボヘミアの上等兵」は世論の支持を得てドイツを手中に収めたと考えていたが、実態はもう少し複雑だった。
ヒトラーがレイシストであることはドイツ人誰もが知っており、彼に政権を握らせてはならないと考える人も多く、そもそも出身はオーストリアであり、国会でも第一党とはいえ1/3の議席も持っていなかった。なぜ彼がドイツを支配したか。それに答えようとしている。
ナチが議会政治を嗤っていたのは周知のとおりだが、ナチが政権を握る前に、すでに国会による議会政治は形骸化しており、ヒンデンブルク大統領による大統領緊急令政治になっていたのは知らなかった。
パーペン、無能と思っていたが、意外と計算高い。ヒトラーを政権に入れ、議会制を終わらせ、共産主義運動を撲滅し、再軍備の果にヒトラーを、追い出す気でいたそうな。そういうわけで、ヒンデンブルクはあまり信用していない「ボヘミアの上等兵」を政権に入れたというわけだ。
そして、政権に入るやいなや、共産主義者への弾圧が始まる。突撃隊の暴行に警察は取り締まらなくなる。大統領緊急令(議事堂炎上令)で、州の首相の解任すらおもいのまま。国民は、非常時には多少の基本的人権の侵害は仕方がなく、また弾圧されるのはコミュニストのような危険思想の持ち主だけだからということで、体制側に付けば安泰だし関係ねえと考えていた。
ホフマンの撮影した写真、民衆宰相としてのヒトラー、恐ろしいことにヒトラーという狂人が人の良いオッサンに見える。おぞましい。
ヒトラーさん、まじで擁護できる点が一つも見当たらない。アウトバーンもヒトラーの手柄ではないし、失業対策も失業者を一時的にボランティア活動させ失業状態でないことにするという有様。
ヒトラーはもともと(戦前)、ユダヤ人の追放を考えておりユダヤ人の絶滅までは考えていなかったというのが面白い。確かに戦前は人権侵害レベルの弾圧はあれど、クレマトリウムでの大量殺害は行っていないはずだ。ところが戦争において発狂した(もとからしていたが)ヒトラーが、敵国=ユダヤ人と勘違いし、歴史上最悪の人災が起こった。
一応のカリスマはフランス降伏まで保てたが、そこからが最悪だった。カリスマ的支配はその構造上、指導者が不断に英雄的業績を上げる必要がある。戦時下の敵国降伏はまさしくそれ。おそらくヒトラーがギリシャ、ユーゴスラビアなどを侵攻した理由には(当然地政学的なものがメインだろうが)カリスマ性の維持という側面があるのではないか。そう考えるとあらゆる人間が失敗する以上、カリスマ的支配は支配体制としては下策に当たるかもしれない。
カリスマ的支配が死ぬまで続いた例は何があるだろうか? ナポレオンは違うだろう。ヒトラーは言わずもがな。チトーはイケそうか? 秀吉は? 後で調べるべきか。 しかし直感的に、カリスマ的支配の支配者が死んだ後はひどいお家騒動や内乱が起こりそう。やっぱこの支配体制だめだわ。 -
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面白かったー!!!ナチスが政権を得ていく過程や、ホロコーストに至った過程などが時系列で丁寧に説明されていて、断片的な知識が一体になった感があります
以下 初めて知ったことや印象的だったこと(ネタバレかも?)
・政権獲得の過程で農民にアプローチした(ここだけ見ればトランプ氏の政権獲得過程とも似ているような)
・大衆に言葉でアプローチするため弁士を輩出するための学校を作った
・ヒトラーの効果があったとされる経済政策の絡繰(実際は前政権の政策の効果(企業減税を柱とするパーペンプランなど)だった、そもそもヒトラーが政権とったころには割と経済は回復傾向にあった、女性を家庭に追いやったり若者を軍事訓練に組み込むことで失業者の数字を減らす、アウトバーン構想はヒトラーが発案したのではなく前々からあり、なんならナチ党は野党時代に反対していたなど…)
・ドイツ国民がヒトラーに反対しなかった理由
(そもそもユダヤ人は国民の1%にすぎない、ヴァイマル政権下における分裂ぶりに幻滅していた、ドイツの国際的な地位をせめてイギリスフランスと同等の国家にしたい、など)
・当初はユダヤ人を殺すというよりは、マダガスカルなどに追放したいと思っていた
・ユダヤ人がなかなかドイツから出て行かなかった理由(楽観的予測、国際世論への過度な期待、逼迫した経済事情、諸外国の受け入れ制限)
・エヴィアン会議で米英仏瑞などがユダヤ人受け入れを協議したが、米は関心はあるが経済的理由で受け入れられず、他も経済事情などでユダヤ人受け入れを嫌がった -
Posted by ブクログ
ネタバレヒトラーが政権を取りやがて戦争とホロコーストへと進む、ドイツで起こったことの全体の流れを知ることができ、読みやすかった。
どうして国民の支持を得ることができたのか、どんな政策を掲げてどう独裁者となったのか、本書を読むことで疑問点はある程度解消された。入門書のような感じだろうか。ここで生まれた問いは、また別の書籍で詳細を読みたいと思う。
ヒトラーが排除すると決めた人々が連行されたあと、「治安が良くなった」と国民からは好評だったという話がグロテスクだった。
ヒトラーの暴走を止められるポイントが歴史上にいくつかあったのだろうか。ヒトラーの政治思想にはオリジナリティが見出せないと書かれていたが、同様の思想は共有されていたのだとすると、いずれ権力は持ったのかもしれない。
よく学んでいなければ分岐点を見逃してしまう場面はいくらでもあり、早い段階で抗議するということの大切さがわかったような気がした。 -
Posted by ブクログ
怠惰で自堕落だったヒトラーがどのように世に出てきたのか、そしてどうやって総統(それまでの大統領職と首相職を統合した地位)という独裁者の地位を手に入れたのか。本書は、ヒトラーとナチ党を中心に追っていくドイツ近代史です。学校の勉強だけでは隙間だらけだったその知識の空隙を埋めてくれる内容でした。
前半、ヒトラーが徐々に実力や名声を得ていくところ。ヒトラーやナチスのようなとんでもない悪行をやった人たちであっても、その躍進していくさまには面白みを感じてしまうのでした。へこたれず、ときに無鉄砲で、暴力に訴えて、なのだけど、活きたエネルギーが渦巻いているんですよ。ただやっぱり、そこにある危険な香りとして、時代なんだろうけれど、アクセルを踏みすぎる空気感・社会環境があったような、そんな印象を受けました。「押せ押せ」なんです。今もありますけれども、パワーこそが最高というマインド。そういったアクセルに対して、制御系は大事ってなんですよね。
ヒトラーが総統となるまでの道程がもうすごかったです。劇的だし、ゆえに、さらに果てしない熱狂を生んでしまう物語になっている。若い頃のヒトラーは、セコくて小狡く、カリスマ性なんてないのに、弁論の才能が隠されていて、それを見出して育てた人がいました。そのあとは邁進するのみという感じ。
ヴァイマル共和国時代の首相になったところまでの部分では、ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領や保守派側近の目論見としては、ヒトラーを利用して用が済めば失脚させればいいとし、まったくもって高をくくっていたそう。ナチ党の勢いはそのころ下降を見せていた頃で、反対に共産党の勢いがかなり増していて、ヒンデンブルク大統領らは共産党の勢いを削ぎ、議会制民主主義を終わらせて立憲君主制に戻すためにヒトラーを利用しようとした、と。でも、国民的な支持が強くて国民支持政府となったのがまず誤算だったようです。いったい、ヒトラーはどこまで考えていたのだろう?
