あらすじ
平安文学についての常識は、調べてみると謎だらけ。小野小町は絶世の美女だったかどうかも、在原業平が東国の放浪の旅をしたのかどうかも謎。紀貫之による『土左日記』は日記でも紀行でもない謎の文章だし、『枕草子』のようなスタイルの随筆は後にも先にも存在しない。『源氏物語』の作者も謎に包まれているし、その作者とされる紫式部の『紫式部日記』の清少納言に向けた悪口も謎に満ちている。こうした謎を解き、平安文学を深く知ることができる、楽しい古典再入門。 【目次】序章 現像を探る/第一章 小野小町とは誰だったか/第二章 在原業平の「東下り」――伊勢物語/第三章 和歌という謎との格闘――土左日記/第四章 「随筆」性の温床――『枕草子』/第五章 紫式部は清少納言の悪口を書いた?――『紫式部日記』/第六章 源氏物語プロジェクト/第七章 「光源氏」という呼称/あとがき/参考文献/人名索引
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Posted by ブクログ
学者ではない素人にも分かりやすく、筆者の独自の見解を述べてくれている本で、とても面白かった。
小野小町ー恋多き美女というのは残された歌から勝手に想像された伝説。サロンの中で、求められた歌を詠んだに過ぎない。身分はあまり高くないが、極めて有能なインテリ・キャリアウーマンであったのだろう。
在原業平ー東下りや二条の妃(藤原高子)との恋などはなかった。業平は高子のサロンに属していて、屏風絵やその場で与えられた題に即して、物語の中の歌のように歌を詠んだに過ぎない。高子はそのプライドを満足させたに違いない。
紀貫之ー宮廷という狭い環境の中で、お題によって人工的な歌を詠んでいた紀貫之は、晩年初めて、土佐に出向することで、都の外の実際の自然に触れ、その新鮮さに驚いたに違いない。都以外の和歌への嗜みのなさにも気づいた。五七五七七さえ合わせれば和歌なのか、お題や歌枕にさえ沿って詠えば和歌なのか。いろいろ考えたのだろう。土佐日記でのやたらと多い和歌の数は、そういう思考実験のためなのだろう。
清少納言ー枕草子の類聚的部分は、定子のサロンでの歌枕解釈的な意味を持ったもので、サロンのとりまとめ的な意味で清少納言がまとめたのであろう。真ん中の日記的部分も同じようなもの。最後の感想的な部分は、やはりこれも定子を代表とするサロンの意見のまとめのようなもので、上から目線なのも定子の目線ということなのであろう。定子没後の記事は、宮廷を辞してからも、清少納言は定子のサロンの代表としての姿勢からは離れられなかったのだ。
紫式部ー紫式部日記の上から目線も、彰子の目線からの意見と取れるだろう。源氏物語の巻ごとのばらばら具合や順番が前後したり、いろいろ矛盾があったり、文体が違うのもあったりするのは、源氏物語が彰子のサロンの中の源氏物語プロジェクトによって書かれたもので、紫式部はそのリーダー的立場にいたのだ。紫式部が意見を取りまとめながらも一人で書いた巻は多数あったに違いないが。桐壺の巻は、後から全体を上手くまとめるために書かれたものだろう。
宇治十帖の救いのない暗さには、一条天皇の若すぎる崩御が影を落としているのかもしれない。
私としては、非常に刺激的で面白い本だった。ただ、土左日記や枕草子、源氏物語、紫式部日記がどのようにして読み広げられていったのか具体的な姿を知りたいと思ってしまった。更級日記によると、源氏物語成立間近の1021年には、作者の菅原孝標の娘が叔母から源氏物語全巻をもらっている。すごく早いよなあ。今のベストセラー本なみだ。