山竹伸二のレビュー一覧
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「認められたい」の正体は、人間としての本能。自己価値への欲望。と第二章で結論付け、最終章である第五章でそこからの脱出方法を考察している。二章で結論付けられたことについて、三章でそうなる過程を詳しく説明。
個々の価値観の多様化によって、どうしたら認められるのか、つまり「認められるためには何をしたらいいのか」が不明瞭になり、その結果承認不安が強くなる、というのが現代。
もともとは親和的欲求としての親の承認を得ようとし、それが学童期から集団的欲求としての友人の承認、壮年期からは一般的承認への欲求と変わっていく。その過程で「一般的他者の視点」も成熟していく。それぞれの欲求は互いに補完し合う関係性にある。「一般的他者の視点」が成熟しないと、承認不安からの脱却が難しくなる。
自分の決定に納得するように考えてから行動することで、自分の意思で決定したことになり、自由の意識は保たれる。 -
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以前運動会の親競走に出たことがある
子供目線から言わせてもらえばほぼ余興の位置付けだろう、少なくとも僕は少年時代にそう思っていた。僕の父は駅伝に参加するほどそこそこ走るのが速かったし、特に見る側の言い分だと先頭の方で「まあまあ」戦ってくれるので負の感情を持ったことはない
さて、僕はそんな父より才能に恵まれ(何故なら努力をさほどしてこなかった)足が速かったのだ。知らない学校の知らない奴に挨拶されるほど知られていた頃があった
のだが、そこから倍の年数が経過した年齢の話になる。普通の成人は走ることがないのである。
しかし僕は未だに週1回ではあるが朝5時から6時の1時間、体力維持の名目で走っている。それでも現役時のタイムなぞ到底及ばず年々足の回転の運び、駆動のかかり、呼吸の余裕など低下してきているのがわかる。
それでも、負けないだろ。と思うのだ。そのへんのやつには。
当時まだ擦れていなかった娘にも1位でしょと期待(だよな…?)を掛けられていたし、僕も体力系の仕事の人と当たらなければ正直負けないと思った
当日、何と5組も父親が走らされると知った
なんでやねん 余興じゃないのか
僕の前の組に消防隊員の方がおり、一緒なら確実に負けていたであろう走りだった。しかし僕の組
どうにも、弱そうなのだ。
しかし娘は友達と横並びで手を振るわ、妻は輝かしい笑みで楽しそうにしている
完膚なきに叩きのめしたくなってきた
正直小学校のグラウンドなんて「滑る」地質でどこまでやれるかわからないが、今の全力はどの程度なのか自分でもやってみたくなり そりゃあまあ全力で走った。というかクラウチングした 僕一人だけである
わかっていたことだがスタートからゴールまでの間一度たりとも他人の背中を見ることはなかった
だがしかし、現役時の速度は感覚で覚えており自分の中では悲しさのようなものも感じたが圧倒したはずだ
しかし、耳に届いたのは爆笑の嵐だった
僕は振り向いて愕然とした
他のお父さん、全員転んでいたのである
そんな中僕は1人独走、これ以上の言葉があるものか。独走である
どう映ったのだろうか。滑稽な独走なんて世の中にあっていいのか。
いやわかる、普段走ってないと走っていた頃の回転が出来ると思って体が前のめりになるが足が回らず転ぶのだ。しかし、しかし、全員なのか
お陰でただ全力で走るアホみたいになってしまった
競走していないのだ。爆笑珍映像みたいな番組で投稿されないことを毎年祈っている
この本の結論として無意識は信頼できる人に指摘されることでマイナスなく意識することが出来、それは正確に知るよりも重要とある
認めたくないものである。歳故の過ちは
無意識という言葉が随分とマイナスに、特に人格形成に扱われているのがやや気になったが、確かに僕は毎年この時期、運動会シーズンになると映像が出て来ないか怯えている
3章と4章を読んでいる時にこの話を鮮明に思い出し、むず痒くなりながら読み終えた 助けてフロイト -
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ネタバレフロイトの理論は科学的には実証しがたいが、その意味を丁寧に理解していけば、人間性の本質についての鋭い洞察が見えてくる。
・フロイトが指摘した無意識は抑圧された欲望という内実を伴うからこそ、多くの人に影響を与えた
→自分の本当の欲望を解読してくれる理論としての精神分析が受け入れられた
・無意識の中にある欲望は二つの異なる欲望の葛藤(性的欲求=抑圧された無意識の欲望、身体的な快楽や愛を求める欲望、欲望の実現を目指して意識に浮かびあがろうとする力がある。
道徳心=自我の欲望、他者との関係や自己の価値に関わる欲望)
夢判断
