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ヒトラーは、どのようにして大衆の支持を得て独裁者となったのか。安楽死殺害やホロコーストはいかにして行われたのか。その歴史を知るための入門書であり、決定版の書。ナチ体制は、単なる暴力的な専制統治ではなく、多くの国民を受益者・担い手とする「合意独裁」をめざした。最新研究をふまえて、未曾有の悪夢の時代を描く。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
国の調子がよくないときにあらわれて、わかりやすい言葉で明確な敵を示すやばい人間に、一瞬でも隙をあたえるとこんなことになってしまうのだ、と思い知れる
ヒトラーやナチスのことはちゃんと知っておかなければいけないと思っている。これらほど知っておかないといけないのに敬遠・忌避されているものも珍しいんじゃなかろうかと思うから。なぜヒトラーが、ナチスが、ドイツがあのような道を歩んでしまったのかを知るためには、まずヒトラーについてしっかり知識をもっておくこと...続きを読むも大切。この本は、ナチスが台頭するまでのヒトラーの歩みをかなり丁寧に追っていてためになった。ナチス台頭後の紙幅は薄めな感じもするが、それについてはほかにもいろんな記録があるからひとまずよしとしよう。 読んでみてヒトラーのひととおりのことを知り、いかに簡単に世のなかが後世からすれば誤った方向に行ってしまうことかと思ったし、知らず知らずポイント・オブ・ノーリターンを越えてしまうことかと思った。ヒトラーやナチスだけが悪いのでなく積極的にせよ消極的にせよ彼らを支持した人々(国民)がいたことも事実なわけで、一歩間違えばいまの日本だって、政治の方向性や他国出身の人を嫌う人々、政治に無関心で寄らば大樹の影志向の人々が少なくないことを思うと、ヒトラーやナチスの轍を踏みかねないと思わされた。 ヒトラーの政治思想にオリジナリティはほとんどないという。「ドイツの政治学者クルト・ゾントハイマーはいうように、思想的に見ればヒトラーは「純粋な亜流」だった。当時の反民主主義思想に「何ひとつ独自の貢献」をしていない」(p.72)とのこと。それなのに、口のうまさや勢いでのし上がってしまう、人々が支持してしまうということであり、恐ろしいこと。そして流れができてしまえば、それに逆らえる人の少ないこと。
第一次大戦の敗戦理由を、事実ではない、でもそれらしく演説して支持を得ていくナチ党、ヒトラー。 自分から基本的人権を捨ててナチ党を選ぶドイツ国民。 政治的支持を得るには真実よりも、それらしい民衆が望んでいる嘘を大声で唱える方が効果的だということがよくわかる。 ボリュームがすごいので、時間を置いてまた読...続きを読むみたい。
今まで歴史書を読む機会がなかった。今回何を思ったかヒトラーについて知りたくなった。独裁政治について知りたくなった。ヒトラーは消して強気で何でもできる人ではなく、雄弁でカリスマ性のある言葉、巧みな人物であることがわかった。めんどくさがりだし、物事から逃げる性格も見てとれた。ナチ党を率いて独裁政治を行い...続きを読む、フランスと戦い、イギリスに負け、アメリカに負けた。ヒトラーで有名なことはユダヤ人迫害。主にポーランドのユダヤ人は虐殺された。ガスが主だったようだ。ドイツ人一強主義とは言うが、それだけの理由でユダヤ人を迫害するのはなぜだったのだろう
ヒトラーとナチ・ドイツ 著:石田 勇治 講談社現代新書 2318 本書は、ナチとは、ヒトラー(1889.04.20-1945.04.30)とはどういうものであったのかを主眼として語っている ナチ党:国民社会主義ドイツ労働者党 は、実は、極右組織である アドルフ・ヒトラーが政権にあった 1933-...続きを読む1945 をドイツでは「ナチス時代」という ワイマール体制下で、消沈していたドイツ国民は、ヒトラーに魅せられ、高い人気があった ヒトラーは、マックス・ウェーバの云う、カリスマ的指導者であった 本書は大きく3つに分かれる ヒトラーの誕生から、ナチ党の発足まで ナチ党の台頭から、ヒトラー政権の誕生まで ヒトラー政権下で行われた政策について 気になるのは、以下です。 ■ヒトラーの誕生から、ナチ党の発足まで ・ヒトラーは、オーストリア(ハプスブルク帝国)のブラウナウ生まれ 正確には、ドイツ人ではないが、ドイツ人としてのアイデンティティを強くもっていた ・孤児年金や親の遺産からもあり、絵葉書や水彩画の図案の作成などのアルバイトをしていたヒトラーは、1914年に、第一次世界大戦勃発の際に、バイエルン州ミュンヘンにて志願兵となる ・政治家になる転機は、戦後に1919.04 兵営内での選挙で、兵士評議会の一員に選ばれたことだった ・反ユダヤ主義的極右政党の1つ、ドイツ労働者党に入党、ヒトラーは党と軍とのパイプ役をまかされることとなった ・1920 ナチ党:国民社会主義ドイツ労働党に改名、25の綱領が発表された ①ドイツ民族の自治権の行使と領土の獲得、敗戦国ドイツの国境を修正し、国外のドイツ人を包み込む大ドイツを実現すること ②ユダヤ人から、公民権を剥奪すること ナチ党の目的は、中間層へ危機意識を訴え、それを支持基盤に組み入れることであった ・1921 ヒトラーはナチ党の独裁権を握る 多数決という民主主義のルールをヒトラーは嫌い、反議会主義であった 党員の出身階層を、中間層から、労働者層へ広げることが課題であった ナチ党が誕生した、バイエルン州の各地に党支部を設置すること どの党よりも、ヒットラーは、街頭演説を重視し、そして彼は、演説の名手であった ・1923 ドイツの賠償金の未払いを理由に、フランス・ベルギー連合軍は、ルールを占領する ルールは、ドイツの有数な工業地帯である ワイマール共和国は、占領軍への要請を拒否するが、紙幣の増刷で経済危機に対処するが、歴史に残るハイパーインフレがおきてしまう ワイマール共和国は国民の信頼を失い、国内政治は低迷する。