ブックライブでは、JavaScriptがOFFになっているとご利用いただけない機能があります。JavaScriptを有効にしてご利用ください。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで100万冊以上配信中!
来店pt
閲覧履歴
My本棚
カート
フォロー
クーポン
Myページ
4pt
「その意見って、客観的な妥当性がありますか?」。この感覚が普通になったのは、社会の動きや人の気持ちを測定できるように数値化していったせいではないか。それによって失われたものを救い出す。
アプリ試し読みはこちら
※アプリの閲覧環境は最新バージョンのものです。
Posted by ブクログ
前半1-4章は客観性の呪縛に囚われているわれらの罪深さを抉り取られ、いたたまれない気持ちに。 後半5-8章が著者の主張。個々人の経験の偶然性やリズムを、無編集の語りから掬い上げようという。さらにはケアの文脈から、マジョリティで覆い隠されている弱者への救済。 ちくまプリマーから刊行しているには、内...続きを読む容が重い。それだからこそ、10代のような若者にこそ、客観性の神話から解き放たれてほしいという著者の切実な祈りを感じる。客観性が「一般」ではなく「普遍」と解釈されがちな社会、その思想に浸かっている自分の目を覚させてくれる。
825 192P これ分かる。あまりに当たり前になってるけど、大学を学部で選ぶんじゃなくて、偏差値で学部とか関係なく受けたりするの馬鹿みたいだなと思う。そんなんしか大学に行かないなんて、大学側としても国としても害悪な気がするんだけど。 村上靖彦(むらかみ・やすひこ) 1970年、東京都生まれ。...続きを読む日本の精神分析学・現象学者、大阪大学教授。1992年東京大学教養学部卒、基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点CiDER兼任教員。専門は現象学的な質的研究。著書に『ケアとは何か』(中公新書)、『子どもたちのつくる町』(世界思想社)、『在宅無限大』(医学書院)、『交わらないリズム』(青土社)などがある。 一九世紀末から二〇世紀初頭に活躍した物理学者のアンリ・ポアンカレ(一八五四─一九一二)は次のように語っている。「科学の客観的価値とは何か」と問うとき、その意味は「科学はものごとの本当の性質を教えてくれるか」ということではない。「科学はものごとの本当の関連を教えてくれるか」ということを意味する(*17)。 個々の対象ではなく対象間の法則こそが客観性だとみなされるようになるのだ。法則性が重視されることで、人間の関与は一層抹消される。さらには法則の方程式にはどんな数値が代入されてもよいわけだから、個別の対象も抹消される。数式と数値だけが残るのだ。 論理的な構造が支配する完全な客観性の世界が自然科学において実現したとき、自然は実はそのままの姿で現れることをやめ、数値と式へと置き換えられてしまう。自然を探究したはずの自然科学は、自然が持つリアルな質感を手放すようになるだろう。雨や風の音や匂い、草木が繁茂していく生命力は消えていく(もちろん事象のリアリティにこだわりつづける生物学者・生態学者もいるだろうが)。客観性の探究において、自然そのものは科学者の手からすり抜け、数学化された自然が科学者の手に残ったのだ(*19)。 「社会」という単語はあいまいでとらえどころがない。ところがデュルケームは、ある程度均質性のある集団がもつ「行為、思考および感覚の様式」が「社会」の特徴であり、この「様式」は、集団に属する個人への強制力をもつと主張する。このように定義したときには、社会は個々人の主観から切り離された客観的な事実となる。さらに統計によって様式の傾向を把握可能であると考えた。つまり客観化することで、社会を数値で扱うことができるようになり、科学の対象になるというのだ。 以前、同僚のアーダに「フィンランドに、いわゆるいい学校ってあるんですか?」と質問したら「家から一番近い学校」と言われた(*1)。 名門校があるわけではなく、近所の学校こそが子どもにとってよい学校だというのだ。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『世界侵略のススメ』(二〇一六)のなかで、ムーアがフィンランドの学校を訪れて先生たちとディスカッションしている場面でも、「家から一番近い学校が一番よい学校」という会話が展開されている。 