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1930年、ヤラヴァーダー中央刑務所に収監中のガンディーは、修道場(アーシュラム)でみずからの教えを実践する弟子たちに宛てて一週間ごとに手紙を送る。真理について、愛について、清貧について、不可触民制の撤廃について、国産品愛用運動について……。ただただ厳粛なる道徳的観点からのみ行動した、「偉大なる魂」(マハートマ)の思想と活動原理。(新訳)
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Posted by ブクログ
厚さは薄めの本ですが、内容はとても濃い。 ガンディー自身が「わたしの人生、わたしの生涯がわたしのメッセージです」と話した通り、この本はまず訳者あとがきの部分で、ガンディーの生い立ちや遍歴、そしてどのように真理を探究し実践してきたのかを一通り読んだ上で本文に進んだほうが理解が深まりそうな気がします。...続きを読む ガンディーも社会人になったばかりの頃は人前で話すのが苦手だったり、小学校時代は九九に苦労したり、世俗にまみれていた時期もあったりといったエピソードがたくさん出てきて、思わず親近感を覚えるし、挫折や苦悩を経て聖人のような人格が形成されていった点に希望が持てる。 ただ元々自分にも他人にもものすごく誠実なところは小さな頃から変わらないようだ。 それはイギリスに留学していた当時、その時点では菜食主義を信条にしていたわけではないけれど、母への真実、愛のしるしとして、たとえ飢えそうになっても肉食を拒否していたエピソードでも読み取れる。そこまで愛する母の死を帰国後に知らされた無念や喪失感は計り知れない。 更に社会活動を起こす場合は必ず事前にその内容と時期を政府に伝えていたそうだ。 その後、人種差別が蔓延していた南アフリカに単身赴任すると、そこでガンディー自身も肌の色を理由に不当に列車から寒空の駅に放り出されるという酷い差別に遭う。帰国することも頭に浮かんだものの、踏みとどまることを決意する。この屈辱的な経験が人生の転換点となる。 暴力に対して暴力ではなく、非暴力(アヒンサー)という精神の力を持って当時の政府に立ち向かい、一つ一つ悪法を退けていった。「それは、自己犠牲をとおして人間的良心を喚び覚まし、ふりあげた手をおろさせる積極的な愛の行為」であった。 以下、本文やあとがきから心に残った箇所を抜粋 •己の探究である真理は自分自身の外にではなく、内にあることを学んだ。それゆえに彼は暴力に訴えれば訴えるほど、ますます真理から遠ざかってゆく。なぜなら、外なる仮想の敵と戦っているときは、内なる敵を忘却していたから。 •いっさいの執着心から解き放たれて自由になることが、神を真理として悟ること。 •ブラフマチャリヤとは、すべての感覚器官の抑制することを意味します。 •わたしたちは、かならずしも自分の本当の必要量に気づいてはいない。 •この世界の悲惨な貧困は、多くのばあい、不盗の原理の不履行に起因している。 •真理の探究者、すなわち愛の法(のり)の信奉者は、明日に備えてなにひとつ貯えてはなりません。 ・言葉のほんとうの意味における文明は、需要と生産を増やすことではなく、慎重かつ果敢に、欲望を削減することです。このことだけが、真の幸福と満足感を増幅し、奉仕の能力を倍加するのです。 ・こうした恐怖はどれもみな、肉体をめぐって生じるものですから、肉体への執着を離れれば即座に消滅します。このようにして、すべての外的恐怖は、なんの根拠もない、わたしたち自身の幻想の産物であることがわかリます。 ・地上の物を放棄することによって、それらを享受せよ。 ・わたしたちは所有者としてではなく、受託者として、物にかんしんをいだくべきである。 ・真の完全な宗教は一つですが一つですが、それが人間という媒体を通してあらわされるときには多となるのです。 ・寛容の心は、わたしたちに精神的な洞察力を与えてくれます。 ・何かを批評するにさいしても、謙遜と礼節を持って意見を述べるならば、後味の悪さを残すことはありません。 ・大海の一滴の水は自ら意識することはありませんが、母体の広大さに参与しているのです。ところが一滴の水が、大海を離れて存在を主張しはじめると、たちまちに蒸発してしまいます。 ・誠に謙虚であるということは、全身全霊を人間性(ヒューマニティ)への奉仕に向けた、不断の精進努力を意味します。