この状況下で、軍と右翼が連携し、軍部独裁にて、事態を解決する動きがあらわれた ・ナチは、クーデターとして、ミュンヘン一揆、カップ・リュトヴィッツ一揆をおこすも失敗、ヒトラーは高速されてしまう ■ナチ党の台頭から、ヒトラー政権の誕生まで ・一揆への裁判で命を取り留めた、ヒトラーは、武力闘争から、順法闘争に方針を切り替える その方針は3つ ①武闘路線を放棄し、選挙による合法的手段で政権獲得をめざす ②党指導権を再び、ヒトラーの掌中に帰する ③他の急進右派勢力との連携からは離れて、ナチ党の自主独自を確保する ・ナチの聖典として、「我が闘争」の出版 最終的に 1245万部という空前空語のベストセラーとなる ・シュトラッサーは、政権奪取後の政策提言を行うために、第二組織局、農政局を設置する これにより、ナチ党は、単なる抗議政党から、具体的に政策を実行しうる政党をめざすこととなる ・ヒトラーは党内に弁士要請学校を開校し、6000名もの弁士を育成し、ドイツ全土に派遣した ・1930年ナチ党は、第2党として、国民政党となる ドイツの4つの社会(ミリュー) 市民(ブルジョア)、資本家、労働者、カトリック、それぞれから 支持されるようになる ・民族の名誉:第1次大戦で亡くなった兵士の戦没追悼式、負傷した兵士への栄誉、社会復帰への援助 栄誉あるドイツに対する取り組みが、ドイツ各層に受け入れられていく ・1932 国会選挙が行われ、ナチ党が37.3%、1375万の票を得て、ドイツの第1党に躍進する ・1933 ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命、ついにヒトラー政権が誕生する ・ヒトラーはヒンデンブルクに与えられた大統領特権を使い、 大統領令による、共産勢力の排除弾圧 授権法の成立による、政府への立法権の付与と、そのための議会運営規則の事前変更 を行う 授権法成立後は 死刑執行法、州と国の均制化のための暫定法、同第二法、職業官吏再建法を制定し,施行した ・結果、ナチ党以外の党は解党もしくは、禁止され、わずか半年の間に、ワイマール憲法の実質停止、議会制民主主義は解体された ・1934.08.02 ヒンデンブルグ直後にドイツ国元首に関する法を制定し、大統領と首相の役職を統一し、ヒトラー総統に大統領権限を委譲する法が成立する。こうして、ドイツ史上最大の権力を有する独裁者が誕生する ■ヒトラー政権下で行われた政策について ・ヒトラー政権では、権利関係が複雑であり、ヒトラー自身も把握ができないほど、複雑な権利関係が出現した しかしヒトラーは、よしとした。些少時間がかかっても、最終的にヒトラーが判断できればよかったのである ・失業対策 ①勤労奉仕制度 ②結婚奨励制度による女子の労働市場からの退場と、その枠を男子若年層への解放 ③アウトバーンの建設、軍事部門の拡大による雇用の拡大 ・国民統合 ⇒ 民族共同体 フォルクスゲマインシャフトの形成 社会的弱者、ロマ、ユダヤなどの非アーリア人の排除 そのため、ナチ党大会が頻繁に実施される 都合の悪い、思想書籍を排除 ⇒ナチスによる焚書坑儒が行われた ・大ドイツ主義 ドイツ人が生活する領域をドイツに取り戻す事 ①1933 再軍備交渉 ジュネーブ軍縮会議決裂、国連離脱、再軍備 背後にポーランドとの相互不可侵条約 ②オーストリアの併合交渉、ドルフース首相の暗殺、併合は失敗、ソ連は孤立をおそれ、国連加盟へ ③1935 ザール地方の住民投票、ドイツに帰属 ④1935 ドイツ再軍備 ⑤1936 ラインラント進駐(ケルンを中心とする、フランス占領地域) ⑥1936 スペインフランコ支援 1937 伊日枢軸 ⑦1938 オーストリア出兵、ズデーデン、プラハ攻略、ポーランド回廊返還要求 ⑧1939 ポーランドへ侵攻、第2次世界大戦が勃発 ⑨1941 ドイツ軍が、ソ連領内に侵攻、独ソ戦が始まる 1941 アメリカへも宣戦布告 1945 終戦 ・人種政策 安楽死殺害政策 ホロコースト、大虐殺を受けたのは、ユダヤ人だけではなく、敵兵の捕虜や、 ロマ人(ジプシー)、ドイツ人でも、身障者、同性愛者、精神病患者、反体制者も同様の迫害を受けた 人種主義、優生思想、反ユダヤ主義 当初、ユダヤ人を東ポーランドへ移民 ⇒ 移民ドイツ人を優先中止 次に、マダガスカルへ移民 ⇒ イギリスと和解できなかったため中止 ソ連へ移民 ⇒ 独ソ戦が進捗しなかったため中止 最終 ⇒ 絶滅収容所を設置し、そこで殺害 ナチスの思想は、アーリア人の優れた考えを広めるための十字軍として、ソ連を含めた各国に侵攻した 絶滅収容所 ①ヘウムノ 145,000名死亡 ②ベウゼツ ③ソビプル ④トレブリンカ ②~④合計で 1,750,000名死亡 ⑤マイダネク 125,000名死亡 ⑥アウシュヴィッツ・ビルケナウ 1,100,000名死亡 目次 はじめに 第一章 ヒトラーの登場 1 若きヒトラー 2 政治家への転機 3 ナチ党の発足まで 4 党権力の掌握 5 クーデターへ 第二章 ナチ党の台頭 1 カリスマ・ヒトラーの原型 2 「ヒトラー裁判」と『我が闘争』 3 ヒトラーはどのようにナチ党を再建したのか 4 ヒトラー、ドイツ政治の表舞台へ 第三章 ヒトラー政権の成立 1 ヒトラー政権の誕生 2 大統領内閣 3 議会制民主主義の崩壊 第四章 ナチ体制の確立 1 二つの演説 2 合法的に独裁権力を手に入れる 3 授権法の成立 4 民意の転換 5 体制の危機 第五章 ナチ体制下の内政と外交 1 ヒトラー政府とナチ党の変容 2 雇用の安定をめざす 3 国民を統合する 4 大国ドイツへの道 第六章 レイシズムとユダヤ人迫害 1 ホロコーストの根底にあったもの 2 ヒトラー政権下でユダヤ人政策はいかに行われていったか 第七章 ホロコーストと絶滅戦争 1 親衛隊とナチ優生社会 2 第二次世界大戦とホロコースト 3 絶滅収容所の建設 4 ヒトラーとホロコースト おわりに 関連年表 参考文献・図書案内 ISBN:9784062883184 出版社:講談社 判型:新書 ページ数:368ページ 定価:1000円(本体) 2015年06月20日第1刷発行
