山竹伸二のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
以前運動会の親競走に出たことがある
子供目線から言わせてもらえばほぼ余興の位置付けだろう、少なくとも僕は少年時代にそう思っていた。僕の父は駅伝に参加するほどそこそこ走るのが速かったし、特に見る側の言い分だと先頭の方で「まあまあ」戦ってくれるので負の感情を持ったことはない
さて、僕はそんな父より才能に恵まれ(何故なら努力をさほどしてこなかった)足が速かったのだ。知らない学校の知らない奴に挨拶されるほど知られていた頃があった
のだが、そこから倍の年数が経過した年齢の話になる。普通の成人は走ることがないのである。
しかし僕は未だに週1回ではあるが朝5時から6時の1時間、体力維持の名目で走っている。それでも現役時のタイムなぞ到底及ばず年々足の回転の運び、駆動のかかり、呼吸の余裕など低下してきているのがわかる。
それでも、負けないだろ。と思うのだ。そのへんのやつには。
当時まだ擦れていなかった娘にも1位でしょと期待(だよな…?)を掛けられていたし、僕も体力系の仕事の人と当たらなければ正直負けないと思った
当日、何と5組も父親が走らされると知った
なんでやねん 余興じゃないのか
僕の前の組に消防隊員の方がおり、一緒なら確実に負けていたであろう走りだった。しかし僕の組
どうにも、弱そうなのだ。
しかし娘は友達と横並びで手を振るわ、妻は輝かしい笑みで楽しそうにしている
完膚なきに叩きのめしたくなってきた
正直小学校のグラウンドなんて「滑る」地質でどこまでやれるかわからないが、今の全力はどの程度なのか自分でもやってみたくなり そりゃあまあ全力で走った。というかクラウチングした 僕一人だけである
わかっていたことだがスタートからゴールまでの間一度たりとも他人の背中を見ることはなかった
だがしかし、現役時の速度は感覚で覚えており自分の中では悲しさのようなものも感じたが圧倒したはずだ
しかし、耳に届いたのは爆笑の嵐だった
僕は振り向いて愕然とした
他のお父さん、全員転んでいたのである
そんな中僕は1人独走、これ以上の言葉があるものか。独走である
どう映ったのだろうか。滑稽な独走なんて世の中にあっていいのか。
いやわかる、普段走ってないと走っていた頃の回転が出来ると思って体が前のめりになるが足が回らず転ぶのだ。しかし、しかし、全員なのか
お陰でただ全力で走るアホみたいになってしまった
競走していないのだ。爆笑珍映像みたいな番組で投稿されないことを毎年祈っている
この本の結論として無意識は信頼できる人に指摘されることでマイナスなく意識することが出来、それは正確に知るよりも重要とある
認めたくないものである。歳故の過ちは
無意識という言葉が随分とマイナスに、特に人格形成に扱われているのがやや気になったが、確かに僕は毎年この時期、運動会シーズンになると映像が出て来ないか怯えている
3章と4章を読んでいる時にこの話を鮮明に思い出し、むず痒くなりながら読み終えた 助けてフロイト -
Posted by ブクログ
ネタバレフロイトの理論は科学的には実証しがたいが、その意味を丁寧に理解していけば、人間性の本質についての鋭い洞察が見えてくる。
・フロイトが指摘した無意識は抑圧された欲望という内実を伴うからこそ、多くの人に影響を与えた
→自分の本当の欲望を解読してくれる理論としての精神分析が受け入れられた
・無意識の中にある欲望は二つの異なる欲望の葛藤(性的欲求=抑圧された無意識の欲望、身体的な快楽や愛を求める欲望、欲望の実現を目指して意識に浮かびあがろうとする力がある。
道徳心=自我の欲望、他者との関係や自己の価値に関わる欲望)
夢判断
・無意識に抑圧された欲望は、夢になって意識化される過程で歪曲され、暗号化され、隠される
→その欲望が社会規範や道徳、自尊心に反するものであり、意識したくないから
・夢の作業は無意識の欲望が夢という意識の舞台に出るに際して、検閲し、偽装作業を通して無意識の欲望を隠蔽しつつ、その欲望が充足できるような物語を紡ぎ上げる
性欲論
・関係の喜び
・母親との二者関係から、次第に第三者を意識するようになるという構造
→承認される自分という自己意識、自己の存在価値に対する欲求
自我心理学
・フロイトは晩年、抑圧するものである自我の中にも無意識の部分があるということを認めた
=抑圧されたものだけが無意識なのではない
第二局所論
自我、エス、超自我
自我(≒理性)はエスの欲望に突き動かされながらも、外界の要求を守ろうとしてエスを抑制する、一方で自我は常に超自我の行動規範に従わされ、従わなければ罪悪感に襲われる。
→自我はエス、外界、超自我の三者に要求を突きつけられ、葛藤に苦しむ