・無意識に抑圧された欲望は、夢になって意識化される過程で歪曲され、暗号化され、隠される
→その欲望が社会規範や道徳、自尊心に反するものであり、意識したくないから
・夢の作業は無意識の欲望が夢という意識の舞台に出るに際して、検閲し、偽装作業を通して無意識の欲望を隠蔽しつつ、その欲望が充足できるような物語を紡ぎ上げる
性欲論
・関係の喜び
・母親との二者関係から、次第に第三者を意識するようになるという構造
→承認される自分という自己意識、自己の存在価値に対する欲求
自我心理学
・フロイトは晩年、抑圧するものである自我の中にも無意識の部分があるということを認めた
=抑圧されたものだけが無意識なのではない
第二局所論
自我、エス、超自我
自我(≒理性)はエスの欲望に突き動かされながらも、外界の要求を守ろうとしてエスを抑制する、一方で自我は常に超自我の行動規範に従わされ、従わなければ罪悪感に襲われる。
→自我はエス、外界、超自我の三者に要求を突きつけられ、葛藤に苦しむ
・自我の無意識的な側面が超自我であり、特に幼児期における親子関係のルールが身体がされている(親を理想の自我とみなし、その理想像を内面化する)
→徐々に他者や社会の影響を受けて修正されるが、容易ではない
・しなければならないという義務の感情の根底には、欲望充足と不安回避という動機があり、両者は表裏一体(失敗することへの不安と危険を避けたいという欲望)
人間は相反する欲望を抱え、欲望の葛藤に悩まされる存在であり、顕在化する場合が少なくない。そこに不安が生じ、回避しようとする行動が習慣化されてしまうと、自分の意思で行動を変えることが難しくなる
→それらを自覚し、自己了解することができれば、再び自らの意思で行為を選択し、自由に生きる力を取り戻せる(無意識を確信する経験) -
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刺さったとこ3点
・P107
スケプチシズムについて
あれこれと他人の批判ばかりをして、自分だけはわかっている、自分だけは特別だと思い込んでいるあり方。
→心当たりありすぎてドキー!!
・P118
「言葉では否定しながら、実際には抱きしめている」という逆パターンのダブルバインド状態
→うちの母親がこれだったかも
・P160
現代の「自分探し」とは、こうした親や所属集団の抑圧から「本当の自分」を解放しようという試みであり、それは同時に、新たな承認の可能性を求める当て所のない旅なのである。
→私のこと書いてる?てくらい私
他にもあったけど、改めてこの辺りの自認ができた。
幼少期の経験と自己承認の関係については他の本もよんで理解を深めたいなーという気持ち -
Posted by ブクログ
兵庫県都知事選後のマーケティング会社社長の自社PRのような発信が承認欲求がつよいと言われていることでこのワードが気になった。
自分の強い憤りが発生する発端は、この承認欲求からでは?と思いこの本に行き当たった。
承認欲求は、親和的、集団的、一般的に分けられると言う。
私はこの分類だけでもまずとても自己理解ができた。家の中で認められている感じがしていなかったことから、集団や一般的な承認を求めてしまっているなと思ったから。
自分の思考を客観的に知るためにこういう本は本当に必要。
自分の歪んだ承認不安を認識し、
自己ルールを一般的他者の視点でみてみる。
まだ対策案のところは、イメージがわききれなかった。理解しきれてないので読み込みたいな。 -
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優れた心理臨床に関する理論は、その理論を生み出した人間の人生、実存問題、人間観が深く関わっている。
何か物事を考える時、結局私たちは、自分の経験に基づいてしか考えること何できない。
動画やテレビ、本などで、色々な事象や概念、気持ちを知ることはできるが、結局のところ、深い洞察ができるのは自らの体験である。
森田正馬
森田療法の原点も、森田自身の経験である。目の前にあることに打ち込めば、他のことは気にならなくなった。勉強に没頭することで、自分の身体に対する気掛かり、病気の心配も忘れ、神経症的な不安や恐怖は消滅したことに起因している。
他の治療者と違う点として、著者は「森田療法は治療者と対患者を含めた関係性の視点がない」ことを挙げている。時代背景もあるだろうが、確かに指摘通りと私も思う。
土居健郎
「甘え」理論は単なる日本文化論ではない。土居自身が心理臨床の現場の中で、患者との治療関係に着目し、自らの内面に注視し続け、洞察して編み上げた精神病理論であり、かつ心理的治療論である。この甘え理論の出発点も彼自身の渡米体験が深く関わっている。
下記は印象的なところを抜粋。
