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Posted by ブクログ
客観性を物事や現象の真理とする現代。客観性担保のために全てを人の主観性を排除して、実験・計測などにより数値化し、その数値を統計処理により物事の基準を定め、エビデンスとする。あらゆるものがエビデンスにより標準化され、個々の独自性は排除されていく。
数値による標準化が重視される社会ではその基準に従って、人間を序列化し、その序列とは社会にどれだけ役立つ事が出来るかの基準とされる。
弱者が排除される社会。そんな社会が生きやすい社会なのだろうか。
人間とはそれぞれがさまざまな感情や考え、生育環境、生活環境を持つ個別的な存在である。客観性のもとにマジョリティがステレオタイプ的を分類・序列化してしまう社会への著者なりの処方箋を示している。
Posted by ブクログ
村上靖彦先生のようか、臨床哲学の実践家は、「客観性」をいかに見、いかに語るのか、を知りたいと思い本書を購入。
もちろん本書の重みは、後半の臨床哲学的な分析の部分、制度の「間」に落ちてしまった人たちやその支援者の語り(ナラティブ)の分析になるのだろう。が、わたしとしては、村上先生が自身の違和感を言語化するためにおこなった数々の努力が伝わってくる前半の議論の方に、心が惹かれた。
「客観性」重視の論調への違和感を表面するのは簡単だが、それが、わたしたち人間にとってなぜ負の側面をもたらすのか、それがなぜ「悪」だといえるのか、それを、一つひとつ、「客観性」の世界にいきる私たちの耳に届けていくことは、難しい。
本書の著者は、自然科学から始まり、経済科学、社会科学、そして心理学までが、実際に生きている「人」としての我々から切り離されていくプロセスを追っている。
私たちの世界を明らかにするための学問が、なぜ「人」の痕跡をかんじさせない「客観性」を求めるようになってしまったのか…その痕跡をおっていきながら、「客観性」が人を排除するのみならず、誰かを不要なものとしその命を奪うことにすらなってしまった、その帰結を記述しようとする。
ご本人が述べておられるように、その素描にはもちろん不完全なところがあるのかもしれないが、少なくとも、この本を読むなかで、自分の中の苦しさ、わだかまりのようなものがスッと流れていく感じがあった。
「それって主観ですよね」という言葉を投げかけられ続け、つらい気持ちになったときには、いつでも開きたい本だ。
Posted by ブクログ
数字や客観性「だけ」を真理することに対し異を唱え、生々しさというか個人の経験談こそが、人を動かす重要なファクターであるということを説いた本。
本書内ではビジネス的な観点のエピソードはないが、例えば、新事業や新しいプロジェクトを提案するときに、市場が〇億円あって、競合品がこんなんで、それに対し、自社のプロジェクトはこんな利点があって、シェアが■%ととれます、という説明も大事ですが、どこそこ会社の●●さんが、「この商品なら、月■個は使うぜ」と言ってくれてます!さらに同様の声が〇人以上います!みたいな話をされると、妙に納得するな、と思ったことを思い出しました。
統計的な数字も大事ですが、ストーリーを語るためのナラティブも重要ですね。その使い分けができるか否かが、仕事ができる人とそうでない人の境なのかも、などと思いました。
Posted by ブクログ
「数値と客観性への過度の信仰」(p.11)によって、見過ごされ、切り捨てられる事実があることに焦点を当て、結果として自分たち自身が不幸になっていく「社会の弱い立場の人に厳しくあたる傾向」(同)の背景にある思想、どうやってその思想から脱却するか、ということについて述べられた本。初めは科学的思考への過信に対する警鐘を鳴らす、的な本かと思ったが、結果としては哲学の本だった。「決して既存の科学そのものを批判する意図があるわけではない」(pp.174-5)ということは何度も繰り返されるが、その上で、「競争と勤勉さという社会規範」(p.174)をあまりに忠実に信仰することの危険性について指摘し、「一人ひとりの経験の内側に視点をとる営み」(同)によって、別の真理に辿り着こうとする試みについての話だった。「問題は、客観性だけを真理として信仰するときに、経験の価値が切り詰められること、さらには経験を数字へとすり替えたときに生の大事な要素である偶然性やダイナミズムが失われてしまう」(pp.134-5)という話。昔、先輩の先生に、「なんか新書ばかりじゃなくて、誰かの手記とか読んだ方がいいんじゃない」とアドバイスされた記憶が微かにあるが、それに近い感じなのか、と思った。