ヒトラーが人気を集めたのは、演説能力がずば抜けていたのと、それとともに、民衆と情緒的につながるという戦術がうまかったからみたいです。政治家と民衆が情緒的につながるのは危険ですよね。政治家は強い権力を持っているわけだから。ここはこの時代から得る大切な教訓です。
ヒトラーとナチ党の一派は、駆け引きや政治力が優れていて、そのうえ「天の時」とでもいうような天運に恵まれているところがあります。ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領という人物自体が、議会制民主主義を嫌っていたわけですが、その部分だけだとヒトラーを利害が一致するわけです。そして、ヒトラーは迅速に大統領の望むような国の仕組みに変えていく。それによって、大統領はヒトラーを信頼するようになり、高齢のために亡くなるのですが、そのときにはヒトラーによって、大統領が亡くなった暁にはヒトラーが総統となる、という法律を作ってしまっている。ほんとうに、頭を使って、用心しながら周到に立ち回るんです。
ここからは、ヒトラー及びナチ党の大罪であるホロコーストについてになります。
559万6000人。これは、ヒトラーを頂点とするナチ・ドイツによって虐殺されたヨーロッパ中のユダヤ人の人数です。この虐殺はホロコーストと呼ばれますが、ナチ・ドイツでホロコーストがどのように行われていったのか。
最初は、とある重い精神病患者の父親が、どうにか息子を安楽死させてほしい、と嘆願したことがきっかけでした。この嘆願が受け入れられた後、他の重症精神病患者も同じように安楽死させたほうがいい、となって、ドイツ全国で安楽死させられることになります。これについてはカトリック教会の神父の講義の演説によって表向き中止となりました(裏ではしばらく行われたとのことです)。この重症精神病患者へ安楽死政策に従事した医師や看護師などは、その後、ユダヤ人強制収容所に異動させられます。ノウハウをもったスタッフとして使われたのです。
1938年の水晶の夜(ドイツ全土でユダヤ人を襲ったナチ党の計画的犯罪事件)以降ユダヤ人迫害弾圧は公然のものとなり、激しさや酷さが増していきます。それから、1941年のソ連戦にて親衛隊主導で虐殺が始まります。ゲットーに集めらたたくさんのユダヤ人たちの中で疫病が発生しているなか、餓死させたり銃殺したりするより、安楽死が人道的だと結論されて、そこから強制収容所での虐殺が始まる。
こういうふうに連鎖していったことを知りました。ヒトラーの思想からなるナチ党の考え方や方向性がそもそも大問題なのだけれど、きっかけとして、とある重症精神病患者の父親の苦しみから来た嘆願があったことが心苦しいです。時代ってどう転んでいくかわからない。
ほんとうにヒトラーの闇が深いんですよ。行き止まりに突き当たったら、惨劇を選ぶ。そしてだんだんそれに慣れていく(裏面の闇が表面にどんどん滲み出てくる)。
レイシズムと優性思想が大きくナチ党の根本にありますが、人格が未熟なうちにこういうのに触れてしまうと飲み込まれてしまう気がします。優性思想なんか、現代でもそこらで誰かとちょっと話をしたときにその相手からするっと出てきたりすることがあるくらいですし。僕も学生の頃くらいまで、どっちかといえば、優性思想寄りの考え方だったと思うなあ。
といったところで、ここからは引用を。
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ヒトラーは、若い頃から、共感する政治家や思想家の著作、極右団体の冊子・パンフを手あたり次第読みあさって自分の世界観をつくってきた人物だ。ランツベルクの監獄ではハウスホーファーのような学者のレクチャーも受けている。大衆を焚きつけるためには、専門家の議論を卑近な言葉づかいに書き換えることが必要だ。そうしてこそ、言葉は政治的武器となる。『我が闘争』が成功を収めた鍵はこの点にあった。(p74)
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→人気がありながらもまだナチ党の顔に過ぎなかったヒトラーが起こし、失敗に終わった「ミュンヒェン一揆」と呼ばれるクーデター。そのあと、ヒトラーは裁判で有罪が下されながらもランツベルク監獄で自由に暮らすのですが、ここで解説されているのは、その頃に学者のレクチャーを受けて自身の思想や知見の底上げを成し遂げたことを含めた、ある種の知的好奇心に満ちたヒトラーの側面についてです。本書を読み終えると自然とイメージが出来上がっていくのですけれども、ヒトラーのユダヤ人に対する妄想と執着はほんとうに異常で、憑りつかれるどころか人格と一体化している感があります。引きはがすのが残んだけれどおそらく無理ではないか、というくらいにユダヤ人陰謀説を信じ込んでいる。そして、そういった妄執を源泉として作り上げた思想と巧みな演説で、ドイツを席巻してしまった。
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(※いわゆる基本的人権、つまり住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由などがナチスによって禁止されたがどうして人々は反発しなかったのか→)「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離を置いてきた人びとの態度を変えていった。(p168)
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→ドイツ国民は、基本的人権が停止されて反発するのではなく、ナチ党へ入党する方向へと舵を切った者が大きく増加していったそうです。ナチ化が進んでいったのです。そこには、政治弾圧に当惑しながらも、あきらめ、事態を容認するか、そこから目を逸らしたからである、と著者は述べている。
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(ナチ政権前の)ヴァイマル期のドイツは、国民の生存権を定めた共和国憲法のもとで福祉国家への道を歩みだした。社会福祉が拡充し、病院や保健所ではソーシャルワーカーが活躍するようになった。しかし世界恐慌が起きると状況は一変し、経費の削減が求められるなか、万人に平等な福祉のあり方を問い直す声があがった。ヒトラーも、そのような考えを持つ政治家のひとりだった。(p261)
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→現代日本でも、不況による格差や貧困が著しく感じられるようになった昨今、こういった「万人に平等な福祉のあり方を問い直す声」を、たとえば僕なんかはネット上で見ることがありますし、ニュース記事を通して知ることがあります。介護が必要になる老年の人たちを排除したらいいとする言論、生活保護受給者に厳しくあたる一般人の声や、役所の生活保護係による邪険な態度にさらされる人たちがいるという話がそうです。僕の考えでは、ここは最後まで粘る分野ということになります。早い段階で簡単に切り捨てるべきではないし、そのためには多くの人たちが「どうしたらいいのか」をよく考え続けることが大切なのではないか。ヒトラーの場合では、自分の思想が中心なので、簡単に切りすてた上で、自分の思想に都合よく利用していきます。危機感を煽って正当化していくといった具合に。