今年読んだ本の中で確実に上位に入る傑作だった。文体こそ平易だが、言っていることを理解するのはかなり骨が折れた。それでも、読んでよかった。 内容 (特に印象に残ったところを自分の言葉で解釈し直しました。) 1930年にガンディーが刑務所にいた時に、書かれた手紙。手紙の中では、アーシュラムというヒ...続きを読むンドゥー教の戒律を解説している。 真理 人間は、真理への献身に全人生を捧げるべきだ。真理のあるところには、真の知識があり、喜びも存在する。真・知・喜の三位が一体になったものが、神だ。神すなわち真理への献身には、一途な信仰とその他一切への無関心を必要とする。 アヒンサー=愛 真理とは(本文中には明示されていないが)、この世界を動かす原理原則を指している。真理に近づくために、ガンジーは愛の重要性を強調する。なぜなら、愛の実践は、無私を徹底することでもあり、そうしてはじめて、人間は自分を超えた世界の理を理解することができるからだ。 なぜ、無私の徹底が、真理への到達に必要なのか。それは、人間は、死滅する肉体を有する限り、人間は有限性の中に閉じ込められ、無限の真理を理解することができないからだ。肉体から来る利己的な欲求を抑え込むことではじめて、真理に近づくことができる。 個人的な欲求を離れて、真理に近づくうえで直面する課題は、苦難をもたらす利己的な他者を打ちのめすか、赦すか、ということだ。全ての人が配慮し、協力する社会の中で、無私を徹底することはたやすい。しかし、実際には、自分に攻撃をする人も一部存在していて、このような状況下では、個人的な欲求を離れることは大変難しい。そのため、多くの人は、苦難をもたらす他者を攻撃し、排除しようとする。しかし、ガンジーは赦し、愛すことを選ぶ。つまり、ガンジーは他者を直接変えようとするのではなく、自分が変化することで他者を変えようとしたのだ。他者が周囲を攻撃するのは、自分への執着や自分可愛さがあるからだ。それは大小あれど人間だれしも持つ共通の性質で、自分も有している。 このように気づくと、まずは自分自身を変化させることに関心が向くはずだ。そして、自分の感情や利益への関心が減ると、他者がどんなに酷いことをしたとしても、赦すことができるようになる。ただ赦すだけだと、他者を変化させることができない。赦したうえで、相手を愛することで、相手も自分に縁を感じるようになり、最終的には悪の道から立ち直れるようになる。こうして、赦しと愛を広げていくことで、我々は全世界を友とすることを学び、神すなわち真理の偉大さを実感することができる。 ブラフマチャリヤ=純潔・禁欲・浄行、嗜欲の実践 真理を実現するには、欲に従って動いてはならない。純潔や禁欲の実践、また料理を嗜む心も捨て去る必要がある。 不盗、無所有即清純 愛とは非暴力の実践であり、人からモノを盗んではならない。また、必要以上に多量にものをとることも盗みである。これは貧困の原因である。所有もされないことが望ましい。所有は、自分への執着でしかないからだ。 無畏 無畏とは、病気・死、財産の消失、愛する者との死別、名誉の失墜や他人の感情を害することなどへの、いっさいの恐怖から解放されることを意味している。真理を求めたり、愛を心に抱き続けるような高貴な諸特性の発展には不可欠である。恐怖に取りつかれたものが、武装し、人に対しても攻撃的になる。 寛容即宗教 宗教に対しては寛容であるべきだ。(この表現は、どこか上から目線でガンジーは好まない表現だった。)自分の宗教が完全で絶対だと思うと、他の宗教に対して寛容でいられなくなる。まず、多くの宗教が同一の霊から来ていると解釈すべきである。次に、霊は同一でも、不完全な人間である伝道師が布教しているので、宗教ごとに教義の差があること、そしてどの宗教も不完全であることを認識するべきである。そうすると、他の宗教にも寛容になることができる。 謙虚 謙虚は意識してすることではないので、戒律には入らないが、不可欠である。謙虚になるには、神と比較することが重要だ。神は常に休まずこの世界を統べているのに、神よりも格下の存在である人間は、休む暇はない。 誓願 誓願することは、その目標を何が何でも達成するという強い意思のあらわれである。「できるだけ」という言葉には、自尊心や弱さがあり、既に誘惑に屈している。 