ヒトラーがホロコーストをしたことは一般に知られていると思うが、いかにして権力を手に入れ、どの過程でホロコーストに踏み切ったかを詳しく理解することができた。戦争中心の本が多いが、この本はナチ党とヒトラーを中心に話を進めている点が良かった。
1045 石田 勇治 1957年、京都市生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学哲学部博士課程修了、Ph.D. 取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授。専門は、ドイツ近現代史、ジェノサイド研究。著書に『過去...続きを読むの克服――ヒトラー後のドイツ』『20世紀ドイツ史』(ともに白水社)、『図説 ドイツの歴史』(編著、河出書房新社)、『ジェノサイドと現代世界』(共編、勉誠出版)などがある。 ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書) by 石田勇治 そんななかでナチ党の党首、ヒトラーは異色の存在だった。 たしかにヒトラーは中間層下位、つまり庶民の出で、大衆民主主義の時代にふさわしい人物だったともいえるが、学問を修めたわけでも、職業や資格を身につけていたわけでも、特定の業界や利益団体を代表する立場にあったわけでもなかった。それどころか、ヒンデンブルクと選挙で大統領のポストを争う一九三二年まで、ドイツの国籍さえもっていなかった。 父のアロイス・ヒトラー(一八三七~一九〇三) は小学校しか出ていなかったが、片田舎から帝都ウィーンに出て職人修業を終えた後、一八歳で帝国大蔵省守衛となり、やがて税関職員となった。仕事柄、パッサウ、ブラウナウ、リンツなどと住所を転々としたが、官吏としては堅実な、地元の人から一目おかれる人間だった。だが家庭では厳しく、ときに家族に暴力を振るうこともあった。 アドルフは異母兄弟と幼少期をひとつ屋根の下で過ごした。父は息子に自分と同じ官吏の道を進むよう望んだが、アドルフはこれを嫌った。父は大学進学を前提とするギムナジウムではなく、実科学校へ息子を進学させた。そこには実社会で役に立たない古典語学習に時間を割くよりも、職業に直結する活きた知識・技能を身につけさせたいという父の思いがあった。 こうして入学したリンツの実科学校だが、アドルフには向いていなかったようだ。成績は芳しくなく、別の実科学校へ転校を余儀なくされた。その直後、父の死に見舞われ、アドルフは結局、その学校を中途退学することになる。 一九〇七年、アドルフはウィーンに出て国立芸術アカデミー美術学校の入学試験を受験した。結果は不合格。意気消沈したアドルフに追い打ちをかけるように母が乳がんで亡くなった。心の支えを失ったためか、翌年の再受験にも失敗。その後、大都会ウィーンで孤独な浮き草のような生活を送ることになる。 ウィーン時代の生活は貧しかったわけではない。孤児年金があり、親の遺産からの収入もあった。絵葉書など水彩画・図案作成のアルバイトも生活の足しになったし、大好きなリヒァルト・ヴァーグナー(一八一三~一八八三) の歌劇や音楽会を楽しむ余裕もあった。 それにもかかわらず、ホームレスの一時収容所のような場に身を潜めたのは、徴兵検査・兵役を逃れるためだ。 アドルフは、生まれ育ったハプスブルク帝国に忠誠心を抱いていなかった。 それには帝国官吏の父への反発という面もあったが、それ以上にこの帝国が雑多な民族と言語で構成される多民族国家であることが気に入らなかったのだ。たしかにドイツ人には支配民族として特権的地位が与えられていた。だがポーランド人やチェコ人など、それぞれに国民的な自覚を強め、ドイツ人と同等の権利を求めるようになった非ドイツ系諸民族の動きは、それに適切に対処できない帝国指導部の無力さもあって、帝国内のドイツ人を不安に陥れていた。 ドイツ人としてのアイデンティティを強くもつアドルフにとって、そんなハプスブルク帝国で兵役に就くことなどあり得ないことだった。一九一三年、アドルフは国境を越えてドイツ帝国南部のバイエルンの中心都市、ミュンヒェンへ移住する。そのときの動機も、徴兵を免れるためだった。 だが実際の戦場のヒトラーは寡黙で、自ら進んで戦友をつくるタイプではなかった。仲間から変人だと思われていた。危険な前線ではなく、比較的安全な後方勤務に就いていた。たしかに職務には忠実で、何度か勲章を授かったことからうかがえるように、上官の覚えは悪くはなかった。しかし統率力が乏しいことを理由に、下士官への昇進は認められなかった。 カール・マイヤー(一八八三~一九四五) 大尉はその責任者だった。大戦中は参謀本部付き将校として活躍し、敗戦後は軍の再建に携わりながら、第四集団司令部の宣伝・諜報部長を務めていた。ヒトラーの隠れた弁論の才能を発掘し、彼を「第一級の国民的演説家」に育て上げたのが、この人物だ。 ヴァイマル共和国発足以来、最大の危機に見舞われたヴィルヘルム・クーノ首相は、いっさいの引き渡しを禁じ、占領軍への協力を拒否するよう命じた。このような戦術は、「消極的抵抗」と呼ばれた。経済は麻痺したが、共和国政府は紙幣の増刷で危機を乗り切ろうとしたため、空前のインフレが起きた。