以上です。本書はまとまりがよく、密度は濃いですけれども、端的な記述の仕方によって、読み手としては内容に没頭できて読み進められる本でした。語りつくそうとすると、本書一冊丸写しになってしまうので、こういった体裁の感想中心のレビューになりました。すべてを吸収しきれていませんが、教訓とするべき箇所は数多かったです。おすすめです。 -
Posted by ブクログ
ヒトラーについての研究書。上下巻で1500頁にもなる大作で、出典も明確である。ヒトラーに対する批判的コメントも多いが分析は精緻で参考となる。時間の経過に沿って書かれているため、ヒトラーがどのように感じ行動してきたのかを実感できる。勉強になった。
「疑念を抱いていた者の多くも、予想をはるかに超える規模で国内が再建され、対外的にもドイツの強さが再び主張されたことで、ナチ体制の支持に転じた。めざましい国内の再建や対外的な威信回復は想像を超えるもので、失われた国民的誇りの多くを取り戻し、第一次大戦後に残された屈辱感を癒したのである。大多数の国民は、権威主義を天の恵みととらえ、政治的な逸脱者、好まれない民族的少数派、社会的異分子に対する弾圧は、国民的再生と見なされたものに比べればささいな代価として受け入れられた。大衆の間でヒトラーへの賛美がますます高まり、反対派が粉砕されて影響力を失うにつれて、ユンカー、産業界、官僚機構の上層部の実力者たちは、ナチ体制を支持するようになった」p17
「民衆は、魅惑的なプロパガンダによって完全に洗脳されたのでも、催眠術にかかったのでもなく、容赦ない弾圧を恐れて、服従させられたわけでもなかった」p19
「(1936年)選挙では投票者の98.9%がヒトラーを支持した。それが操作された数字で、背後にどんな巧妙なプロパガンダと抑圧があったにせよ、1936年3月にドイツ国民の圧倒的多数が、ヴェルサイユ条約のくびきを振り払うヒトラーのこれまでの行動と同様,彼がラインラントでドイツの主権を回復したことに大喝采を送ったのは間違いない。それはヒトラーにとって外交・内政上の大勝利となり、その独裁の第一段階のクライマックスとなった」p27
「ヒトラーの勝利は、第一次世界大戦後のヨーロッパの大国であるフランスとイギリスの弱さを白日の下にさらした。ヒトラーは、対戦後の欧州秩序の柱であったヴェルサイユ条約とロカルノ条約を破棄しながら咎めも受けず、国際政治におけるドイツの威信回復と新たな存在感をアピールしたのである」p27
「ヒトラーは約束通り、再軍備は急速にテンポを上げていた。1935年3月には、ヴェルサイユ条約にさらに違反する空軍の存在が発表されたが、国外から避難の声は上がらなかった。意外にも、イギリスは1935年6月に、英国海軍の35%の海軍力の保有を認める海軍協定をドイツと結び、ヴェルサイユ条約を損なうのに進んで手を貸したのだった」p29
「大企業の指導者は、目下の困難や予想される将来の経済問題について個人的な疑念を抱いていたが、ヒトラーが左翼政党と労働組合を打破してくれたことに感謝していた」p30
「ナチを明確に批判したのは、少数の例外的な人物だけだった」p31
「ヒトラーへの支持は本物で、それを超える大きな広がりをもっていた。いかに不平を並べようと、1936年夏には大多数のドイツ人が、何らかの観点でヒトラーを支持していた。外交上の勝利によって、圧倒的多数の人びとがヒトラーの指導のもとで団結した。総統への賛美は広く行き渡っていた。平凡な日常生活のレベルでも、多くの人々がヒトラーはドイツを一新したと考えた。それはまるで奇跡のように思えた」p31
「わずか3年で、ヒトラーはドイツを惨めさとヴァイマル民主主義がもたらした社会の分裂から救い、ドイツ国民のために壮大な未来へ向かう道を敷いたように思われた」p32
「(ベルリンオリンピック)何より重要なのは、ヒトラーのドイツが世界中からの訪問者に開かれていたことである。大多数の人びとは、強い感銘を受けて帰国した。「私は、ナチのプロパガンダが成功したのではないかと危惧している。第一に、彼らは競技をかつてないほどに盛大に運営し、それが選手たちに強い印象を与えている。第二に、彼らは一般の観光客、とくに大企業の実業家に対して、きわめて良好な外面を装っている」と米国のジャーナリスト、ウィリアム・シャイラーは書いている」p46
「(ドイツ将官たちの反対)将官たちは、ヒトラーの軍事分析の欠陥を指摘した。いかなる場合もドイツは英仏と戦争すべきでないというのが、彼らの指摘の要点だった」p86
「政治家になってからのヒトラーの使命は、国内外のドイツの敵を滅ぼし、国民の偉大さを取り戻すことによって、1918年の敗北と屈辱の汚点を拭うことだった。ヒトラーはこの使命は武力によってのみ成し遂げられると、1920年代に多くの場で明言していた。それが意味したのは覇権を求める戦争で、それは避けられないリスクだった。「ドイツは世界強国となるか、それとも滅びるかだ」とヒトラーは『わが闘争』に書いた。この使命に対する熱烈な信念は、年月を経ても微塵も変わらなかった」p101
「(オーストリアの併合)西欧諸国がまたしても傍観して動かず、「われらの総統が血を流さずにそれをやり遂げた」ことが明らかになるや、ヒトラーがもたらした「ドイツの奇跡」が「あらゆる場所での熱烈な興奮」と称されたものを解き放った」p124
「(ユダヤ人の追放先)パレスチナに加えて、エクアドル、コロンビア、ベネズエラが候補に上がったが、それらは当時どれも実現しなかった。それらの提案は、後に改定されるかつてのマダガスカル計画と本質的には同じだった」p172
「反ユダヤ政策には調整が完全に欠落していた。ヒトラー自身はほとんど関与しなかった」p183
「もしヨーロッパ内外の国際ユダヤ金融資本が、諸民族を再び世界戦争に突き落とすのに成功するようなことがあれば、その結末は世界のボリシェヴィキ化、つまりユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となるだろう」p190
「派手な催し全体が舞台裏で入念に演出されたものであったとしても、大衆の間でヒトラーが純粋な人気を博し、多くの者が神格化に近い感情さえ抱いていた事実は否定できなかった」p222
「ヒトラーの成功は、党ではなく、国民の指導者のものとして前面に押し出され、ほとんどのドイツ人がそれを誇りに思うことができたのである」p223
