愛ではなかった。
玉男、澄夫、そして雪生、物語は展開し、やがて繋がっていく。
「他方、私のほうは、雪生という元型が日に日にはっきりしてきた。その元型はいわば私たちのなかにもあるのであった。二人で、それぞれ自分のなかを井戸を覗くふうに覗くと、いわば共有している、底なしの井戸の水が見え、その水の奥の奥に雪生という元型がちらちらと仄見える。いや、むしろ、雪生と私の関係という元型が仄見える。そうなのだ、関係そのものの元型があるのであった。
これまで経験したことのないそれを、私は私で発見していった。私自身も、やはり、そのようにして思い出しているのであった。そのことで自分が巨きくなっていく、いうにいわれぬ感じを味わっていた。存在の井戸から確実に汲み上げているものがあるのだ。
その元型そのものは普遍なのだが、思い出す能力がある人しかそれを知ることはできないらしい。私自身、殊更、そういう能力にめぐまれているらしい。他の能力において劣っている分だけ、いっそう。
しかも思い出し方というものがある。それが思い出す人の創造の部分である。私はこの世の何処にもありえぬ私固有の思い出し方を発見していった。」
「想像力とは、自分の知らないことを思い出す力のことだ。」
私は一切を知っている。だから私は思い出す。予め知っていることを。人はそれを創造と呼ぶ。
我々が新たに作り出したと思っていることは、すべて予め知り得たことだ。
だが、それを証明する手立てはない。
私が一切を知っているだなんて誰が知っている?それは神のみぞ知る、など、言いだした途端につまらないものになってしまう。
与えられたものとしての創造なんて、キリスト教の影響下にあるようで(実際そうなわけで)解せないが、文章は綺麗だしストーリーも面白い。