マルクは一ドル=四兆二〇〇〇億マルクまで下落した。中小企業や小売り商店の倒産が相次ぎ、貯蓄や年金を当てにしていた国民の生活は破壊された。 外国軍の占領にドイツの世論は激昂した。占領から四ヵ月後の五月、共和国政府の意向に逆らって武装闘争を試みた若者アルベルト・シュラゲーター(一八九四~一九二三) がフランス軍の軍法会議にかけられ処刑されると、高まる怒りは共和国政府に向かった。シュラゲーターが、ナチ党の偽装組織のメンバー(ナチ党は当時、プロイセン州で禁止されていた) であったことから、ヒトラーはこの人物を民族の大義に 斃 れた英雄として崇敬し、シュラゲーターを見殺しにした共和国政府を断罪した。 カリスマは元来「神の賜物」を表す古代ギリシア語だ。今では何らかの特別な資質や能力をもち、それによって人びとの心を惹きつける人物を指すことが多い。弁舌にたけたヒトラーにそのような魅力があったことは間違いないだろう。だがここでカリスマとしてのヒトラーという場合、そこにはヒトラーとヒトラーに付き随う人びととの間に見られた特別な関係が含意されている。その特別な関係とは、どのようなものだろうか。 ヒトラーがナチ党の党首となったのは、彼が優れた演説家であり、宣伝家であったからだ。集会活動に力点をおくナチ党にとって、ヒトラーのたぐいまれな観客=聴衆動員力は、ナチ党を他の急進右派勢力から際立たせると同時に、ヒトラーをカリスマと感じる人びとに根拠と確信を与えた。ナチ党はヒトラーの人格と分かちがたく結びつき、ヒトラーを前面に押し出して運動を展開した。ナチ党は自らを「ヒトラー運動」と称したが、それはナチ党がカリスマ=ヒトラーと命運をともにする存在だったことを示している。 ユダヤ人はつねに他民族の体内に住む寄生虫に過ぎない。(中略) まるで悪性バチルス(病原菌) が培養基を得てみるみるうちに広がっていくようなものだ。ユダヤ人の存在から生じる影響は、寄生動物のそれと似ており、ひとたびユダヤ人が現れれば、宿主は早晩死滅することになる。(上巻、第一一章「民族と人種」) ドイツ社会は一九世紀以来、四つの「ミリュー」に分かれていた。ミリューとは、似通った社会的背景を前提に、価値観、行動様式、政治的選好などを共有する人びとの集まり、ないしその生活空間を表す。部分社会とも訳される。 ヒトラーが露骨な反ユダヤ主義者であり、レイシストであり、民主主義を蔑視する扇動家であったことはすでに広く知られていた。そんな人物が首相になれば、ドイツの信用は台無しになるだろうと思う者も少なくなかった。しかも、ナチ党は国会で第一党の地位にあったが、ヒトラーを首相に推す国会議員は四割もおらず、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命しなければならない必然性はどこにもなかったのだ。 この頃、ヒンデンブルクは、先の大統領選で争ったヒトラーを強く意識するようになっていた。出馬の直前にドイツ国籍をとったような男だが、いまや強大な愛国主義的右翼運動を率いる人物を無視し続けることの不利益も感じていた。 これほどあからさまに憲法を否定し、ヴェルサイユ条約を無視する意図を表明した首相は、これまで存在しなかった。将官たちは驚いたが、軍の利益を擁護する政治家の登場に大いに期待を寄せた。異論や反論はまったく出なかった。 副首相のパーペン、連立与党国家人民党の党首フーゲンベルクも、自分たちが思い描く強力な「新国家」の実現に向けて、必要な政策を容易に実行できる授権法の制定に期待を寄せていた。これが保守派の権力基盤を掘り崩すヒトラーの道具になろうとは、彼らはナイーヴにも気づいていなかったのだ。 保守派の閣僚たちが授権法の制定に傾いたことは、ヒトラーにとって千載一遇のチャンスだった。授権法によって議会政治の幕引きができるうえに、国会に責任を負うことも、大統領に依存することもない強力な安定政権が手に入るのだ。 「議事堂炎上令は 一時 のもので、過激な共産主義者が一掃されればすぐ廃止されるだろう」「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会民主主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離をおいてきた人びとの態度を変えていった。 さらに、高名な大学教授や作家・文化人など知的エリートというべき人びとがヒトラーを礼賛する声明文や論説記事を次々と発表したことも、民意のあり方に影響を及ぼした。なかでも哲学者のマルティン・ハイデガーは三三年四月、フライブルク大学学長に就任するとただちにナチ党に入党し、大学は「国民革命」の担い手となるべきだと訴えた。法学者のカール・シュミットも、同時期にナチ党員となり、世間の注目を集めた。シュミットは、大統領内閣を法学者として支え、ヴァイマル憲法体制の形骸化をもたらした。 革命終結宣言がだされた翌週の七月一四日、「政党新設禁止法」「国民投票法」の他、「遺伝病子孫予防法(強制断種法)」「国民の敵・国家の敵の財産没収法」などナチ・ドイツの針路を示す法律がいくつも制定された。はからずもこの日は、自由・平等・友愛の精神を謳ったフランス革命の記念日だ。ドイツがもはや西欧的理念を共有せず、むしろそれを否定する国であることがはっきりと印象づけられた。 公的な場で右手を斜め前に挙げて「ハイル・ヒトラー」(ヒトラー万歳) と叫ぶ挨拶や、公文書の末尾にも同様のフレーズを書き添える規則も、この時期に定められた。ナチ党以外の政党がなくなり、政治的信条の源泉がヒトラーへの忠誠以外になくなったというのが、その根拠だ。反対派と見られたくなければ、形だけでもそうするよりほかなかった。 