「「私はドイツの混乱を克服した。秩序を回復し、われらの国民経済の全部門で途方もなく生産を高めた」とヒトラーは4月28日の国会演説で主張した。「私は、われら皆の大きな懸念だった700万人の失業者を残らず有用な生産活動に復帰させ、あらゆる困難を排してドイツの農民を自分の土地にとどまらせ、彼らの土地を守り、ドイツの貿易を再び繁栄させ、運輸を著しく発展させた。私はドイツ民族を政治的に統合しただけでなく、軍備も整えさせた。私はさらに、ヴェルサイユ条約を1ページ、また1ページと破棄しようとした。その条約は448の条項に、諸民族と人類に加えられた最も卑劣な侵害を含んでいる。私は1919年にわれわれから奪い取られた地域をドイツ国に取り返した。私はわれわれから引き離されれ、不幸のどん底にあった数百万のドイツ人を故郷に連れ戻した。ドイツの生空間の一千年の歴史的統一を回復した。そして私は、これらすべてを血を流さず、わが民族やその他の人びとに戦争の苦しみを強いることなく成し遂げようと努力した。私はこれを、21年前には名も無き労働者でわが国民の兵士であった者として、私自身の力によって成し遂げたのだ」」p223
「勝者は後で真実を述べたか否かを問われることはない。戦争が始まり、それを遂行する段になれば、正義ではなく勝利が問題なのだ。憐れみを捨て、情け容赦なく行動せよ。8000万の人間がその権利を獲得する必要がある。彼らの生存を守らねばならない。正しいのは強者だ。最大限の非情さを発揮せよ」p246
「第一次世界大戦を記憶している多くの人びとが数年来恐れてきた西側との戦争は、ほとんど避け難い状況となっていた」p259
「国際的には、第一次世界大戦後のヨーロッパの戦後体制がもろくなければ、ヒトラーの脅しとゆすりが効果を発揮することはなかっただろう。ヴェルサイユ条約は,「ゆすり屋にとっての拾い物」だった。それはヒトラーに要求を釣り上げる根拠を与え、要求は1938年から39年にかけて急激にエスカレートした。ヒトラーはわめき散らし、誇張しているかもしれない。だが、ヒトラーの主張にはいくらかの真実が含まれているのではないか、と英国の人びとは考えた」p262
「イギリスは結局ポーランドのために戦争はしないという絶対的確信から出ていたリッベントロップの自信は、疑いなくヒトラーが誤算を犯す一因となった」p264
「ヒトラーの基本的なメッセージは「闘争」だった。国民の生存、つまりドイツ国民の将来は、「生空間」を獲得することによってのみ保証されると、ナチズムの指導者ヒトラーは15年以上にわたって説いてきた。そしてそれは武力によってのみ獲得できると、繰り返し主張したのである」p273
「ヒトラーが直接指示を下すことはなかったにもかかわらず、「人種的純化」という目標はめざましく推進された」p273
「ドイツでは人口のごく一部にすぎなかったユダヤ人は、ポーランドにははるかに多数居住していたうえ、生まれ育った国で多くの住民から蔑視されていた」p274
「(反ユダヤの措置)占領支配の計画者や組織者、思想的基盤を提供する理論家、それに親衛隊指導部の高官は、ポーランドを実験場と見なしていた。彼らは多かれ少なかれ、望む措置に着手する白紙委任状を与えられていた。総統が示した未来像は、彼らが必要とした正当性を付与した」p274
「ポーランドの占領は帝国主義的な征服で、ヴェルサイユ条約の修正ではなかった。新たな編入市域の住民は、前例のない残虐な扱いを受けた。それがはらんだ近代的形態の野蛮性は、過去数世紀で最悪の粗暴な征服を思い起こさせ、そのやり方はそれ以上恐るべきものですらあった。新しい支配者の粗野な見方によれば、かつてのポーランドは東欧における植民地も同然の存在だった。その資源はほしいままに略奪でき、住民は好きなだけ残虐に扱ってよい劣等人種と見なされた」p279
「大戦前のポーランドでは、総人口の3%を占めるドイツ人マイノリティに対して紛れもない差別が存在し、1939年夏の危機にそれが一気に先鋭化した。ドイツ人は、経済的にも不利な扱いを受けていた」p281
「ポーランド側は、ドイツの侵攻後直ちに、約1万5000〜2万のドイツ人を逮捕し、強制的に東方へ行進させた。行進に付随した残虐行為は、後にプロパガンダ目的で著しく誇張されたが、囚人たちは実際にしばしば殴られるなどの虐待を受け、ポーランドの町や村を通る際に、現地住民の暴力にさらされた。歩けなくなった者が射殺されるケースもあった。少数派のドイツ系住民に対する暴力は、多くの場所で発生した」p281
「(ポーランド人に対する虐待)憎むべき敵と劣等な民族の軍事的征服に付随する現象で、遺憾ではあるが不可避なものだった」p286
「対ポーランド戦の勝利はドイツの威信を高めた。だが、あらゆる歴史的な成功は、更新されねばまた色褪せる」p303
「1940年から41年にかけて、ヒトラーは権力の絶頂にあった」p324
「(フランスへの侵攻)ドイツ軍の攻撃は息をのむ速さで進められ、世界を驚愕させた。ヒトラーと彼の軍事指導者たちでさえ、そのように迅速な大勝利は思いもよらぬことだった」p332
「(5月10日攻撃開始)5日後にオランダが降伏し、5月18日ベルギー軍は無条件降伏した。そして、フランスの手薄な防衛戦を打ち破り、早くも5月13日にはマース川を渡った。5月20日から21日にかけてドイツ軍は220km以上を進軍し、チャネル海岸に到達する」p332
「(戦線の拡大)制御を失いつつあったことは、ヒトラーの権威が減じたことを意味したのではない。それはヒトラーの権威の本質が、統治につきものの衰退と侵食をもたらしたこと、それと同時に、ますます拡大し、複雑になる帝国統治の諸側面を把握し続けるのを不可能にしたことを示している。たとえヒトラー以上に有能で精力にあふれた、勤勉な人物が政権に就いたとしても、それをやりこなすことはできなかっただろう」p348
「体制内の急進化はヒトラーの個人的関与を超えて進んだ。ヒトラーの「未来像のために働く」ことは、体制内部の権力闘争を勝ち抜くための鍵だったのだ」p351
「それでも1940年春までに、12万8011人のポーランド人とユダヤ人が、恐るべき状況下で強制移送された(反ユダヤ強硬派-アイヒマン、ヒムラー、強制移送反対-ゲーリング)」p355
「マダガスカル(ユダヤ人強制移送)計画は1939年の年末には停止され、二度と復活することはなかった」p359
「不完全で実行不能な計画にヒトラーが示した性急な支持(同意)は、1940年には彼の反ユダヤ主義政策への関与が表面的だったことを物語っている。その年ヒトラーの主たる関心は明らかに他の問題、すなわち戦争の戦略に向いていた。さしあたり「ユダヤ人問題」は、ヒトラーにとって二次的問題にすぎなかった」p359
「急進化する反ユダヤ主義政策の先頭に立ったのは、とくに親衛隊と公安警察の指導部だった。この時期のヒトラーは、部下の誰かが提起した特別な問題への対応を迫られぬ限り、「ユダヤ人問題」にさほど大きな関心を抱いていなかった」p360
「(反ユダヤ政策の白紙委任状)ヒトラーは、積極的な役割はほとんど果たさなかった。しかし彼が包括的な認可を与えたことで、旧ポーランドの占領地域では、ジェノサイドの前提となる状況と精神的素地が醸成されていった。そこでは全面的なジェノサイドが、一歩先まで迫っていた」p361
「ヒトラーは当時,日本とのいかなる正式な同盟の締結にも、東南アジアでのフリーハンドを与えることにも反対していた」p362
「ロシアとイギリスが手を結ぶという噂について、次のように言った。座して待つのは危険だ。しかし、もしロシアを方程式から排除すれば、欧州大陸でドイツを打破するイギリスの望みは消え失せるであろう。そして日本はソ連に背後から攻撃される不安がなくなり、米国の介入はより困難になるだろう」p371
