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Posted by ブクログ
「震洋」という特攻兵器があったことは以前から知っていて、合板製のモーターボートというその概要を知ったときは、狂気の沙汰であるとしか思えなかった。爾来、とくに専門書を読むようなことはなかったが、この兵器のことは関心の一端にありつづけていた。そして今回、それとは知らずたまたま手に取ったこの『魚雷艇学生』が、まさにその「震洋」の話であった。とはいえ本作は特攻そのものを描いているわけではなく、戦争映画のようなスペクタクルもなければ、人がバタバタと亡くなるわけでもない。「解説」でも触れられているが、語り口はあくまでも淡淡としている。でも戦争の脅威や非人道性が伝わらないかといえばぜんぜんそんなこともなく、そもそもほんらい一介の学生に過ぎなかったはずの主人公=著者がいつのまにか指揮官に任じられていることじたい、この戦争の無謀さを物語っている。数数のエピソードにしても、とうてい戦争で勝てるような集まりではないことがよくわかる。主人公が入隊した時点ですでに勝機はなかったといってよいだろう。野間文学賞および川端康成文学賞を受賞していることからもわかるとおり、本作は単純に文学作品としても名高いが、このような戦争の一端を知ることができるという点で、貴重な戦争の記録としても読む価値がある小説である。
Posted by ブクログ
創設されたばかりの魚雷艇を志願し、特攻隊として戦争にくわわることを予定された青年の日々の訓練をつづった作品です。
ほかの学生たちにくらべてやや年上の青年は、予備学生となった当初から、周囲から浮いた存在として、彼らのようすを観察していることがえがかれています。むろん彼も、戦争へと向かう状況から離れた立場に立っているわけではありません。しかし彼は、特攻隊に身を置くことになりながらも、そんなみずからの運命をどこか遠い所からながめるようにしるしています。
こうした著者の独特のスタンス、たとえば次の文章によく示されているように感じます。「私は勢い荒々しく声を張りあげて叱咤する結果にならざるを得なかったが、考えてみればつい一、二箇月前までは、魚雷艇の操縦もままならず、魚雷の発射操作に至ってはまるきり飲み込めずに、教官から罵声をあびせられ、指揮棒代わりの棍棒でこづき廻されていた私ではなかったか。それはおかしな具合に意識の中で現在と二重写しになりながら、震洋隊一個艇隊の艇隊長としての配置を与えられただけで、滑稽なくらい自信に満ちた態度で彼らに訓練を施す姿勢が執れている自分を見つめているもう一人の私もいたのだった。」不思議な感懐であるようにも感じますが、戦争において死がせまりつつある状況というのは、あんがいこのようなものなのかもしれません。
Posted by ブクログ
生前出版された最後の小説。
奥野健男が解説にて、「あとさき」の「さき」であると書いていた。なるほど。1943年9月から44年11月までの体験記。
「あと」は、「出孤島記」、「出発は遂に訪れず」、「その夏の今は」など。
本を手にした瞬間は、なんて改行が少ないんだろうと抵抗が大きかったが、文章は断然読みやすかった。
大学出だから、「即席」で下士官になってしまったゆえの、苦と楽。
最近島尾敏雄を集中的に読んでいるからこそ、ではあるが、この語り手の「煮え切らない」感じは、好きにならざるを得ない。
まず学徒出陣の訓練生(海軍兵科予備学生に志願)としては周囲(24歳くらい)より数歳年上(28歳)ということもあり、馴染めない。
キャラメルを頬張るのがどうとか、どーでもいいあれこれを、簡単にやり過ごせない、何かしらの自負がある。文学かぶれゆえのややこしい感じ!
