大正から昭和初期にかけて幣原外交といわれる協調路線を展開した外交官、幣原喜重郎の回顧録。
彼の失脚を契機に、日本は軍国主義、孤立主義に猛進する。
回顧録という、当事者の生の声ほど、歴史的に貴重な情報はない。
以下抜粋~
・小村さんが帰って来られた日、私が涙の出るほど感じたことは、汽車が新橋駅に着く
...続きを読むと、出迎えの桂さんと山本(権)さんが、すうっと汽車の中に入って来られ、何か耳打ちしておられた。そして出て来るときは、小村さんを真ん中に、三人でがっちり腕を組んで、降りて来られた。それは小村さんが帰って来たら、ピストルを撃ちかける計画があったことが、警視庁から報告されていたので、それならば一蓮托生、一緒に死のうと小村さんの両脇にならんで、人ぶらすまを作って出てきたのであった。
これで小村さんだけを殺すとおいうわけにはいかない。当時の元老大官は実に偉いものだと、私はつくづく感じた次第であった。
・(米国イギリス大使ブライス氏)
「アメリカの歴史を見ると、外国に対して相当不正と思われるような行為を犯した例はあります。しかしその不正は、外国からの抗議、請求とかによらず、アメリカ人自身の発意で、それを矯正しております。これはアメリカの歴史が証明するところです。われわれは黙ってその時期の来るのを待つべきです。加州の問題についても、あなた方が私と同じような立場を取られることを、私はあなたに忠告します」
その後、アメリカはこのパナマ運河の差別的通行税を撤廃した。ブライス氏の予想が的中して、その後イギリスからは、何も要求しなかったのに、アメリカは自発的に自己の過失を反省したのである。私はブライス氏の先見に敬服せざるを得なかった。
・余談だが一番通訳の容易な人は、日本では死んだ大隈さんだったろう。大隈さんは外国人を掴まえて、とうとうと議論するが、本当に理路整然として面白い。だから語学の力によって、通訳が巧くも拙くもなる。しかし話す方の要領がいいから、誤訳することはない。
ただあの人の言葉の言い回しの巧みさは、翻訳者泣かせであったろう。
・ワシントン軍縮会議。
アメリカ海軍部内にも猛烈な反対が起こった。
要するに、こういう風に、アメリカの海軍にも不満があり、日本の海軍にも不満があるということは、結局この条約が公平であったという結論になるのじゃないか。双方都合のいいようなものは、とても出来るものじゃないと、しんみり小ルーズベルトは話していた。
・浜口という人は道楽も何もない人で、仕事をするのが唯一の楽しみだ。あの人は仕事を与えなければ、それだけで身体が弱ってしまう。だから友人としては、彼に総裁という忙しい仕事をあてがうのがいい。しかし医者として聞かれるのなら、私は彼の身体をあまりよく知り過ぎている。だからそれはお勧め出来ない。
・日中戦争の大きな戦禍の発端たる満州事変はどうして起こったか。その原因はどこにあるか。今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。
・大政翼賛会に入るよう事務局からいわれたが、私はすぐ、賛成という方を消して、不賛成の返事を出した。
するとその日から二日ばかり後に、私のところに憲兵がきた。
「あなた方は、ドイツのように不自然の全会一致がいいか、アメリカのように一人でも反対する者は反対させ、自然の全会一致または大多数の賛成によって決する形をとる方がいいか、よく考えて御覧なさい」
・その頃、私は何の本だったか忘れたが、読んで非常に面白いと思った。それで山本(五十六)君に「君一つこれを読んで、良いと思ったら海軍省へ報告してはどうか」といって、その本を渡した。相当厚い本だから、それを読んで報告を書くには、どうせ二、三週間ぐらいはかかるだろうと思っていた。普通の人ならそれが当たり前である。ところが本を渡してから三日後に、彼はちゃんと報告書を清書して持ってきた。私はそのあまりに早いのに呆れて、どうしたんだと聞くと「これは早く海軍省へ報告する方がいいと思って、私は二晩全く寝ないで書き上げました」という。
そして彼の報告を読んでみて、実によく本の要領を掴んでいるのに、改めて敬服したのであった。
海軍が日独同盟条約に反対したのは、米内海軍大臣のもとに彼が次官の時であった。そしてその反対の中心人物は山本であり、彼らの在職中はとうとうそれを頑張り通したと聞いている。
解説より
・スティムソン陸軍長官(米)は言った。
「浜口、若槻、幣原」、これらは西洋社会においても尊敬されうる人物である。こうした人物を生むことのできる日本社会を根こそぎ破壊すべきでなく、穏当な条件のもとで早期に降伏させるべきだ、と。軍人たちは、次々に同意していった。
この語なお曲折あるが(京都への原爆投下の回避や天皇制存続への努力を含めて)、日本の早期の有条件降伏の途がスティムソンの力によって開かれていくのである。
幣原の協調主義の精神は、むしろこうした形で長い時間かけて生きたことが記憶さるべきであろう。
戦争の惨禍がなお今日でも日本外交を苦しめていることを思えば、幣原の理想主義的外交こそ世界に深く求めたい近代日本の残した最高の「外交的成果」の一つなのである。