フィンランドでは学校間の競争がないだけでなく、授業も詰め込みではない。子どもの興味に従ってテーマを設定して自分たちで調べ、あるいは体を動かすグループワークが中心であるという。小学校でも九〇分の授業枠のなかで自由に取り組み、休み、自ら学んでいくのだ。 福田はフィンランド教育組合でのやりとりも紹介している。「点数の高い高校に受験生が殺到するのではないか」「それは、他人の点数だ(中略)しかも平均点だ。英語と数学の平均点を出して、何が出てくるのか。自分が何を学びたいかが重要だろう(*4)」 つまり良い偏差値の学校なるものが仮にあったとしても、その「良い偏差値」は多数の人のデータからなる統計である以上、自分の成績とは関係がないものだというのだ。しかも異なる教科を制約のあるペーパーテストで測った平均値はそもそも意味がない。 日本の若者の多くは受験勉強を強いられ、偏差値を気にしているだろう。日本では長年にわたり偏差値によって学校は一直線にランク付けされ、受験生たちは模擬試験や本試験の結果に一喜一憂している。誰もが自由に学ぶ権利をもつはずなのに、学校にランク付けがあり、入学試験で排除することがあるということは奇妙でもある。 また、さまざまな研究分野をもつ大学が、なぜ「私立文系」「国立理系」といった雑なくくりのなかで序列がつけられるのだろうか。私たちはそれぞれ興味を持つことが異なり、そもそも興味や得意は、中学や高校で行われる教科からはみ出ることが多いだろう。 さらに大学に行ってからの多様な学びと研究は、高校までの画一的な教科とはまったく質が異なる。学生自身一人ひとりの願いは異なり、大学の学部の学びの多様さがあるなかで、偏差値という単純な数字を頼りにして序列化することで何が判断されてきたのだろうか。しかし、これほど当たり前のものとして受け止められているのは、数字の呪縛がそれだけ強いということでもある。 一九五七年に東京都港区の中学校教員だった桑田昭三が、学力偏差値を考案した(*5)。当初は教員の勘に頼っていた進路指導に、信頼できる指標を導入することが目的だったのだが、次第に偏差値は独り歩きし、偏差値そのものが勉強の目的となっていく。例えば英語の学習は英語が使えるようになることではなく、英語のテストの偏差値が上がることが目的となっている。偏差値そのものは、テストの点数が正規分布すると仮定される母集団のなかで、どの位置にいるのかを示す統計的な指標にすぎない。 数値至上主義は偏差値に限った話ではない。社会に出たらあらゆる活動が数値で測られる。例えば大学教員である私は、毎年何本論文や著作を出版したのか、いくら助成金を獲得したのかを大学に報告する。業績の報告のあと、年度末に次年度の目標を立てて提出している。つまり目標と成果が数値で計測され評価されるのだ。民間企業に勤めている人たちは、もちろん私どころではない。 アメリカの喜劇役者チャールズ・チャップリン(一八八九─一九七七)が監督・主演した『モダン・タイムス』(一九三六)というコメディー映画がある。チャップリンが演ずる工場労働者の主人公は、機械と資本家に縛り付けられながら同時にコミカルに工場のラインを乱し、上司をはぐらかすことで抗う。映画の前半で、チャップリンは人間が工場や機械に管理される様子を描いた。チャップリンはベルトコンベアに乗って歯車に巻き込まれながら文字通りに歯車と一体化する一方、社長は社長室でジグソーパズルで暇をつぶしながら、テレビ画面を通して労働者の働きぶりを一望に監視するのである。 『モダン・タイムス』は経済的な原理が優先するなかで一人ひとりの顔が見えなくなる社会を描いてもいる。映画冒頭、工場労働者が集団で仕事に向かう場面では、羊の群れのカットのあと顔が見えない労働者たちの群れが映し出される。労働者たちはほとんど同じ服装で同じ動作をするために一人ひとりの区別がつかない。 小学生の頃は、ゴキブリがたくさんいる部屋に暮らし、毎食カップラーメンを食べるような生活を「普通」と感じていた。友だちがびっくりしたことがきっかけで世間一般の「普通」を知り、このときから「普通」はショウタさんを縛る規範となり、それを内面化してあこがれるようになった。ところが最後にそこから大きく変化する。「普通、って何?」と自ら進んで世間の「普通」から離脱する。受動的にではなく、自らの意志で「普通」から離脱することが、そのままショウタさんの生き方のスタイルの表現となっている。