「治療者自身の感情が治療にとって不可欠の道具」。治療者の感情は、患者の隠れた感情すなわち転移を理解するための鍵となる。なぜならば、患者の感情を感じ取るのは、直接の治療者の理性によるのではなく、常に治療者の感情を媒介としてなされるから。
河合隼雄
日本社会の中空構造論に魅了される。それを裏付けるような古い神話や昔話もとても魅力的に見えた。
中心に絶対的なものを置かず、空の状態を保つことで、対立するものや矛盾するものを排除せず、共存できるような均衡状態を保つ社会。
西洋のように、中心に父性を置く場合は、自らの力によって統率するリーダーが求められるが、日本のリーダーは全体を調整する世話役のような役割が求められ、リーダーは力を持たずとも、ただ中心的な位置を占めることによって、全体のバランスを保つ。
木村敏
あまりこれまで接してこなかったせいもあるのか難解。読みきれていない感じが残る。特に時間論からの生命論が難しい。
有名な「あいだ」理論はおもしろい。これも木村敏自身の音楽の合奏体験が原体験になっている。
数人で合わせている会話や合奏などの全体が個人の意志を超えたひとつの強大な意志を持ち始め、まるで一個の生き物であるかのように感じられてくることがある。これを成立させているのは、それに参加している個々個人の「あいだ」で働く何らかの大きな力だという。
ー私には魅力的な理論だが、一般的には受け入れられないだろうか。
中井久夫
なんといっても統合失調症の治療プロセスがわかりやすい。統合失調症者の支援に携わる多くの人が治療の指針にしていると思われる。
中井もまた治療を行う上で、自身の感情を大切にしている。相手の感情に対して自分自身の感情が直接反応し、同じような感情が巻き起こることを、わたしたは日常的な対人関係の中でも経験しているはず。
このとき、相手の感情に対して、ただ感情的に反応するのではなく、その感情に気づき(自己了解)、冷静に見据えることができてこそ、相手に対する適切な対応につながる。
少なくとも、心の治療者はこれができなければならないし、患者やクライエントとの距離調節も、基本的にはこうした治療者自身の心の動きに基づいている。色々と自分を振り返ってしまった。 -
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さまざまな承認の場面を想像してみて即座にわかるのは、「認められたい」という欲望の充足に不可欠なのは、何といっても他者の存在である、ということだ。あたりまえではあるが、承認欲望は他者がいなければ決して満たされない。
だが他者といってもいろいろある。家族や友人のようなごく身近な存在もいれば、学校の同級生や会社の同僚など、一定の目的を共有する仲間もいる。近所の顔見知り、会ったこともないネット上の知り合い、そしてほとんど知らない人々まで、実に多様な他者が承認欲望の対象となる。そこで私は、これらの他者を関係性の違いから三つに分け、それぞれ「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」と名づけようと思う。また、各々の他者による承認を、「親和的承認」「集団的承認」「一般的承認」と呼ぶことにしよう。
「親和的他者」とは、家族、恋人、親しい友人など、愛情と信頼の関係にある他者である。彼らが親身に話を聞いてくれるとき、優しく受け入れてくれるとき、私たちは自分が相手にとって価値ある存在であることを実感し、「この人と一緒だと、〈ありのままの自分〉でいられる」と感じることができる。こうした愛と信頼の関係にある相手(親和的他者)を対象として、「ありのままの私」が無条件に受け入れられている、という実感をともなう承認が「親和的承認」である。
だが現在、一般性のある価値、普遍的な価値そのものへの疑義が増幅し、価値相対主義が蔓延している。こうなると、表面的には保たれているように見える社会規範や社会共通価値観も信頼できず、自己価値にもゆらぎが生じざるを得ない。社会が共有する大きな価値を信憑し、それに準じた行動を取れば自己価値も保証される、という状況はもはや崩れつつあるのだ。
こうした社会では、自己価値を確認するための価値基準が見えないため、身近な人々の承認だけが頼りになる。そのため、親の影響下に形成された自己ルールや価値観は、一般性のあるものに修正することが難しくなり、親の承認に執着し続けることになりやすい。あるいは、自分の価値観・自己ルールに自信が持てず、仲間の承認を維持するために同調し続ける人もいるだろう。他者の承認を無視して自己中心的に自己承認する場合もあるが、大抵は一時的なものにすぎない。
いま、多くの若者が強い承認の不安を感じ、「空虚な承認ゲーム」に陥っている背景には、こうした現代特有の心理が潜んでいる。価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、自己価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。
