リービ英雄のレビュー一覧
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作者リービ英雄が自分を重ねて描いていると思われる17歳の主人公ベン・アイザックが、自分を囲う領事館の壁を越え、言葉の所有権を手放そうとしない「日本人」の壁を越えて、「しんじゅく」の街で日本語を獲得していく経験を、生き生きと、かつ細やかに綴った爽やかな印象の一冊。そのような経験をしてこそ、もう一つの言葉を手に入れることができるのだろう。それと対照的に、一つの言葉のなかに閉じ籠もる日本人の姿も興味深いが、吉本隆明を読んでいると思われる「ますむら」の描写がもう少し掘り下げられていれば、いっそう面白かったろう。今は失なわれた新宿の姿もここにはある。
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アメリカ出身の日本文学作家、「渡来人」リービ英雄が独自の英訳を添え、日本最古の詩のアンソロジーを語る。地名が示していく都の変遷=時間の変遷、イメージの力、枕詞という呪文を翻訳すること、天才人麿、など九章、二百余頁。
「英語で読む」という題ではあるが、実際には「外部の視座から読む」というのが本著の基本態度。その謙虚な探究心によって見出された万葉の新鮮さは、穏やかな驚きをともなって、千二百年後の現代を生きる日本人に届いて来る。
散文家であるリービの英訳は音・韻律の越境を意識したものではないし、翻訳可能性についての判断もやや楽観に傾くが、人類学的普遍性とでもいうべきものを万葉の歌に求める、という姿勢 -
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日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。
日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第139回芥川賞を受賞した楊逸なんかが思い起こされる。その時に、私はいくらかの驚きと違和感をもってその事実をうけとめた気がする。こうした違和感は、私が(自身の読書経験を通して)無意識のうちに、「日本の小説は日本語を母語とする作家によって書かれるもの」という先入観を抱いていたという事実を暴露するものであった。
母語以外で -
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千々にくだけてについて。
主人公エドワードはヘビースモーカーのために、バンクーバー経由でニューヨークに帰ることにする。バンクーバー経由のほうが20分早く地上に降りることができるから。ニューヨークへ戻る岐路、少しずつ少しずつアメリカ人へと間隔をシフトしていた彼はバンクーバーの空港で足留めされる。アメリカが被害者になった。9.11だった。中途半端な場所で日本人でもない、アメリカ人でもない中途半端な存在になる。彼自身がつながることができたのは辛うじて電話線だけだ。電話の向こうにいるのはアメリカ人である母と妹。それから東京にいる静江。エドワードはどちらにもなりきれないままアイデンティティーは日本だと思 -
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9.11同時多発テロのとき、たまたまニューヨークに向かっていた作者は、中継地のカナダ・バンクーバーに足止めされたまま1週間ほどをすごすはめになる。その間の心象風景を坦々と静かな筆致で綴った作品。
誰彼が発した、あるいは作者の心に浮かんだ英語のフレーズが頻繁に出てきて、その英語と日本語の差異を感じる著者のかすかな心の動きが何度も綴られている。あまりに非日常的な状況のなかで、おそらく著者が日常的に感じている言葉をめぐるかすかな違和感。カバージャケットに記されている英語は「broken, broken into thousands of pieces」。つまり「千々にくだけて」。崩落する世界貿易セ -
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「勿論、ドイツの言葉も歴史、文化も愛している。でもドイツには住めない。余りにも長く離れ過ぎた。」と、悲しそうな顔で、先生は在外独人教育の為、ボリビアへと去った。一方の私は生来のデラシネ気質故か、子供の頃から、国家とか宗教、アイデンティティが一体何を意味するのか理解できなかった。本を読み、頭では理解したつもりだが、未だに皮膚感覚としては分らない。越境作家と呼ばれる著者なら、何かを教えてくれるかと手に取る。誰でもない者として、どこでもない場所を彷徨歩く浮遊感は小説として素晴らしい。但、ここにも答えはなかった。
『S大学を途中で退学して、翻訳家になって、両親の反対を押し切り、東京に定住した。定 -
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日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。
日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第139回芥川賞を受賞した楊逸なんかが思い起こされる。その時に、私はいくらかの驚きと違和感をもってその事実をうけとめた気がする。こうした違和感は、私が(自身の読書経験を通して)無意識のうちに、「日本の小説は日本語を母語とする作家によって書かれるもの」という先入観を抱いていたという事実を暴露するものであった。
母語以外で