学者ではない素人にも分かりやすく、筆者の独自の見解を述べてくれている本で、とても面白かった。
小野小町ー恋多き美女というのは残された歌から勝手に想像された伝説。サロンの中で、求められた歌を詠んだに過ぎない。身分はあまり高くないが、極めて有能なインテリ・キャリアウーマンであったのだろう。
在原業平ー東下りや二条の妃(藤原高子)との恋などはなかった。業平は高子のサロンに属していて、屏風絵やその場で与えられた題に即して、物語の中の歌のように歌を詠んだに過ぎない。高子はそのプライドを満足させたに違いない。
紀貫之ー宮廷という狭い環境の中で、お題によって人工的な歌を詠んでいた紀貫之は、晩年初めて、土佐に出向することで、都の外の実際の自然に触れ、その新鮮さに驚いたに違いない。都以外の和歌への嗜みのなさにも気づいた。五七五七七さえ合わせれば和歌なのか、お題や歌枕にさえ沿って詠えば和歌なのか。いろいろ考えたのだろう。土佐日記でのやたらと多い和歌の数は、そういう思考実験のためなのだろう。
清少納言ー枕草子の類聚的部分は、定子のサロンでの歌枕解釈的な意味を持ったもので、サロンのとりまとめ的な意味で清少納言がまとめたのであろう。真ん中の日記的部分も同じようなもの。最後の感想的な部分は、やはりこれも定子を代表とするサロンの意見のまとめのようなもので、上から目線なのも定子の目線ということなのであろう。定子没後の記事は、宮廷を辞してからも、清少納言は定子のサロンの代表としての姿勢からは離れられなかったのだ。
紫式部ー紫式部日記の上から目線も、彰子の目線からの意見と取れるだろう。源氏物語の巻ごとのばらばら具合や順番が前後したり、いろいろ矛盾があったり、文体が違うのもあったりするのは、源氏物語が彰子のサロンの中の源氏物語プロジェクトによって書かれたもので、紫式部はそのリーダー的立場にいたのだ。紫式部が意見を取りまとめながらも一人で書いた巻は多数あったに違いないが。桐壺の巻は、後から全体を上手くまとめるために書かれたものだろう。
宇治十帖の救いのない暗さには、一条天皇の若すぎる崩御が影を落としているのかもしれない。
私としては、非常に刺激的で面白い本だった。ただ、土左日記や枕草子、源氏物語、紫式部日記がどのようにして読み広げられていったのか具体的な姿を知りたいと思ってしまった。更級日記によると、源氏物語成立間近の1021年には、作者の菅原孝標の娘が叔母から源氏物語全巻をもらっている。すごく早いよなあ。今のベストセラー本なみだ。