ヒトラーが新設した三つの省、啓蒙宣伝省・航空省・文部省のなかで、ゲッベルスが率いる啓蒙宣伝省(正式には「国民啓蒙と宣伝のための省」) は、ヒトラー政府をそれ以前の政府から際立たせる特別な機関となった。というのも政府宣伝のあり方がこれで大きく変わったからだ。 啓蒙宣伝省設置の目的は、ヒトラーを新時代にふさわしい国民的指導者に祭り上げ、そのもとで進む国家と社会のナチ化が成果をあげるよう、大衆の精神面に働きかけることだ。ゲッベルスはこれを「精神的総動員」と呼び、ラジオ・新聞・出版・映画から文学・音楽・美術・舞台芸術にいたるまで、すべてのメディア・文化活動を監視統制しながら、活発なプロパガンダを展開した。 入党制限が導入された一九三三年五月一日、党員はすでに二四九万三八九〇人を数えていた。これは当時の一八歳以上の人口の五・一パーセントに相当する。党員の九五パーセントが男性なので、一八歳以上の男性に限れば一〇人に一人がナチ党員という勘定だ。ヒトラーは全人口の一割を党員にしたいと考えていたから、これはまずまずのできだった。 入党制限の結果、党員証を得られるのは当面、ヒトラー・ユーゲントなど党の分肢組織で鍛えられた者に限られた。だが党員数は党費収入という党の主要財源に直結したため、制限は次第に緩和され、第二次世界大戦開戦前の三九年五月、ついに撤廃される。これ以降、党員数は再び鰻登りに増え、敗戦時の四五年には約八五〇万人に達した。 ホロコーストは、ナチ・ドイツによるユダヤ人大虐殺を表す言葉である。 もともとは火事や惨事を意味する普通名詞として英語圏で使われていたが、一九七八年に、女優メリル・ストリープが主演をつとめた九時間半のテレビ・ドラマ「ホロコースト」が全米で反響を呼び、西ドイツでも好評を博したことから、この言葉が右記の意味で人口に 膾炙 し、今では世界中で使われるようになった。ただこの言葉には旧約聖書の「神への供物」の含意があることから、イスラエルでは好まれず、ヘブライ語で破局・破滅を意味する「ショアー」が用いられている。 まず、最も多くのユダヤ人犠牲者が出た国はどこだろうか。 答えはポーランドだ。ポーランドはホロコーストの主な舞台となり、二九〇万人から三〇〇万人のユダヤ人が殺された。次いでソ連。両国だけで約四〇〇万人もの命が奪われた。いずれもドイツが第二次世界大戦中に勢力下においた地域のユダヤ人であり、ホロコーストが、東方に「生空間」を求めたドイツの侵略戦争と並行して行われたことがわかるだろう。 次に、ナチ・ドイツが手を染めた残虐な蛮行はユダヤ人に対するものだけではなかった、という点もおさえておこう。 ユダヤ人の他に、心身障害者や不治の病にある患者、ロマ(「ジプシー」、ドイツでは「ツィゴイナー」と呼ばれた)、同性愛者、エホバの証人など、民族共同体の理念・規範に適合しないとみなされた人びとに対しても、徹底した迫害が行われていたのだ。 ホロコーストを引き起こした根底には、三つの考え方があった。極端なレイシズム(人種主義)、優生思想、反ユダヤ主義である。それらは互いに重なり、関連していた。いったいどういうものだったのだろうか。 レイシズムとは、人間を生物学的特徴や遺伝学的特性によっていくつもの種(raceドイツ語ではRasse) に区分し、それら種の間に生来的な優劣の差があるとする考え方で、そうした偏見に基づく観念、言説、行動、政策などを意味する。 ある個人や集団が、自己とは異なる文化的・宗教的背景、身体的特徴をもつ者に敵愾心や恐怖感(ゼノフォビア) を抱いたり、異質な民族集団を自己中心的な尺度で見下したりする態度(エスノセントリズム) は、時代と地域を超える普遍的な現象である。 ヒトラーが反ユダヤ主義者になった決定的な契機は、ロシア革命(一九一七) の顚末を知り、それをユダヤ人の陰謀だととらえて納得したことだ。 実際、レーニンが率いるボリシェヴィズム(ソ連共産党) がロマノフ王朝の一族を惨殺し、私有財産を撤廃し、資本家や地主を片っ端から殺害したとの恐ろしい知らせが伝わると、その影響はドイツにも及ぶのではないかと多くの人びとが恐怖と不安に 苛まれた。 ヒトラーはこれに反応して、ロシアの革命指導部はユダヤ人が牛耳っており、彼らが世界のユダヤ人と手を組んでドイツを混乱に陥れ、世界を支配しようとしているのだと主張した。当時、反ユダヤ主義者の間で広く流布していた偽書『シオン長老の秘密議定書』の影響をヒトラーも強く受けていた。だがヒトラーの新しさは、反ボリシェヴィズム(これを反マルクス主義、反共産主義と言い換えることもできる) を反ユダヤ主義と結びつけ、「ユダヤ=ボリシェヴィズム」という打倒すべき新たな敵の像をつくりあげたことだ。 この状況にいち早く反応したのは、在米ユダヤ人団体だった。米国のユダヤ人指導者は、露骨な反ユダヤ主義者がドイツの首相となったことに危機感を覚え、ニューヨークで抗議集会を開くが、効果のないことがわかると、ドイツ商品不買運動を組織してヒトラーの不法ぶりを全米に訴えた。外国の評判を気にするヒトラーは、ドイツは平穏であり不法な迫害は行われていない、と無任所大臣ゲーリングに言わしめた。しかし一方で、対抗措置としてドイツ国内のユダヤ商店ボイコットキャンペーンの実施を決めた。 全国でいっせいに行われた官製ボイコット(三三年四月一日) では、世界のメディアを意識したのであろう、歩哨が店頭に掲げた張り紙にはドイツ語だけでなく英語でもスローガンが書かれていた。「ドイツ人よ、身を守れ。ユダヤ人の店で買い物をするな」と。しかし、張り紙を無視して平然と買い物をする客も多く、ボイコットは不徹底なまま終わった。ユダヤ人排斥を支持する国民的な合意は、この時期のドイツにはまだ形成されていなかった。 先に述べたように、当時のドイツでは、それまでナチ党と何の関係もなかった者までが党員手帳を手に入れようと躍起になり、入党手続きに殺到した。