「われらは、1941年に欧州大陸のすべての問題を解決しなければならない。というのも42年以降には、恐らく米国が介入する状況になるからだ」p371
「共産主義者はこれまでも、そしてこれからも仲間ではない。これは絶滅戦争なのだ」p376
「正しかろうが不正だろうが、われらは勝利しなければならぬ。そして勝利してしまえば、そのやり方をわれらに問う者などいようか」p376
「ロシアは軍事的脅威ではない。劣った将校団に加えて装備も訓練も劣悪なロシア軍は、「われらの脅威にまったくなり得ない」と、ヒムラーは断じた」p378
「ヒトラーの観点からは、ドイツに待つ余裕はなかった。彼の目にはロシアが脅威と映っており、それは翌年以降には増す一方に思われた。ドイツ軍の迅速な攻撃によって脅威は取り除かれ、米国の参戦頼みのイギリスの希望も打ち砕かれるだろう」p378
「他方で主導権を失うことは、ヒトラーの考えによれば、自身とドイツの行動の自由を徐々に奪うことになる。そうなれば戦争に敗北するだろう。ドイツは機会を逃してしまう」p378
「大攻勢の準備が具体化しつつあるなかでヒトラーは、ムッソリーニのお粗末な計画に基づく1940年10月のギリシア侵攻がバルカン半島で生み出した危険な状況と、イタリアの軍事的な無能さが北アフリカでもたらした帰結を、挽回することに心を奪われていた」p382
「1941年1月20日午後、ヒトラーはドイツのギリシア介入の開始について、軍事専門家の前で約2時間演説した。「ヒトラーはギリシア問題をもっぱら技術的な観点から扱い、一般的な政治情勢に関連づけた。私は彼がこれを並はずれた巧みさでやってのけたと認めねばならない。われらの軍事専門家は感服した」と、チャーノは記述している」p382
「悲惨な1941年1月の間に、リビアにおける戦闘で約13万のイタリア兵がイギリスの捕虜となった。北アフリカで、イタリア軍が総崩れとなる事態を覚悟しなければならなかった。ヒトラーは2月6日、枢軸のためにイギリスの進軍を阻止し、トリポリタニアを死守すべく抜擢した将軍に指令を与えた。それはエルヴィン・ロンメルで、彼は卓越した戦略とはったりを組み合わせ、1941年後半と42年のほとんどの時期を通じて、イギリスに対する形勢を逆転させ、英軍を北アフリカで食い止めることになる」p383
「3月17日、ハルダーはヒトラーの発言を記している。「スターリンが登用した知識階級は抹殺しなければならない。ロシア帝国の支配機構は壊滅させることが必要だ。大ロシア地域では、残虐をきわめた暴力行使が必要だ」。ヒトラーは、より包括的な「民族浄化」政策については一言も触れていない」p390
「ヒトラーが望んでいたのは、遅滞なくシンガポールを攻撃するよう日本を説得することだった。バルバロッサ作戦が差し迫る中で、それはイギリスを極東に縛りつけ、シンガポールの喪失は、いまだ敗北を知らぬ同国に破滅的打撃を与えるだろう」p398
「ヒトラーは後に松岡を「米国の聖書宣教師の偽善と、日本的、アジア人的な狡猾さを併せ持つ」と評した」p398
「ヒトラーや軍指導者は、冬が始まるずっと前にソ連との戦いは終わると確信していたのである」p403
「(ヘスのイギリス亡命)アウクスブルグでメッサーシュミット110型機に乗ったヘスがイギリスへ向けて飛び立ち、行方をくらました」p403
「独ソ戦での攻撃は史上最も激烈なものとなるだろう。ナポレオン遠征の轍を踏むことはない。ロシアはドイツ軍にほぼ匹敵する約180個ないし200個師団を擁しているが、質では比較にならない、とヒトラーは言った」p418
「6月21日、ヒトラーは疲れ果てているように見え、極度に神経質になって行ったり来たり、気を揉み、ドイツ軍の勝利を告げる声明を口述させた(独ソ戦開始は1941年6月22日)p420
「1941年6月末、ドイツ軍はビャウィストクとミンスクを包囲した。その結果、ソ連側は32万4000人の赤軍捕虜、3300両の戦車、そして1800門の大砲が捕獲ないし破壊されるという驚くべき被害を被った。2週間余り後にスモレンスク攻防戦が終結すると、これらの数は倍増した。侵攻作戦の2日目、撃墜されたか地上で破壊されたソ連軍機を2500機と見積もっていた。ゲーリングがこの数字に疑念を呈すると、それらの統計は再確認され、実数は200〜300機多いことがわかった。1ヶ月後には、破壊された航空機は7564機に上がった。7月初めまでにソ連の164個師団のうち89個師団が全滅ないし一部破壊され、戦闘可能な状態にあるのは赤軍の29個戦車師団のうちわずか9個師団のみと算定された」p432
「生存とは残酷なものだ。生まれ、生き、そして死ぬ。それはいつも殺すことなのだ。生まれた者は必ず死ぬ。それが病気によるものだろうと、事故だろうと、戦争だろうと同じことだ」p437
「ソ連軍の師団は、たしかにわれらの基準に沿った武装や装備を備えておらず、その戦術指導はしばしばつたない。だが彼らはそこにいる。そしてわれらが彼らを12人打ち倒すと、ロシア人はただ別の12人を補充する。広大な幅に奥行きなく間延びしたわれらの部隊は、それで繰り返し敵の攻撃にさらされるのだ」p444
「甚大な損失にもかかわらず、ソ連軍は壊滅にはほど遠かった。彼らは、無尽蔵に見える兵員や原料を補充し、宣言された「大祖国戦争」で侵略者に対して必死で戦い続けていた。ドイツ側の損失も無視できなかった」p449
「(1941年9月24日)ヒトラーがシュポルトパラストに来るまで向かう通りには、歓声を上げる群衆が立ち並んだ。広々とした体育館で、ヒトラーは熱烈な歓迎を受けた。演説終盤になると、ほとんどすべての文句が、拍手の嵐で中断された。長いブランクにもかかわらず、ヒトラーは演説の才を失ってはいなかった。シュポルトパラストの聴衆は演説が終わると一斉に立ち上がり、陶酔して大喝采した。ヒトラーはこのような歓待に感激した」p464
「ヒトラーは「水晶の夜」の後にユダヤ人を区別する印の導入を求められた際、それを却下していた。しかし今、彼は新たな圧力を受けて方針を変えた(1941年8月)」p502
「戦争が終わり次第、解体されたソ連で手に入る領域にユダヤ人を追放することだった(戦争が終結しないため、アイヒマンはユダヤ人の射殺を提案した)」p505
「ユダヤ人への復讐と報復は、ヒトラーの同期の中で常に大きな役割を演じていた。しかし当初、ヒトラーは躊躇していた。彼が即座に見せた反応は、この問題を外務省に照会することだった」p507
「ベウゼツでは1942年春、アウシュヴィッツでは夏に、大量虐殺が開始された」p513
「ハイドリヒはユダヤ人の東方移送に関するヒトラーの白紙委任状を、殺戮作戦をヨーロッパ全域に及ぶジェノサイド構想へと拡大するのに喜んで利用した」p522
「1941年6月22日にソ連侵攻に加わった320万の兵員のうち、これまでに100万人以上が死亡、ないしは捕虜となるか行方不明で、陸軍師団のうち3月末に完全な動員が可能だったのはわずか5%だった」p542
「(1942年)お粗末なソ連の諜報活動のせいで、ドイツ軍が攻撃した時、ロシア軍はまたしても不意を突かれた。5月19日までにケルチ攻撃は大方終了し、15万人の捕虜と大量の略奪品がドイツ軍の手に落ちた。ハリコフでもソ連の3個軍が壊滅し、20万人以上の捕虜と膨大な戦利品を獲得できた」p542