現代は承認への欲望が増幅した時代、というより承認されないことへの不安に満ちた時代である。人々は他者から批判されることを極度に怖れるあまり、自然な感情や欲望を必要以上に抑制し、周囲への同調と過剰な配慮で疲弊している。
しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分の信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る規準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者から直接承認を得たいという欲望が強くなる。
現代社会はまさにこのような時代である。宗教的信仰は大きくゆらぎ、政治的イデオロギーへの信頼も失墜し、文化的慣習も流動的になっている。社会に共通する価値規準は崩壊し、価値観は多様化しているため、自己価値を測る価値規準が見出せない。一方で、自分らしく生きるべきだ、という考え方も広まっているが、なかなか「自分はこれでいい」と思えない。そのため、身近にいる他者の直接的な承認にすがるよりほかにすべがないのだ。
現在、身近な他者の承認が強く求められるようになり、承認不安による「空虚な承認ゲーム」が蔓延している背景には、こうした社会状況の変化がある。
しかし、納得のいく自己決定をするためには、まず自分自身をよく知る必要がある。自分の欲望や不安を知らなければ、納得のいく判断などできるわけがないからだ。
仕事で疲れているにもかかわらず、毎晩のように仲間に誘われて飲み会に顔を出し、夜明けまで付き合わされることも多い人がいたとしよう。決して強制されているわけでもないのに、仲間の前ではいい顔をしてしまうので、よろこんで付き合っていると思われている。しかも付き合っている間は仲間に過度に気を遣うため、自分の自由をまったく感じることができず、心身ともに疲労の極みに近づきつつあるが、それでもなぜか、毎晩の付き合いを断ることができない。
このような人間は、仲間の承認に不安を感じ、仲間はずれにされることを極度に怖れている可能性がある。そのため仲間の要求を断れず、期待に沿うことばかりをニコニコしながらやってしまう。その上、自分の承認不安に気づかないため、「たまには家で休みたい」という自分の欲望が強く意識されず、自分の本音を見失っているのである。
彼が毎晩の付き合いを断り、家で休むためには、まずこうした自分の不安と欲望に気づく必要があるだろう。それによって、自分のしている行為が本当の気持ちに見合ったものかどうか、過度に感情や欲望を抑制していないかどうか、自ら省みることができるようになる。
先に述べた「自己了解」とは、こうした自己への気づきのことだ。
自己了解によって自分自身の欲望に気づくことができれば、その欲望からかけ離れた行動をやめるにせよ、欲望を抑えて行動するにせよ、自分なりに十分吟味した上で、納得のできる判断をすることができる。そこに、「自分の意志でやっていることだ」という自由の意識が生じるのだ。
このように、感情から欲望と当為を自己了解し、当為の分析へ歩を進めることは、「欲望と当為の葛藤」を克服する可能性を持っている。当為の分析は、その根底にある身体化された価値観・自己ルールに焦点を当て、その形成過程(特に過去の親子関係)に眼を向ける作業であるため、強い承認不安がともないやすい。だからこそ、先入観を排してこの分析を進めるためには、「ありのままの自分」を承認してくれるYさんのような、親和的他者の存在が必要だったのである。
Aさんの「欲望と当為の葛藤」(「休みたい」と「働かなければならない」の葛藤)は、「自由と承認の葛藤」を本質としている。彼は承認のために自由を犠牲にしていたのだが、それは歪んだ自己ルールのもたらした無駄な犠牲であった。しかし自己分析の結果、理由のわからない苦しみから解放され、彼は必要以上に働いたり、過剰に気を遣ったりするのをやめ、承認を維持できる範囲で自由を取り戻すことができた。また、歴史サークルの活動をはじめたことで、「自分のやりたいことをやっている」という自由の感覚、そして価値の共有に基づく集団的承認を得ることができたのだ。 -
Posted by ブクログ
P.32に「考察にあたっては、ドイツの哲学者エトムント・フッサールの〈現象学〉という考え方を使います。」とあるから楽しみにして読んだ。しかし、自分の現象学の理解が甘いからなのか、別に現象学を持ち出さなくても良いような気がする。子育てのそれぞれの場面について深い考察をしていき、最終的によい子育ての条件を提示する本書であるが、随所に哲学的ワードは出てくるもののことさらにそれを気にする必要もなく、別の言葉に置き換えてもよいような気がする。少し言葉が難しいだけで、言っていることはそんなに難しくはない。
哲学、というワードに期待しすぎたのかも知れない。