たしかに社会は一気にナチ色に染まったようにみえたが、入党の動機は一様ではなかった。 例えば、それまでユダヤ人の従業員を積極的に受け入れてきた会社の社長が、ナチ党員の不当な攻撃から会社と社員を守るため、あえてナチ党員となり、ヒトラーに忠誠を誓うというようなケースもあった。この場合、ユダヤ人の従業員を雇用し続けられるか否かは、党の出方と社長の個人的な力量で決まった。 ヒトラーは当初、ドイツからユダヤ人を追放し、「ユダヤ人なき国」の実現を目標としていた。それにしてもなぜユダヤ人はドイツを去らねばならないのか。ユダヤ人があらゆる「悪の元凶」だというヒトラーは、何を一番恐れていたのだろうか。 ヒトラーは『我が闘争』で、マルクス主義にかぶれたユダヤ人一万数千人を早々に毒ガスで処分していれば、数百万のドイツ軍兵士の死は無駄にならなかっただろう、という主旨のいかにも下劣な文章を記している。ヒトラーは第一次世界大戦のドイツの敗因を、国内ユダヤ人の「裏切り」と、ユダヤ人の本性を見抜けなかった旧ドイツ帝国の「無能さ」に求めていたのだ。 首相として戦争への意思を固めたヒトラーにとって、同じ誤りを繰り返すことは許されない。ユダヤ人は混交によってアーリア人種を堕落させる有害な異人種であるばかりでなく、すみやかな戦争準備を妨げ、戦争になれば敵国に通じ、人心を乱し、革命騒乱を引き起こす危険な集団に他ならない。つまり「ユダヤ人なきドイツ」の実現は、ヒトラーが戦争をするために必要不可欠なことだった。 ドイツを去るユダヤ人からできるだけ多くの財産を取り上げることも、ヒトラーには自明のことだった。なぜならユダヤ人は中世以来、アーリア人の財産を盗んで富をなしてきており、出国時にその財を本来の所有者に戻すべきだ。ヒトラーはそう考えていたからだ。ユダヤ人資産の没収を「アーリア化」と呼んだのはそのためだ。 一方で、ユダヤ人のなかには、差別と迫害を逆手にとってユダヤ人としてのアイデンティティを強化し、世俗化の波にさらされたユダヤ教会を再生しようとする動きもあった。とくにシオニストは、ユダヤ人の国外移住を進めるヒトラー政府と利害が一致した。 極端な反ユダヤ主義者が首相になったことで身の危険を感じたドイツのユダヤ人のなかには、ただちに国外亡命を決意した有名人も少なくなかった。理論物理学者のアルベルト・アインシュタイン(一八七九~一九五五) もそのひとりだ。アインシュタインは、ヒトラー政権が成立する半年前、一九三二年七月の国会選挙に向けて、自由を脅かすナチ党の台頭を阻むため社会民主党と共産党が統一戦線を組むよう求める緊急アピールを、当代一流の作家ハインリヒ・マン(一八七一~一九五〇)、彫刻家のケーテ・コルヴィッツ(一八六七~一九四五) らとともに公表していたのだ。 三三年五月一〇日、ゲッベルス宣伝相は、ドイツの学術・文化・芸術の世界から「非ドイツ的要素を一掃する」と称して、アインシュタインを含む、おびただしい数のユダヤ人の著作物、共産主義や社会主義に関する本を焼き尽くすという暴挙に出た。 その日、全国二一の大学でいっせいに焚書が行われた。夜の帳がおりたベルリン・フンボルト大学のキャンパスの一角で、燃え上がる書物の山を見つめながら、ゲッベルスはマイクの前で言い放った。「これでユダヤのインテリどもはおしまいだ」と。 事件の二日後、一一月九日にその外交官が亡くなると、ゲッベルス宣伝相はミュンヒェンのナチ党集会で、この事件の責任はユダヤ人にあるとして、国民のユダヤ人への怒りを激しく煽った。ちょうどその日は、ナチ党にとって重要なミュンヒェン一揆一五周年の記念日だった。ゲッベルスの扇動演説の後、ナチ党大管区長はそれぞれの地元に指令を発し、ユダヤ人への「報復措置」の実行を命じた。その直後、全国各地のシナゴーグ、ユダヤ人の商店・企業・事務所・学校などがいっせいに襲撃され、放火され、破壊された。ユダヤ人は住まいから外に引きずり出され、辱めを受けた。 あちこちでユダヤ人に襲いかかるナチの若者たちと、それを制止することなく遠巻きに見て見ぬふりをする傍観者。燃えさかる教会堂を前に呆然自失のユダヤ人。消防活動は禁じられ、中世から連綿と続いたドイツ・ユダヤの貴重な財産がすべて 灰燼 に帰した。 ゲッベルスはこの暴力事件をドイツ各地で起きた自然発生的な「民の怒り」と強調したが、実際は二日前からナチ党組織を通して周到に準備されていたものだった。 事件は翌日には下火になったが、場所によっては数日続いたところもあった。 ドイツにユダヤ人の居場所がないことは、これで明らかになった。 路上に散らばったガラスの破片のきらめきからこの事件は、「帝国水晶の夜」(ライヒスクリスタルナハト) とも呼ばれた。数百名のユダヤ人(当局の発表では九一名が殺害された) が殺されるか、自ら死を選んだ。約三万人のユダヤ人男性がミュンヒェン近郊のダッハウやベルリン郊外のザクセンハウゼンなど国内の強制収容所に連行され、財産の放棄と即時出国に同意するよう強制された。 この間、政府の反ユダヤ政策は急進化した。だが、ほとんどの人が、これに抗議の声ひとつあげなかった。いま聞くと、それも異様なことに感じられるが、人口で一パーセントにも満たない少数派であるユダヤ人の運命は、当時の大多数のドイツ人にとってさほど大きな問題ではなかったのである。 親衛隊は、ヒトラーが望むように、アーリア人の純然たる民族共同体の実現をめざした。そしてその内部に潜む「共同体異分子」を発見し、捕え、隔離した。その標的となったのが、たとえば流浪の民とみなされた「ツィゴイナー」(ロマ)、定職につかず規律に従わないとみなされた「労働忌避者」、民族共同体の健全な発展に寄与できないとされた同性愛者、矯正不能のレッテルを貼られた「常習犯罪者」、キリスト教の一派で、絶対平和主義の信念から兵役を拒む「エホバの証人」(「聖書研究家」とも呼ばれた) などだ。 