「9月8日、ヒトラーはリストを解任し、当面、自らA軍集団の指揮を執ることにしたのだ。いまやヒトラーは国防軍最高司令官であり、3軍の1つである陸軍総司令官であり、その上さらに、陸軍の1軍集団の司令官も兼任することになった」p559
「燃料と弾薬を欠き、数で圧倒的に優勢な敵軍を前にしたロンメルは、11月2日に始まった新たな猛攻撃で、モントゴメリーの戦車がドイツ軍の前線を突破するのを食い止められなかった」p564
「スターリングラードの戦いでドイツ軍の21個師団とルーマニア軍2個師団のうち、約10万人が命を落とした。さらに1万3000人のドイツ将兵とルーマニア将兵が捕虜となったが、そのうち生きて祖国の土を踏んだ者はわずか数千名だった」p576
「(1943年5月)その頃には枢軸軍が退去して降伏していた。5月13日、北アフリカで100万人の兵士のうち約1/4が降伏した。それは連合国軍の手に落ちた捕虜数としては開戦後最大で、半数がドイツ人、残りがイタリア人だった。逃亡に成功したのは800人にすぎなかった。北アフリカは失われた」p610
「1943年5月、1336人を乗せた41隻の潜水艦が大西洋で失われた。それは開戦以来、1ヶ月に被った損失としては最大で、また同時に作戦に従事する潜水艦数もすでにピークを過ぎていた。デーニッツは重大な損害を前にして潜水艦に大西洋の護送ルートから離れるように命じ、それらをアゾレス諸島の南西へ移動させた」p610
「大評議会で声を高めるムッソリーニの対応は、奇妙に無関心で、鈍く、怠慢だった。イタリアを破壊から救うもっと有効な政策を国王に請願することが、19対7人の賛成多数で可決されるという驚くべき結果となった(ムッソリーニは逮捕された)」p619
「1943年9月10日、ドイツはローマを制圧した」p625
「ヒトラーが新たな軍事的勝利をどれほど渇望しようと、ウクライナと北カフカースは1943年末までに失われ、取り戻すことは不可能になった」p628
「側近に対して表明した戦局に関する見解には、ヒトラー自身の決意が揺らいだり、いかなる意味でも敗北の見通しを感受するよう暗示するものはなかった。「総統がどれほどの確信を持って自身の使命を信じているかは感銘を与える」と、ゲッペルスは44年6月初旬の日記に記している」p636
「(ヒトラー暗殺計画1944年7月20日)執務室の爆発時、作戦会議が開かれていたバラックには24人がいた。何人かは床に投げ出されたり、部屋を横切って吹き飛ばされていた。髪や衣服が燃えている者もいた。最も重症だった11人は、急いで野戦病院に搬送された。爆風を全身に浴びた速記者のベルガー博士は、両足を吹き飛ばされ、その日の午後遅くに死亡した。ブラント大佐は片足を失い、翌日死亡した。空軍参謀総長コルテン将軍は、木の裂片が突き刺さって死亡した。副官シュムント少将は片目と両足を失い、数週間後に病院で死亡した。バラックの中で、カイテルとヒトラーだけが脳震盪を免れた。驚くべきことに、ヒトラーは軽傷を負っただけで生き延びた。爆発の初めの衝撃が過ぎると、彼は五体無事で動けるとわかった。それからヒトラーは残骸をかき分けてドアに向かい、ズボンに着いた火を叩き消し、歩きながら後頭部の焦げた髪も叩いて消した。ヒトラーの制服の上衣は裂け、黒いズボンとその下の白い下着はズタズタに裂けていた」p698
「暗殺計画の失敗は、ドイツ国内だけでなく前線兵士の間でもヒトラーへの強固な支持を復活させた」p722
「1944年、ヒトラー帝国に対する包囲網は狭まった。6月と9月の間に全ての前線で100万人をゆうに超える国防軍将兵が殺害され、捕虜になり、行方不明になった。戦車、大砲、航空機、その他の兵器の損失は甚大だった。航空戦はいまや一方的だった」p739
「赤軍は兵員数で圧倒的に優勢だった。900kmにおよぶ前線には、40万のドイツ軍に対して約220万のソ連軍が配置されていた」p776
「2月初めまでに、約200万の米国、イギリス、カナダ、フランスの兵士が、ドイツ攻撃の態勢を整えていた」p780
「ドイツがとりわけ東欧地域で占領下の住民に加えてきた容赦ない残虐行為が、いまドイツ人自身に跳ね返ってきた」p782
「ヒトラーは戦争の首謀者だった。その戦争で5000万人以上が死亡した」p862 -
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世界的なナチズム研究者である英国人教授による、ヒトラーの伝記。近年になって公開された新たな資料を含め、膨大な資料に基づく客観的な研究成果となっている。ただし、ヒトラーの能力や功績を過小評価しているようにみえる。また、反ユダヤ施策について、ヒトラーは明確に推し進めていないにもかかわらず、過度にヒトラーの責任に結びつけようとしているように感じる。経済政策の適否についての考察も薄い。下巻に期待したい。
「いかにしてヒトラーが権力を絶対的なものとし、かつて一兵卒でしかなかった者の下す命令に陸軍元帥を含む将官たちが何の疑問も持たずに従うようになったのか、高い技術を持つ「専門家」やあらゆる領域の優れた人々が、大衆のあいだに卑しい感情を掻き立てることにしか能のない独学の徒にひたすら敬意を払うようになったのかということである」p8
「未来に向けて学ぼうとするならば歴史を通して学ぶしかない。そして未来のために学ぶということを考えたときに、歴史のなかでアドルフ・ヒトラーが支配した時代ほど重要な時代はないのである」p10
「ヒトラーはドイツに押しつけられた暴君ではない。自由選挙で多数派の支持を得ることこそなかったが、首相に合法的に任命されたという点では前任者たちとは変わらず、1933年から40年にかけて世界で最も人気のある首相だった」p27
「ユダヤ人はかなり大きなマイノリティだった。19世紀半ばにはウィーンにはユダヤ人は6000人強しかおらず、人口の2%程度に過ぎなかったが、1910年にはユダヤ人人口は17万5318人に膨らみ、人口の8.6%を占めるにいたった。ドイツではユダヤ人は歴史的に専門職、学術、マスメディア、芸術、商業、金融などの領域で人口比からは考えられないほど強烈な存在感を示してきた」p59
「ヒトラーが社会民主主義から学んだのは、大衆心理は中途半端で弱いものを決して受け入れない」という脅しと非寛容の精神だったと後に本人は語っている」p64
「ハーニッシュによれば、ユダヤ人はキリスト教徒の業者よりも商売人として優れており、買い手としても信用できるというのがヒトラーの考えだった」p83
「(1912年)指名不詳の住人が「ヒトラーはユダヤ人とことのほかうまくやっており、一度など、ユダヤ人は頭がよく、ドイツ人どうしよりよほど協力し合う、と口にしたこともあった」と後に述べている」p92
「ナショナリズムはおしなべて神話を必要とする」p104
「世紀転換期のドイツ・ナショナリストの自己主張を支えていたのは、少なからず、恐怖心からくる攻撃性だった。すなわち、フランスに対する伝統的な敵意、イギリスに対して高じつつあった敵愾心、東方スラヴに対する潜在的な恐れである」p105