まずは「客観性」というものはどこから生まれたものか、という学問の歴史についての話があって、客観性といえばやっぱり数学や科学の世界、という話。「人間の操作とは無関係に成立している論理的な関係のなかに数学の基礎を求める」(p.26)ようになり、「言い換えると、『それは何か?』ではなく『事象と事象がどういう関係でつながっているのか?』に焦点が移る」(同)というのは、なるほどと思った。「個々の対象ではなく対照間の法則こそが客観性だとみなされる」(p.27)という話は分かりやすい。だから客観性とは数式で結びつけたり、数式の操作によって成り立つその「何か」、が客観性の正体なのか、と思った。「統計学が力を持つ現状は、自然と社会のリアリティの在処が具体的な出来事から、数字へと置き換わったことの象徴である。当初、統計は世界のリアリティについてのある程度の傾向を示す指標と見なされていたが、次第に統計が世界の法則そのものであると考えられるようになった。」(p.54)というのも分かりやすく、つまり統計が事実そのものになる、行き過ぎれば統計による暴力、とも言えるかもしれない。あとは医療現場や学校現場における「リスクと責任」も、この統計が人を追い詰めている例だが、学校の校則は「子どものためと見せかけて、大人が自分の不安ゆえに子どもの行動を制限しようとしている。リスク計算は自分の身を守るために他者をしばりつけるものなのだ」(p.56)というのは、詳しくは言えないが、本当に今日、仕事でおれがやったことなので、本当にこの競争社会に縛り付けられているおれ、という感じがした。「そんなことをして責任とれるんですか」(p.57)という言葉で非難されるのを防ぐために、おれはリスク計算をして合理的な行動をしたが、そうやって完全にこの客観性に支配される世界の住人として生きてるよな、と思った。教員ははっきり言って、リスク計算ばっかりする仕事のような気がする。というか、でも逆にこういう計算をする必要のない仕事って、どういうものがあるんだろ、と考えてしまう。そうやって客観性による暴力の最たるものが、「優生思想」ということで、これは昔のユダヤ人やアメリカの移民の話だけでなく、「現在の日本での発達障害の増加は、知能テストを過剰に行うこととも関係していそうだ。(略)『発達障害』という名称を手にしたことで救われる人も少ないが、安易に『発達障害』というラベルを子どもに貼ることで集団になじまないとういレッテルを貼り、『特別支援学級』への移行や、『放課後等デイサービス』の利用を勧め、分断を生んでいる側面はないか。」(p.69)というのは鋭い指摘だと思う。さらに、じゃあ個別の体験を重視します、と言っても、そこには「他者表象の暴力」(p.140)の問題が潜む、という話も、納得できることだった。「研究者というマジョリティ側の強者が、傷ついたマイノリティを研究するという構図となる。このとき研究者が、研究対象となる人々に(学問にもとづいた扱いをするがゆえに一見するともっともらしい『客観』という)レッテルを貼ることがめずらしくない。」(p.140)という、なんか客観とは別の心理を発見するために、ひたすらにその営み自体を客体化していかないといけないという研究の難しさ、危険性について認識できて、なかなか一筋縄ではいかない、という感じ。弱者に対するきれいごと、を言うことが実は暴力かも、という難しさがある。
特にネットだったら、こういう「暴力」は本当に当たり前だよな、というかおれもよく知らないけど最近よく見る「Tier表」もゲームの世界での強さを数値化して分類、ということらしいので、この世界観から脱却するのは、ほとんど非ユークリッド幾何学をやるようなパラダイム転換が必要で、難しい。でもまさにこういう真理や世界があるということを、社会に出る前の高校生、おれの生徒には知って欲しいし、頭の片隅には常に置いておいて欲しい、と思ったので、おすすめしたい本の1冊だった。(26/02)
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