ヒムラーはドイツ警察長官として、こうした人びとを一掃するキャンペーンをたびたび実施した。街頭を徘徊する物乞い、ホームレス、非行少年など「反社会的分子」と呼ばれた人びとも「予防拘禁」され、国内の強制収容所に連行された。そこでは矯正と称して懲罰的な労働を強いられたが、断種手術を受けさせられることが多かった。 だが驚くべきことに、このキャンペーンに関する世間の評判は、街角から怪しげな連中がいなくなって安心した、治安がよくなってよかった、と概して好評だった。 我が闘争』の次の記述からも明らかである(訳は筆者による)。 民族主義国家は、人種を一般生活の中心に据えなければならない。それは、人種の純粋保持に努めなければならない。それは、子どもこそ最も貴重な民族の財だと宣言しなければならない。それは、ただ健康な者だけが子どもをつくるよう配慮しなければならない。もし自身に病気や欠陥がある場合、子どもをつくるのはただの恥辱であり、これを諦めることこそが栄誉である。反対に、健康な子どもを国民に差し出さないことは非難されるべきである。国家はそこで、千年続く未来の守護者として振る舞わなければならない。その未来を前にすれば、個人の願望も利己心も取るに足らないものでしかなく、犠牲にされなければならない。国家はこの認識を役立てるため、最新の医学的手段を用いなければならない。(中略) 身体的にも精神的にも不健康で、価値なき者は、その苦悩を自分の子どもの身体に伝えてはならないのだ。(下巻、第二章「国家」) この残虐で非人道的な政策は、人間の価値を恣意的に計り、「優秀な者」「役に立つ者」だけの社会を追求したナチ・ドイツが引き起こした国家的メガ犯罪である。 ここで注意すべきことは、ガーレン司教の説教をきっかけとした表向きの中止(八月二四日) の後、安楽死殺害政策に携わった医師、看護師、衛生士が、ユダヤ人虐殺が始まると、ドイツ支配下のポーランドへ配置換えになったことだ。 ヒトラーは、ガーレンの抗議に応えるふりをして、殺人の専門家集団をホロコーストの専門要員として活用したのだ。安楽死殺害政策で培われた殺人技術は、スタッフの「心構え」も含めてホロコーストの現場へと引き継がれていった。 こうして、ヒトラーが望み、ドイツの人種衛生学者(優生学者) が求めた「健全な人種共同体」のヴィジョンは、ヒトラー政権のもとで強制断種政策をもたらし、やがて戦争が始まると安楽死殺害政策となってその本性を現した。そのあげく、未曾有の集団殺害=ナチ・ジェノサイドへの扉を開いたのである。 勝ち誇ったヒトラーは、三九年一〇月六日、国会で勝利演説を行った。そこでヒトラーは英仏両国に和平を呼びかけ、東ヨーロッパの平和と安定のための新たな民族秩序の構築を宣言した。 ポーランド国家の解体により生じた目標と任務のうち、(中略) 最も重要なものは民族学的新秩序、つまり民族の移住である。これによって最終的に現在よりも適切な民族境界線が引かれねばならない。(中略) 東欧・東南欧の一部には自力でもちこたえられないドイツ民族の破片が溢れ、諸国家間の持続的な阻害要因となっている。いまや民族原理と人種思想の時代に、価値ある民族の帰属者を安易に同化できると考えるのは幻想である。それゆえヨーロッパ紛争の火種を一部でも取り除くために移住政策を推進することは、ヨーロッパの将来につながる生秩序への任務である。ドイツとソ連はこの点で協力する。 マイダネク絶滅収容所がつくられたのは、独ソ開戦からまだ日の浅い一九四一年七月、ルブリンを訪れたヒムラーがグロボチュニクに対し、マイダネクに五万人規模の捕虜収容所と、増え続けるポーランドやチェコの政治犯を収容する強制収容所の機能をあわせもつ大型収容所の建設を命じたことによる。 同年夏には早速、ソ連軍捕虜が収容されたが、虐待された後、大半が落命した。秋になって初めてユダヤ人がルブリンのゲットーから送られてきた。その後、ポーランド、スロヴァキアから政治犯が送られてきて、マイダネクは巨大な複合収容施設となっていく。 マイダネクが絶滅収容所の機能を担うようになるのは、四二年一〇月からだ。ラインハルト作戦と連動してユダヤ人に対する殺害政策が始まった。殺害には固定式のガス室、一酸化炭素ガスと青酸ガス(チクロンB) が使用された。マイダネクで殺害されたユダヤ人は約一二万五〇〇〇人。そしてその三倍近い人間が戦争捕虜、政治犯として絶命した。 ユダヤ人の追放に関して、ドイツ社会にはそれを阻止しないほどの合意があった。しかし、追放から殺害への転換を支持する合意は存在しなかった。だからこそヒトラーは、ホロコーストの始まりを国民にあかさなかったのだ。 一方で、ホロコーストの情報を得ていた連合軍が、アウシュヴィッツ・ビルケナウの絶滅収容所やそこへ続く線路を爆撃していたら、どうなっていただろう。ホロコーストは一時的にスローダウンしただろうが、きっと別の方法で続けられたに違いない。 第二次世界大戦は、ヒトラーにとって、独ソ戦を始めた頃から「ユダヤ人との戦争」という性格を帯びるようになった。もともと東欧にアーリア人種が発展するための「生空間」を求めたヒトラーは、この戦争を「国家間の戦争」としてよりも、「人種間の戦争」として捉えていた。それは、国家より民族、民族より人種を重視するナチズムの思想が戦時下でたどり着いた必然的な帰結だった。 ヒトラーは、ユダヤ人を宗教の違いではなく人種として捉えていた反ユダヤ主義者だ。 そしてドイツを苦しめているのは、ユダヤ人だと信じて疑わなかった。ドイツの行く手を阻むものもユダヤ人だ。ユダヤ人は国内だけでなく、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスなど全世界にいる。ヒトラー政権の発足時に、在米ユダヤ人団体がヒトラーを厳しく非難したときに、ヒトラーはそのことを確信した。 