さまざまな承認の場面を想像してみて即座にわかるのは、「認められたい」という欲望の充足に不可欠なのは、何といっても他者の存在である、ということだ。あたりまえではあるが、承認欲望は他者がいなければ決して満たされない。
だが他者といってもいろいろある。家族や友人のようなごく身近な存在もいれば、学校の同
...続きを読む級生や会社の同僚など、一定の目的を共有する仲間もいる。近所の顔見知り、会ったこともないネット上の知り合い、そしてほとんど知らない人々まで、実に多様な他者が承認欲望の対象となる。そこで私は、これらの他者を関係性の違いから三つに分け、それぞれ「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」と名づけようと思う。また、各々の他者による承認を、「親和的承認」「集団的承認」「一般的承認」と呼ぶことにしよう。
「親和的他者」とは、家族、恋人、親しい友人など、愛情と信頼の関係にある他者である。彼らが親身に話を聞いてくれるとき、優しく受け入れてくれるとき、私たちは自分が相手にとって価値ある存在であることを実感し、「この人と一緒だと、〈ありのままの自分〉でいられる」と感じることができる。こうした愛と信頼の関係にある相手(親和的他者)を対象として、「ありのままの私」が無条件に受け入れられている、という実感をともなう承認が「親和的承認」である。
だが現在、一般性のある価値、普遍的な価値そのものへの疑義が増幅し、価値相対主義が蔓延している。こうなると、表面的には保たれているように見える社会規範や社会共通価値観も信頼できず、自己価値にもゆらぎが生じざるを得ない。社会が共有する大きな価値を信憑し、それに準じた行動を取れば自己価値も保証される、という状況はもはや崩れつつあるのだ。
こうした社会では、自己価値を確認するための価値基準が見えないため、身近な人々の承認だけが頼りになる。そのため、親の影響下に形成された自己ルールや価値観は、一般性のあるものに修正することが難しくなり、親の承認に執着し続けることになりやすい。あるいは、自分の価値観・自己ルールに自信が持てず、仲間の承認を維持するために同調し続ける人もいるだろう。他者の承認を無視して自己中心的に自己承認する場合もあるが、大抵は一時的なものにすぎない。
いま、多くの若者が強い承認の不安を感じ、「空虚な承認ゲーム」に陥っている背景には、こうした現代特有の心理が潜んでいる。価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、自己価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。
現代は承認への欲望が増幅した時代、というより承認されないことへの不安に満ちた時代である。人々は他者から批判されることを極度に怖れるあまり、自然な感情や欲望を必要以上に抑制し、周囲への同調と過剰な配慮で疲弊している。
しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分の信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る規準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者から直接承認を得たいという欲望が強くなる。
現代社会はまさにこのような時代である。宗教的信仰は大きくゆらぎ、政治的イデオロギーへの信頼も失墜し、文化的慣習も流動的になっている。社会に共通する価値規準は崩壊し、価値観は多様化しているため、自己価値を測る価値規準が見出せない。一方で、自分らしく生きるべきだ、という考え方も広まっているが、なかなか「自分はこれでいい」と思えない。そのため、身近にいる他者の直接的な承認にすがるよりほかにすべがないのだ。
現在、身近な他者の承認が強く求められるようになり、承認不安による「空虚な承認ゲーム」が蔓延している背景には、こうした社会状況の変化がある。
しかし、納得のいく自己決定をするためには、まず自分自身をよく知る必要がある。自分の欲望や不安を知らなければ、納得のいく判断などできるわけがないからだ。
仕事で疲れているにもかかわらず、毎晩のように仲間に誘われて飲み会に顔を出し、夜明けまで付き合わされることも多い人がいたとしよう。決して強制されているわけでもないのに、仲間の前ではいい顔をしてしまうので、よろこんで付き合っていると思われている。しかも付き合っている間は仲間に過度に気を遣うため、自分の自由をまったく感じることができず、心身ともに疲労の極みに近づきつつあるが、それでもなぜか、毎晩の付き合いを断ることができない。
このような人間は、仲間の承認に不安を感じ、仲間はずれにされることを極度に怖れている可能性がある。そのため仲間の要求を断れず、期待に沿うことばかりをニコニコしながらやってしまう。その上、自分の承認不安に気づかないため、「たまには家で休みたい」という自分の欲望が強く意識されず、自分の本音を見失っているのである。
彼が毎晩の付き合いを断り、家で休むためには、まずこうした自分の不安と欲望に気づく必要があるだろう。それによって、自分のしている行為が本当の気持ちに見合ったものかどうか、過度に感情や欲望を抑制していないかどうか、自ら省みることができるようになる。
先に述べた「自己了解」とは、こうした自己への気づきのことだ。
自己了解によって自分自身の欲望に気づくことができれば、その欲望からかけ離れた行動をやめるにせよ、欲望を抑えて行動するにせよ、自分なりに十分吟味した上で、納得のできる判断をすることができる。そこに、「自分の意志でやっていることだ」という自由の意識が生じるのだ。
このように、感情から欲望と当為を自己了解し、当為の分析へ歩を進めることは、「欲望と当為の葛藤」を克服する可能性を持っている。当為の分析は、その根底にある身体化された価値観・自己ルールに焦点を当て、その形成過程(特に過去の親子関係)に眼を向ける作業であるため、強い承認不安がともないやすい。だからこそ、先入観を排してこの分析を進めるためには、「ありのままの自分」を承認してくれるYさんのような、親和的他者の存在が必要だったのである。
Aさんの「欲望と当為の葛藤」(「休みたい」と「働かなければならない」の葛藤)は、「自由と承認の葛藤」を本質としている。彼は承認のために自由を犠牲にしていたのだが、それは歪んだ自己ルールのもたらした無駄な犠牲であった。しかし自己分析の結果、理由のわからない苦しみから解放され、彼は必要以上に働いたり、過剰に気を遣ったりするのをやめ、承認を維持できる範囲で自由を取り戻すことができた。また、歴史サークルの活動をはじめたことで、「自分のやりたいことをやっている」という自由の感覚、そして価値の共有に基づく集団的承認を得ることができたのだ。