承前 人生を自己満足の手段とみてはならず、義務を果たす思いで取り組むべきだ。自分の好きなようにやろうとするのではなく、自分の持つ最上のものを差し出す覚悟が必要である。 感想 宗教・哲学の実践者の言葉が持つ力は圧倒的だ 普段読むような哲学者や学術書とは、また違った凄みがある。何回も読んでいる間に唸ってしまった。自省録を読んでいるときにも感じた、人を圧倒させる力がある。頭で考えていることと実践に乖離がないからだと思う。ただただ立派という言葉に尽きる。 神への奉仕の感覚への理解が進んだ 以前までガンディーの活動家の側面に着目していたが、宗教家に近いような印象を受けた。本書を読むと、ヒンドゥー教をはじめとして、キリスト教やイスラム教にもみられる「神に奉仕する感覚」がなんとなく掴めると思う。本書に幾度となく登場する「真理(すなわち神)」は、無宗教の人にとってはかなり分かりにくい概念である。読み取れることとしては、人智を超えたもの、言語化し得ないもの、自分という肉体を超えないと悟り得ないものといったところか。 一つ疑問に思ったのは、真理への献身や回帰の動機の所在である。キリスト教であれば神の罪人救済、仏教は真理の話はしないが、苦の脱却など、宗教には最終的な目標・動機がある。しかし、ヒンドゥー教やガンディーの目標はなんなのか。軽くAIで調べてみたが、真理への回帰・合一と書いてあって、理解がとってもとっても難しい。もっと勉強が必要だと感じました。 アヒンサーの実践は本当に立派で尊い 本書で一番感動したのがアヒンサーの章である。攻撃してくる相手の弱さは自分にもあることを自覚し、まずは自分を変える。自分の弱さを克服し、どんなに相手に攻撃されても、相手を赦し、友である態度を貫く。そうすると、相手も次第に、自分のように変わる。これは、とにかく立派で尊いだけでなく、非常に論理が通っている。 ただ、これをいざ実践となると、状況は絶望的になる。どんなに攻撃されても、そこに自分の弱さを認めて、自分を変え続けられる人はなかなか存在しないからである。これをやり切ったガンジーは本当に頭が上がらない。本文中では、人生の最上のものを差し出す覚悟がなくてはならないと言っていたが、まさにその覚悟で取り組んでいたのだと思う。 ガンジーの取り組みは、ネルソンマンデラに繋がったし、他の社会運動にも多大な影響を与えた。何処の馬の骨かもわからない日本人の無宗教の私でさえ、揺り動かす力を持っている。ガンジーは、実践が難しいと思われていた愛の論理を、実践可能であると人生を懸けて見せてくれた。まさに、ガンジーがいった言葉、My life is my message.である。 愛の実践は修羅の道であるが、今必要とされるアプローチだ すでに述べた通り、愛の実践は大変難しい。9割以上の人は、どうしても感情的に反応してしまうものだと思う。何か殺人事件や戦争が起こった時、人々は常に敵側を批判する。もっと日常的な例だと、自分に攻撃的な人や主義主張が違う人と出会った時、悪口を言ってしまいたくなる。このように、他人の悪行に自分の弱さを認めて、自分を変えようとするのは、大変難しいが、同時に生産的であり、前向きであると思う。また、個人としても幸福に生きられると感じる。自分の関心の対象が、変えられない他者より、変えられる自分に向いた方が生産的だからだ。私個人としては、あらゆる人の弱さに自分を見出し、愛する態度で社会や周囲の人に臨みたいと思う。この重要性は、四国遍路で学んだことでもある。この実践は、不正に甘んじているのではない。むしろ、自分を見失って感情的にならずに、現実的で最適なアプローチを選択することができると思う。 ガンジーは人々の認知や思想を変化させることで、社会にインパクトを残した。この思想的なアプローチは、技術や制度による社会変革が主流な現代において、もっと重要視されてもいいと思っている。特に人の怒りや憎しみを煽ってお金にしたり、政治をハックしたりする動きが見られる。最近だと一番怖いのは戦争。この認知や思想の改善がもっと行われないと、向かうは世界大戦争だと思う。 無宗教は罪なのか 宗教への寛容を説くガンジーだが、無宗教は問題視しているように感じた。また、ユダヤ教やキリスト教,イスラム教など神への絶対帰依を求める宗教には言及していたが、仏教には言及していない。(別のところでしているらしいが、都合よく解釈しているとの批判もある。) ガンジーは、無宗教の人々が、多くの宗教の暫定である「真理」への感覚が乏しいから、問題視しているのだろう。