「世紀転換期に人種的反ユダヤ主義が強かったことで知られる国といえばオーストリア、ハンガリーとフランスである。ユダヤ人の身に最も激しい迫害が及んだ地域はロシアだった」p105
「(第一次大戦の)敗戦が明らかになると、全ドイツ主義者が煽りたてたせいで反ユダヤ主義のヒステリーは最高潮に達した」p127
「(1919年)ヒトラーは間違いなく人気講師だった。飛行船の乗員として働いていたエヴァルト・ボレは、「ヒトラー氏の情熱的な講演」ほど腑に落ちるものはなかった、と書いている。グンナー・ハンス・クノーデンは、ヒトラーはとくに「素晴らしく情熱的な話し手だった。彼の講演はすべての聴衆を惹きつけた」と感じた。担架担ぎのローレンツ・フランクは、「ヒトラー氏は生まれながらの大衆演説家なのだと思う。集会では、その情熱と人を惹きつける語り口のために聴衆は氏に注目し、その意見に同意せずにはいられなくなってしまうのだ」と書いている」p149
「1919年9月、草創期のドイツ労働党に入党したとき、ヒトラーはまだ「無名」だった。しかし3年後には、追従者に囲まれてナショナリストのあいだではドイツのムッソリーニと呼ばれ、ナポレオンと比べられるまでになった」p157
「(ヒトラーの考え)問題は何を言うかではなく、どのように言うかだった」p159
「民族至上主義イデオロギーは、急進的ナショナリズム、人種主義的反ユダヤ主義に加えて、ゲルマンの歴史に根差し、秩序と調和と階層に立脚するドイツ特有の社会秩序を神話化し、それをイデオロギーの中核としていた」p161
「(1921年5月)ドイツ新聞編集長のインタビューでヒトラーは、自分は「混沌の淵に沈みつつある祖国を救う」指導者や政治家ではなく、ただの「大衆をいかに集めるかを知る扇動家」にすぎないとのべたとされる」p195
「1926年にナチ運動の定番となる、腕をピンと伸ばして突き上げるような敬礼スタイルでの登場だった。私的な集まりでの内気なヒトラーと同一人物とは思えなかった、とカール・アレクサンダー・フォン・ミュラーは書いている」p220
「(1924年)ビュルガーブロイケラーでの大失敗と、翌日、将軍廟で迎えることになった結末から、ヒトラーは軍隊を向こうに回して権力を掌握しようとしても必ず失敗に終わると身にしみて学んだ」p244
「自分は「太鼓たたき」ではない、指導者たるべく運命づけられているのだ、とランツベルク監獄で認識した」p245
「春の裁判以降、ヒトラーの神格化が始まっていた。実際、民族至上主義勢力のなかでは、一部の熱狂的な勢力をはるかに超えてヒトラーへの称賛が広がっていた」p249
「ヒトラー収監中の13ヶ月にわたる「指導者不在の時期」ほど、民族至上主義右翼にとってヒトラーがいかに重要かをはっきり知らしめたものはなかった」p250
「(『わが闘争』)権力掌握以前には、期待したようなベストセラーにはほど遠かった。1930年以降、ナチ党が選挙で結果を出すようになると売り上げは急速に伸び、32年には8万部に達した。33年以降は天文学的に伸びた。33年だけで150万部が売れた。36年に点字版が刊行されると、視覚障害者も読めるようになった。36年以降は、2巻をまとめた普及版が結婚式で新婚夫婦に贈られるようになった。45年までの売上総部数は約1000万部にのぼった。『わが闘争』は16ヶ国語に翻訳され、国外でも数百万部売れたが、その数はここには含まれていない」p269
「ナショナリズムと反マルクス主義はナチだけにみられる特異な主張ではなく、イデオロギーと呼べるようなものでさえなかった」p314
「「政治とは民族の生存をかけた闘争にほかならない」。「強者が生き残るために弱者は滅びるというのが鉄の掟だ」とヒトラーは力説した」p315
「経歴から判断して2/3はユダヤ人をある程度嫌悪していると思われるが、反ユダヤ主義をイデオロギー的に最も重視するのはわずか1/8ほどだった」p358
「従来、生活水準は鉄道の敷設距離で測られてきたが、将来的には道路の敷設距離で測られるようになるだろう。これは「ドイツ経済建設計画の一部をなす重大な課題である」とヒトラーは宣言した。この演説は後にナチプロパガンダのなかで「ドイツのモータリゼーションの歴史における転換点」と位置づけられることになった。これが「アウトバーン建設者」としての指導者という神話の始まりだった」p471
「ユダヤ人の法曹界への就職禁止法は、プロイセン法相ハンス・ケルルとバイエルン法相ハンス・フランクがすでにとっていた措置を法相ギュルトナーが取り入れ、ヒトラーに認可を求めたものだった」p495
「(ドイツの再軍備措置後の国民投票)(国民投票で95.1%、国会選挙で92.1%の信任)国内でも国外でも、ドイツ国民の大多数はヒトラーを支持しているのだとの結論に達さざるをえなかった。この国家の一大事については、ナチ党に断固として反対していた人びとでさえ多くが国際連盟に対するヒトラーの対応を支持し、ヒトラーはまさに喝采を浴びた。党派的利害を超越した国民的指導者としてのヒトラーの名声は大いに高まった」p514
「「総統の意をくんで働く」ことにより、イニシアチブが発揮され、圧力が生じ、法制化が進んだ。それらすべては、独裁者たるヒトラーが命ずるまでもなく、ヒトラーが目指すと考えられる方向と一致するように行われた」p550
「ヒトラーは32年12月には、自身が体現する「ナチズム理念」を広め、動員を行うのが党の役割だとすでに決めていた。首相就任後、ヒトラーは組織としてのナチ党にはほとんど関心を向けなくなっていた。無力だが献身的といってよいほどに忠実なヘスが4月にヒトラーの代理として党を任された」p557
「(ラインラント進駐)予想される軍事介入に対して軍指導部が慌てて作戦を立てていた間にも、ヒトラーは、「切り抜けられるだろう」とローゼンベルクに言っていた。国内外の反応は、臆病さに大胆さが勝利したこと、自分の判断には寸分の狂いもなかったことを示すかのようにヒトラーの目には映った」p572
「ヒトラーはずる賢く不誠実だが、交渉は上手く、与しにくい相手だとの印象をイギリス王璽尚書イーデンは持った」p574
「ヒトラーは、「平穏と平和のほかに何を望むものがあろうか」と修辞的に問いかけた。「ドイツは平和を必要としており、平和を望んでもいる」。「ドイツはオーストリアの併合も編入も、意図していなければ望んでもいない」」p575
「(党内急進派の認識)「総統は、外交上の配慮から、ユダヤ人に対して各自が行動を起こすことを禁じるような格好をとらざるをえなかったが、実際は、各自が自分自身の力で、非常に厳しく過激なかたちでユダヤ人との闘いを続けることに諸手を挙げて大賛成のはずだ」という認識だった」p590 -
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★★★2021年10月★★★
なんの特色もない人だったヒトラーが、何故あのような災禍を人類にもたらすことになったのか。そういうことが知りたくてこの本を手に取った。
第一次世界大戦の敗戦から丁寧に描かれている。
印象に残ったフレーズを以下に記す。
P51 宣伝は永久に大衆だけに向けられるべきである!