ユダヤ人は国家をもたないかわりに、よその国家に寄生し、国境を越えてつながっている。そのネットワークを駆使して、ユダヤ人は世界支配を企んでいる。ドイツがいまや反ユダヤ主義を国是として、ユダヤ人の陰謀に立ち向かっている以上、世界のユダヤ人はいずれ連携して諸国家を動かし、ドイツを絶滅しようと戦争を仕掛けてくるだろう。こうした恐ろしい妄想をヒトラーは抱いていた。先に述べた「予言者演説」は、こうした思い込みの産物だ。 ヒトラーは自殺する約二ヵ月前の二月一三日、側近中の側近で、ナチ党官房長のマルティン・ボアマン(一九〇〇~一九四五) に自分の言葉を遺言として書き取らせた。そこには次のように記されている。 「ユダヤという腫瘍は私が切り取った──他の腫瘍のように。未来は我らに永遠の感謝を忘れないであろう」 ドイツ現代史に関心をもって勉強を始めたのが一九七〇年代末でしたから、かれこれ三分の一世紀以上これに携わってきたことになります。よくもこんなに長いこと、と自分でも思うことがあります。でも、ドイツ現代史はどんなに研究しても興味が尽きることはありません。 その理由は、それが非常に変化に富んだ歴史だからだと思います。実際、ドイツは二〇世紀をとおして何度も体制変動を経験しました。その背景には二度の世界大戦の敗北と冷戦がありました。 本書でも述べたとおり、一九一八年に帝政が共和制へ移行し、やがてヒトラーの独裁体制が成立します。そのドイツが第二次世界大戦に敗れたため、連合軍の占領下におかれ、そこから東西ふたつのドイツが誕生しました。その後、西は議会制民主主義、東は社会主義独裁という別々の道を歩みます。そして、東の独裁体制が崩壊し、西の主導でふたつのドイツがひとつになったのが、一九九〇年のドイツ統一でした。 とくにヒトラーのようなレイシストが巨大な大衆運動のリーダーとなって首相にまで上りつめた経緯や、ヴァイマル共和国の議会制民主主義が葬り去られ、独裁体制が樹立された過程、さらにナチ時代のユダヤ人の追放政策が未曾有の国家的メガ犯罪=ユダヤ人大虐殺(ホロコースト) へ帰着した展開は、ドイツ現代史・歴史学の枠をはるかに越えて、二一世紀を生きる私たちが一度は見つめるべき歴史的事象であるように思います。
たいへん読みやすいながら、情報量も適度でナチ政権成立過程がとても分かり易い。 この手の本の中ではイチオシにしたい。
本書では、1933年のヒトラー内閣成立から1945年のドイツ敗戦までの「ナチ時代」が扱われている。冒頭にて、ナチ体制とは、「民族共同体」という情緒的な概念で絆を作り、それは暴力による一方的なドイツ国民の支配体制でなく、当時の国民を受益者、積極的な担い手とする「合意独裁」であったと要約されている。 ...続きを読む第1章から第5章はナチ体制の成立からナチス政権下の内政と外政、第6章と第7章はレイシズムと反ユダヤ主義、ホロコーストが取り扱われている。ナチスに関する書籍としては、比較的新しい本であり、最新の研究成果をふんだんに取り込んで書かれているのが特徴だ。 第5章の「ナチ体制下の内政と外交」では、ナチスに関する多くの俗説が反駁されている。例えば、ナチス政権下での失業者数の「減少」にはカラクリがあり、①労働市場における若年労働力の供給を減らすために、さまざまな形の勤労奉仕制度が導入された、②労働市場における女子労働力の供給を減らす措置がとられた、③失業対策が軍事目的と結びつけられたといった準戦時体制下での統制経済が政権発足時から取られており、ケインズ政策は行われていない。また、ナチスによる政策の代名詞となっているアウトバーン建設に関しても、①ナチス以前からアウトバーン建設計画が存在してヴァイマル共和国時代から一部区間が作られていたこと、②野党時代のナチス党はアウトバーン計画に反対していたこと、③アウトバーン建設に携わった労働者は最大で10万人であり、失業者の吸収は思っている以上に小さいなど、多くの「アウトバーン神話」の実際が書かれている。 第7章の「ホロコーストと絶滅戦争」では、戦争開始時にはまだユダヤ人の追放程度だったのが、戦局の悪化に伴い、やがてユダヤ人の大量虐殺につながったのが詳細に述べられている。ホロコースト以前にドイツ国内で障害者全般の安楽死が実行されており、それがホロコーストの前ぶれであったこと、独ソ戦と対米宣戦が契機となり、「ユダヤ人の最終的解決」に帰着してしまったとようだ。 ナチス党の内政と外政、ユダヤ人の迫害・ホロコーストに関しての記述は詳細であるが、ナチス・ドイツの戦争に関する話題は比較的あっさりしている。ナチス・ドイツの戦争に関しては、リチャード・ベッセル『ナチスの戦争』(中公新書)で補えば良いと思う。本書とベッセルの本、後はウルリヒ・ヘルベルト『第三帝国』(角川新書)を読んでおけば、ナチスに関する大体の一般教養が網羅できるであろう。
ヒトラーがどのような人物だったのか。 当時の社会的情勢はどのようだったのか。 当時の人々はなぜヒトラーを受け入れたのか。 など、丁寧に説明されており、入門書としてとても良いと思う。 ホロコーストについても、どのような経緯で行われるようになったのか、書かれており、歴史とは単純なものではないと思う。 よ...続きを読むくよく思想や社会の様子などを知らないと、歴史認識を間違う可能性があると感じた。 しっかりと学習し続ける必要を感じた。
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ヒトラーとナチ・ドイツ
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石田勇治
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