ガンジーの人生の目的は真理への献身であるから、そもそも真理について考えない人間は、話にならないと思っている可能性もある。 私はまだまだ態度を決めかねている。あることを絶対普遍の「真理」と信じ込んでしまうことで起こる歴史の悲劇は沢山あると感じていたからだ。しかし、今回、ガンジーのようなバランス感覚があれば、自分の宗教を愛しながら、絶対と思わず、他の宗教の信者を友として手を携えることもできることがわかった。また、「真理」への探究や献身を通じて、自分の使命を深く考えて、人類史に多大な貢献をしてきた人も沢山いる。また、「真理」を探求する宗教の教える慈悲や愛の精神は、人を立派に美しいものにする。 現時点で、一つの宗教に入信することはないけれど、無宗教でも彼らの精神性は見倣うべきところが沢山あると強く思っているので、勉強を続けていきたい。
時代はまだこの人まで追いついていない。暴力ではなく、精神的抵抗力こそが相手の良心に問いかけ相手を屈服させる。そして、その原動力は愛と真理である。
189P マハトマ・ガンディー Mohandas Karamchand Gandhi 1869-1948。モーハンダス・カラムチャンド・ガンディーはインド西海岸の小藩王国の宰相の家に生れ、父の一徹な正義感と母の敬虔な信仰心の影響のもとで育った。13歳のとき、当時の風習に従って結婚、19歳でイギリス...続きを読むに留学、3年後弁護士の資格をえて帰国・開業したが、生来の内気のために成功しなかった。1893年に商社の顧問弁護士として南アフリカに渡ったが、上陸後まもなく白人の言語道断の人種差別を体験、これが決定的な人生の転機となった。以来22年間、同地にとどまり、真理と非暴力にもとづくサティヤーグラハをもって同胞の人権擁護のためにたたかった。1915年にインドに帰り、南アフリカでの貴重な体験を生かして、農民争議やエ場ストライキを有利に指導して注目された。1919年にローラット法に抗議して、インドにおける最初の大衆非協力運動を開始した。ガンディーの政治舞台への登場は、国民会議派を大衆政党へと脱皮させた。1922年にチャウリ・チャウラで発生した民衆の不祥事件を理由にこの運動を中止、自らも投獄されたが、彼にあってはあくまでも手段(非暴力)が目的に先行しなければならなかった。彼はまた、不可触賤民制の除去など建設的プログラムも政治的独立と同時に推進しようと努力した。1930年にガンディーの「塩の行進」をのろしとして、インドは国をあげて第二次非協力運動に突入、1942年には、「インド撤退要求」を合言葉に激しい対英抗争を展開した。けれどもガンディーの念願した「一つのインド」は実現せず、1947年インドとパキスタンは分離独立した。それにつづく熾烈なヒンドゥー=ムスリム紛争に心を痛め、単身、騒擾の村々を訪ねて愛と協調を説いた。1948年、狂信的なヒンドゥー教徒の凶弾によって79年間の「聖劇」ともいうべき生涯の幕をとじた。 森本達雄 もりもと・たつお 1928年和歌山市に生れる。同志社大学神学部卒業。インド国立ヴィシュヴァ・バーラティー大学準教授、名城大学教授を経て、同大学名誉教授。2016年歿。著書『インド独立史』(中央公論社、1972)『ガンディー』(講談社「人類の知的遺産」1981)『インドのうた』(法政大学出版局、1976)『原典で読む タゴール』(岩波現代全書、2015)。訳書 ネルー『忘れえぬ手紙より』(全3巻、みすず書房、1961-65)、ガンディー『わたしの非暴力』(全2巻、みすず書房、1970・71)『獄中からの手紙』(岩波文庫、2010)『『ギーター』書簡』(第三文明選書、2018)、『タゴール著作集』(全12巻、編集・共訳、第三文明社、1981-93)、チョウドリー『ヒンドゥー教』(みすず書房、1996)ほか。
ガンジーの厳しく思える規律。 その大目的は絶えず世界へ向けた動機善なりである。 世界を動かす思想とは、 ある面では偏らざるを得ないことを感じる。 だが、 ガンジーが最も厳しかったのは自分自身であり、それを強要することはなく、 大きな器と慈愛とユーモアに溢れていたという、知人たちの言葉が響く。 ...続きを読む世界を変えるには 自分を変えることだ。
全ての宗教は1つの大きな幹から枝分かれしたものだ。 そんなガンジーの宗教観には目から鱗が落ちる思いがした。