・自我の無意識的な側面が超自我であり、特に幼児期における親子関係のルールが身体がされている(親を理想の自我とみなし、その理想像を内面化する)
→徐々に他者や社会の影響を受けて修正されるが、容易ではない
・しなければならないという義務の感情の根底には、欲望充足と不安回避という動機があり、両者は表裏一体(失敗することへの不安と危険を避けたいという欲望)
人間は相反する欲望を抱え、欲望の葛藤に悩まされる存在であり、顕在化する場合が少なくない。そこに不安が生じ、回避しようとする行動が習慣化されてしまうと、自分の意思で行動を変えることが難しくなる
→それらを自覚し、自己了解することができれば、再び自らの意思で行為を選択し、自由に生きる力を取り戻せる(無意識を確信する経験) -
Posted by ブクログ
優れた心理臨床に関する理論は、その理論を生み出した人間の人生、実存問題、人間観が深く関わっている。
何か物事を考える時、結局私たちは、自分の経験に基づいてしか考えること何できない。
動画やテレビ、本などで、色々な事象や概念、気持ちを知ることはできるが、結局のところ、深い洞察ができるのは自らの体験である。
森田正馬
森田療法の原点も、森田自身の経験である。目の前にあることに打ち込めば、他のことは気にならなくなった。勉強に没頭することで、自分の身体に対する気掛かり、病気の心配も忘れ、神経症的な不安や恐怖は消滅したことに起因している。
他の治療者と違う点として、著者は「森田療法は治療者と対患者を含めた関係性の視点がない」ことを挙げている。時代背景もあるだろうが、確かに指摘通りと私も思う。
土居健郎
「甘え」理論は単なる日本文化論ではない。土居自身が心理臨床の現場の中で、患者との治療関係に着目し、自らの内面に注視し続け、洞察して編み上げた精神病理論であり、かつ心理的治療論である。この甘え理論の出発点も彼自身の渡米体験が深く関わっている。
下記は印象的なところを抜粋。
「治療者自身の感情が治療にとって不可欠の道具」。治療者の感情は、患者の隠れた感情すなわち転移を理解するための鍵となる。なぜならば、患者の感情を感じ取るのは、直接の治療者の理性によるのではなく、常に治療者の感情を媒介としてなされるから。
河合隼雄
日本社会の中空構造論に魅了される。それを裏付けるような古い神話や昔話もとても魅力的に見えた。
中心に絶対的なものを置かず、空の状態を保つことで、対立するものや矛盾するものを排除せず、共存できるような均衡状態を保つ社会。
西洋のように、中心に父性を置く場合は、自らの力によって統率するリーダーが求められるが、日本のリーダーは全体を調整する世話役のような役割が求められ、リーダーは力を持たずとも、ただ中心的な位置を占めることによって、全体のバランスを保つ。
木村敏
あまりこれまで接してこなかったせいもあるのか難解。読みきれていない感じが残る。特に時間論からの生命論が難しい。
有名な「あいだ」理論はおもしろい。これも木村敏自身の音楽の合奏体験が原体験になっている。
数人で合わせている会話や合奏などの全体が個人の意志を超えたひとつの強大な意志を持ち始め、まるで一個の生き物であるかのように感じられてくることがある。これを成立させているのは、それに参加している個々個人の「あいだ」で働く何らかの大きな力だという。
ー私には魅力的な理論だが、一般的には受け入れられないだろうか。
中井久夫
なんといっても統合失調症の治療プロセスがわかりやすい。統合失調症者の支援に携わる多くの人が治療の指針にしていると思われる。
中井もまた治療を行う上で、自身の感情を大切にしている。相手の感情に対して自分自身の感情が直接反応し、同じような感情が巻き起こることを、わたしたは日常的な対人関係の中でも経験しているはず。
このとき、相手の感情に対して、ただ感情的に反応するのではなく、その感情に気づき(自己了解)、冷静に見据えることができてこそ、相手に対する適切な対応につながる。
少なくとも、心の治療者はこれができなければならないし、患者やクライエントとの距離調節も、基本的にはこうした治療者自身の心の動きに基づいている。色々と自分を振り返ってしまった。 -
Posted by ブクログ
P.32に「考察にあたっては、ドイツの哲学者エトムント・フッサールの〈現象学〉という考え方を使います。」とあるから楽しみにして読んだ。しかし、自分の現象学の理解が甘いからなのか、別に現象学を持ち出さなくても良いような気がする。子育てのそれぞれの場面について深い考察をしていき、最終的によい子育ての条件を提示する本書であるが、随所に哲学的ワードは出てくるもののことさらにそれを気にする必要もなく、別の言葉に置き換えてもよいような気がする。少し言葉が難しいだけで、言っていることはそんなに難しくはない。
哲学、というワードに期待しすぎたのかも知れない。