といっても、大西巨人「神聖喜劇」の東堂太郎のように、ある意味ヒロイックな言動をする気概も、特になく、ある程度流され、ある程度抵抗を覚え。
なるほどそういう視点、と思ったのは、下手でも無能でも特攻なら自分が直接操作するから比較的単純に違いない、とか、前例のない特攻組の「伝統のなさ」こそに惹かれた、とか、うーん確かに。
力まないというか、クールな感じ。
文芸ってやっぱり、敗者とか、疎外されたがわのものだよな、と。
(宮崎駿が何度か描いた、軍部の力みの、真逆)
そんな語り手も、制服組としての優越感や特権を、つい行使してしまうあたり、地位って人を形成するよな、とか、立場が作る誇りが人を成り立たせるんだな、とか。(特攻体験というより、特攻"隊"体験だったと、「新編 特攻体験と戦後」での吉田満との対談にて、こだわっていたが)
部下を持ったあとも、部下の野卑な強靭さに比べて自分の地位は虚構でしかないという意識……虚勢を張るというほどのファナティックはないが、ここに「ポーズをとる」、「役割を演じる」という、のちの「死の棘」に至る、渦中でも熱中しきれず醒めている感じが、あるし、これってある種の人間の宿命でもあるのかな、と。
どこぞの料亭で暴力になじみかけた、という印象的な挿話があるが、本作ののち、奄美・加計呂麻島に渡って、島民にある意味受け入れられたり、どころか島の娘と逢瀬を重ねたり、特攻兵の長だからこその特権を恣にした事実もあるので、「あとさき」の「さき」のプリセットがかくして整った、という幕引き。
ちなみに、奥野健男が、島尾敏雄の経験(特攻命令と保留)ってドストエフスキー(死刑宣告と直前の減刑というかヤラセ)と似ているなと自分がずっと思っていたことを、書いてくれていたので、嬉しかった。
目次
第1章 誘導振
第2章 擦過傷
第3章 踵の腫れ
第4章 湾内の入江で
第5章 奔湍の中の淀み
第6章 変様
第7章 基地へ
◇解説 奥野健男
Posted by ブクログ
えぐっやば笑 面白すぎる。
飴舐め事件。周囲の高校出たての学生たちより年上で孤立気味の主人公だけが上官に正直に飴舐めを自白し、殴られるがその最中自分の行動を恥ずかしく思い、
「私は食卓に向かって腰をおろし、ぼんやり前方に目をやっていた。上気した頭で、どうしてこうなったかを、そもそもの自分の分隊内での態度からその筋道を辿ろうとしてみたが、刺戟が強く、堂々巡りばかりして解きほぐせるはずもなかった。これは滑稽なことだ、と思いこもうとしたが、かえって羞恥がふとるばかりであった。同じ班の例の学生の、冷ややかに私に注ぐ目なざしを、私は自分の背中にきつく感じてもいた。」
まさにドストエフスキー。自分で勝手に孤独になって、みんな誰しもが破ってるルール、飴舐めを自白するか誰にも相談せず悩んだ挙句、上官の元を訪れると他に誰一人おらず、上官の方が驚きながら折檻され、後にみんなの前で叱られるが正直なことも評価され、一連の流れを急に後から恥ずかしく思い自己嫌悪に陥る。
ヴィクトール・フランクル「夜と霧」
ジョゼフ・コンラッド「闇の奥」と、
極限での心理状態を描いた名作が世界には存在する。原爆や東日本大震災についても同じことが言えるだろう。
島尾敏雄「魚雷艇学生」もこの奇妙なジャンル「極限」に含まれうる作品に違いない。
私は、戦後80年の節目にあの戦争について改めて考えたいなどという表向きの裏に、安穏とした日常のひとときの暇つぶしになればなどという感情を押し隠して、喜び勇んで本書を手に取った訳であるが、結果として私如きが彼らの本質の0.0000001%も理解できるはずのないことを理解できたという点で、「滑稽」のために死ぬ一歩直前で踏みとどまることができたように思っている。全くもって、この本を手に取った瞬間、少しでも彼らを解ることができようなどと思ったのが如何に愚かであったのかということに尽きる。
その上で最後にこれだけは言えよう。
私の人生がこの先どんなに暇で安穏で、つまらない日常を送ることになるとしても、自殺の選択を眼前に突きつけられて丸一日野外に放り出され、吐き気を催しながら絶望するなどという極限を体験することは、全身全霊を持って御免である。
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