本名は、モハンダス・カラムチャンド・ガンディー。言うまでもなくマハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父です。「非暴力」の思想はあまりにも有名ですね。 とはいえ、実を言えば、今まで私は、ガンディーに関するまとまった著作を読んだことがなかったので、彼の思想に直...続きを読む接触れるのはこれが初めてになります。 1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監されていました。本書は、その期間中に、ガンディー自らが設立した修道場で彼の教えを実践する弟子たちに宛てた書簡集です。「サッティヤー(=satya(真理))」「アヒンサー(=ahimsa(愛))」を中心したガンディーの思想の概観を感じることができる大変興味深い内容です。
ガンジーもかつては、様々な失敗や差別、母親との死別を経験した。 そしてそれは非暴力の抵抗運動につながっていく。 「正義」とは何なのか、「意思」とは何なのか、「貫く」とは何なのか。胸を締め付ける思いと共に考えさせられる。
公正さ、 自分と異なるものへの敬意、 大きな愛。 この時代のインドにあってこの考え方をしていたというのは、物凄いことなのではないか…。 これはちょっと無理、というのもあったけれども。 自伝が読みたくなった。
この人もやはり書いていた!後世に名を残すような偉人はやはりこうでなければ!自分も入牢したらぜひ書いてみよう。 1930年、第2回非協力運動の幕開けとしてモーハンダース・カラムチャンド・ガンディーが行った「塩の行進」により、ヤラヴァーダー刑務所に収監された中で書かれたものであるという。ガンディーが主...続きを読む催した修道場(アーシュラム)の弟子たちに向けて、その教えの意味について毎週に書き送られたものとのことである。 その教義は真理や愛(アヒンサー)といった普く宗教として当然あるべき徳目から始まる。そこまでは自分にもある程度理解・納得できるのだが、しかし、次に続く純潔・禁欲・浄行(プラフマチャリア)や嗜欲(味覚)の抑制、不盗、無所有即清貧とくるにつれて次第にガンディーの各徳目の奥行きは果てしなく厳しくなっていき、ある意味、狂信に近くなっていくのではとすら思えてくる。肉欲はもってのほか!美味しいと思うものを食べるな!本当に必要なもの以外それを得ることも盗みにあたる!ということなので・・・。 それだけ自分が煩悩にまみれているということでもあるのだが、こうなると生きている甲斐はあるのか、そもそも子孫を残して人類が存続していけるのか、というそもそもの根本的な疑問も当然湧いてくる。 そうなのだが、ヒンドゥー教の伝統思想は、人間のうちなる霊魂(アートマン)は、果てしない輪廻転生を繰り返すが、最終的に真理・梵(ブラフマン)を悟り「解脱」に到ることが目標であるということなので、インド社会にあってはそのような徳目は理解されやすく、実践者は崇敬される存在になるのだという。 実際、若い頃にことごとくヒンドゥーの戒律を破ってみせ、また社会的成功を夢見ながらも人生の敗北者でもあったガンディーであったが、南アフリカで人種問題にさらされるや、ただただヒンドゥー的な厳しい徳目を実践しながら、無抵抗の抵抗の指導者として「偉大なる魂(マハートマ)」と崇敬されるに到る。マハートマ・ガンディーの誕生である。 これぞ禁欲の崇高さというか強大さに最終的には誰も抵抗できないといったところであろうか。現代において聖人が世の中を導いた事例として特筆される事績であるといえよう。 だが、政治運動にかかわり続けるガンディーに対して、ヒンドゥーの宗教指導者バラモンからは、結局俗世の政治にかかわることに批判され、最終的にはヒンドゥー極右の凶弾に倒れるという皮肉な最期を迎えてしまう。しかしそうであっても、やはりその偉業ゆえに世界の歴史に燦然と輝く偉人の一人として記憶されるべきであろう。 俗世にまみれた自分には実践は到底無理なのであるが、煩悩に堕ちたと思った時にこそ新たな気持ちで本書を読み、ガンディーの禁欲のほんの一端でも噛みしめて、崇高な気分に浸りたいものである。 ん!?このようないい加減な気持ちも戒律違反?(笑)
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