P130 ヒトラーを首相にするといってもナチ党の独裁を認めるわけではない。
P153 ヒトラーがすべてを賭けて手に入れたかったもの、それは授権法だった。(全権委任法)
よく言われるようにヒトラーは民主主義から誕生した。ワイマール憲法は運用によっては独裁を認める内容だったとか。第一次世界大戦後のドイツ処理が苛烈すぎたこともヒトラー誕生の要因の一つだろう。 -
Posted by ブクログ
第一次大戦後の混乱期のドイツで、ヒトラーが権力を握るに至るまでの過程が詳細に書かれている。かつての暴力革命路線を変更し、選挙政治で政権獲得を目指す方向へ舵を切ったナチスが、様々な偶然の要素が重なって政権を取るに至る。ひとたび実権を握ると、全権委任法を成立させて立法機能を自らの手中に収め、反対勢力に対しては突撃隊・親衛隊による物理的な実力行使を徹底する。長引く不況と失業問題を解決し国民からの支持を確実なものにすると(ヒトラーの手腕というわけではなく、政権を握った時点ではすでに景気回復期に入っていた点、徴兵制の復活により失業者を兵隊として吸収できた点、女性の就業を制限することで労働供給を減少させた点、等が強調されている)次の戦争、そしてホロコーストへと進んでいく。ヒトラーの病的ともいえるユダヤ人排斥への思いが悲劇を生む。これほど激動に富んだ国もないという感想を持った。
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Posted by ブクログ
ナチ党・ヒトラーが政権を奪取し、ユダヤ人迫害、ヨーロッパ大戦に至るまでの経緯を説明している。
ヒトラーは合法的に政権を獲得したと言われることがあるが、その背景には姑息な手段を用いて他党を弾圧や大統領令の発令が大きく左右していることから、学問的な帰結としては「合法的」という表現は正確な解釈ではない。
また失業率を下げたり、アウトバーン建設に一役買ったとも言われるが、結局はナチズムを推進していくための手段に過ぎず、国民のための施策という解釈もミスリーディング。
先日、ナチスを肯定した趣旨のツイートが炎上していたが、この本を読めば肯定できる要素は何一つないことが分かる。 -
Posted by ブクログ
ヒトラー、ナチスに関して勉強できる映画あったら誰か教えてください。
・善悪二項対立の危険さ
・利益を享受しているが故に上記の危険さを見て見ぬ振りをすること
ヒトラーのやったこととは程度は違えど、現代にも通ずるものがあると思った。
・善悪二項対立の危険さ
ヒトラーは様々な地域、階層に向けて、すべての悪の根源はユダヤ人と語ることですべての社会階層に支持された。
現代で例えると「諸悪の根源は安倍政権」のような意見、トランプの諸主張、IT関連だとオンプレが悪でクラウドが善、みたいな。
そんな世の中簡単じゃないよね?
二項対立は物事を簡単に捉えた気になれる。
簡単だからこそ、誰もが共通認識として持ちやすくなる。
そしてみんなが同調してると、それが正しいと思ってしまう。
ただ、この二項対立には善と主張したがる人の強い恣意が入っている。
気をつけねばと自戒。
・利益を享受しているが故に上記の危険さを見て見ぬ振りをすること
ドイツ国民はユダヤ人迫害に反発しなかった。利益があったから。例えば、
ユダヤ人上司が左遷→昇進
ユダヤ人家が空く→新住居
ユダヤ人経営者が追放→安く買収
ユダヤ人迫害により敗戦国ドイツの生活水準が上がり得したのはわかる。
自分がもし当時のドイツにいてアーリア人だったら、同じように利益を享受していたかもしれない。
もちろんこのトレードオフは現代では非難されるし危険すぎる。こうならないようにはどうすれば良いのか、どんな対策を世界各国がしているのか、とても知りたいと思った。 -
Posted by ブクログ
やっと読み終わった。時間掛かった。しかしこの本分厚すぎる。自立して立ってびくともしない。でもその分内容が充実している。今どこにいるのか分からなくなるが。ヒトラーだけが悪いのか、何でヒトラーはああなったのか、周りは止められなかったのか、って自問しながら書いているんだろう。何回も止まる可能性がある出来事はあったが止まらなかった。それもまた運命なのかな。日本もそうだけど、この時代を理解するには共産主義がどのくらい社会の雰囲気として重要性を持ったか、当時の空気を理解しないと駄目だなと再確認。後はユダヤ人の迫害。これもその時の空気もあるんだろうが、ヒトラー的には分かり易いスケープゴートであり、そこまで理論的にユダヤ嫌いだったのではないんだろうと感じた。後は突撃隊のような存在。革命というか自分が権力を握る過程ではとても重要な要素が権力を握ると制御が難しくなる。そういうのは今の社会でも多くあるのだろう。そういう意味では日本は良く武士をコントロール出来たなというのはある。下巻はもっと分厚い。
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Posted by ブクログ
原著は1998年出版で、2016年に日本語訳が出版されたヒトラーについての研究書。膨大な資料をもとに、ヒトラーの生涯を時系列で追っていく伝記的な資料になっています。伝記というと個人にフォーカスを当て基本的には偉業をたたえるようなイメージりますが、本書はもちろん「偉業」はたたえないし、著者も序文で記載しているように「本書を執筆するあいだ私をとらえて離さなかったのは、1933年から45年にかけてドイツの命運をその手に握ったヒトラーという人物の特異な性格ではなく、むしろヒトラーなるものがいかに可能になったかという問い」をベースに、全編にわたって記述されています。
ヒトラーが導いた最悪の事態は、ヒトラー個人のみによるものでなく、さまざまな要因がヒトラーに”活躍”の場を広げていかせてしまった、ということがいろいろな側面から記述されています(こう書くと語弊がありますが、著者は決してヒトラーを免責しているわけではありません)
ヒトラーのような人物が世界に今後も現れないという保証は全く無いわけで、何がヒトラーを生んでしまったのか、ヒトラーを生まないためにただの一般人である我々にもできることは何なのか、といったことを考え続けていくうえでも、本書は重要な示唆を読者に与えてくれるように思います。
20年前に原著は書かれているので、今となっては古い情報もあるのかもしれません。そのあたりは私は研究者では無いのでわかりません。
かなり膨大な分量なので、読むのには少し覚悟がいりましたが、読んでよかったなと思っています。また下巻もいつかまとまった時間がとれるときに読みたいと考えています。 -
Posted by ブクログ
小政党の一つに過ぎなかったナチスがいかに権限を拡大して独裁国家を作り上げたかを解説し、日本で審議されている緊急事態条項のナチスの手口との類似点、危険性に言及。この分野は門外漢なのでとにかく難しかった。憲法学者は言葉のチョイスに厳格だなあ。一応理解した中で印象深かったことをメモ。
・ユダヤ人に職を奪われたと感じている貧困アーリアがナチスを支持した構図はトランプ政権に通じるものがあるなあ。
・ドイツでは大統領が緊急事態を規定できる仕組みになっていたことが濫用を招き、いつのまにか主権独裁になっていたと。
・日本の緊急事態条項に関して。緊急事態の判断は内閣総理大臣に委ねられていて緩い。
・そもそも大きな災害等想定される緊急事態があるならばそれに合った法を制定すれば良い。
・緊急事態条項は「安全の保証」ではなく「安心の保証」。不安はキリがないものでそこにつけこんだ条項。いらない。
・緊急事態条項草案は性善説に基づいている。考えうるすべてのパターンを網羅しておらず漏れがある。悪用できる可能性がある。