困難な社会的な条件のなかで、どのように主体的に人生を引き受けたのかが示されている。 母親はうつ病と薬物依存でショウタさんの世話を十分にはできなかった。さらには、たびたび変わる母親のパートナーからショウタさんは暴力を受けて転居を繰り返した。そして、二人暮らしだった高校生のときに母親は衝動的に自死している。そのような背景のもとでショウタさんは「母親に育てられてよかった」と繰り返す。最終的に、一度は自分のものとして内面化した世間一般の「普通」という価値観を離れ、自分固有の価値を発見するとともに、自分と母親の人生を肯定する。経験の重さは、落ち着いた語りのなかに透かし見える。そして彼個人の経験が一般的な「普通」へと回収されることがないということをさまざまな仕方で確認するのだ。 偶然出会う出来事とともに私たちの人生は作られていく。人間が変化するのは、つねに出合い頭の偶然の出来事、一期一会の偶然の出会い、思わず口に出た偶然の言葉をきっかけにしてであろう。 出来事が起きた日時は年表のどこかにプロットできるが、出来事がなぜそのとき「たまたま」起きたのかという「たまたま性」は、年表には書き込めない。とはいえ「たまたま」はまぎれもなく時間的な経験だ。 近代日本の哲学者である九鬼周造(一八八八─一九四一)は、偶然という問題に真正面から取り組んだ数少ない人物である。彼は偶然を、定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然、原始偶然という四種類に分けて議論した(*2)。 最後の第8章ではこれまでの議論から見えてくる、望ましい世界の姿を描きたい。腰を据えて一人ひとりの声と言葉を聴き、解きほぐし、数値に基づく競争ではなくお互いの交流から組み立てられる社会はどのようなものだろうか。 その前にまずこれまでの議論を振り返っておこう。第1章と第2章では、私たち一人ひとりの生きづらさの背景に、客観性への過度の信頼があることを指摘した。自然も社会も心も客観化され、内側から生き生きと生きられた経験の価値が減っていき、だんだんと生きづらくなっている。 人は自分の存在が無条件に肯定される場を必要とする。自分の体が落ち着けるような、そういう場所も必要だ。その場所は、自宅ではなく、他の人がともにいる場所であり、それゆえに自分の存在を肯定してくれる居場所である。居場所は安心できて落ち着ける場所というだけでなく、誰もが利用できて力関係が弱い場所、遊びの場、何をしてもよい場、何もしなくてよい場、声を発することができる場所、語り合える場、沈黙できる場、いつでも帰ってこられる場所、社会で失敗しても戻ってくることができる場所といった多様な意味を帯びる。さらに居場所をメタファーとして考えると、すき間へと追いやられた人が自ら声を上げることを可能にする環境という意味も持つだろう。 書くべき内容は章立てを作った時点ではっきりしたのだが、専門外のことについて触れるためらいもあった。客観性や数字を用いる科学は不要だと主張しているわけではなく、「真理はそれ以外にもある」「一人ひとりの経験の内側に視点をとる営みは重要だ」とつぶやきたいだけだということはご理解いただけたら幸いであり、決して既存の科学そのものを批判する意図があるわけではない。
研究用の文章を書いてて「そこに客観性はあるのか」というツッコミが来そうだなあとよく思い悩むので、この本を読んで安心できた。
数値化の鬼とは逆の思考で、数値が全てでは無い、個別具体の意見が存在するのだって言う主張。 あるものの視点を大衆側では無く、ニッチな方の視点に立って一度観察することが客観性を排除するためには重要である。
ある人の考え方や言動をみていると、頭の中で分析して何かにカテゴライズしてしまう。そしてこの人はこういう人だからと決めつけてしまうことがある。たまたまその時の状況や環境がそうさせているだけであって、本当は簡単に割り切れるものではないのかもしれない。まあこれは主観でやっていることなので、客観性とはちょっ...続きを読むと違うのだが一般化していることに変わりはないだろう。 客観性は大事だが、そこから切り詰められた個別性を無視するのは乱暴なことで、どちらも大切にしたいと思った。本書に書いてある現象学の考え方は組織作りにも参考になりそうだ。
数値には表れない経験に思いを寄せ、寄り添うことが、真の主体性である。誰のための客観性なのか?考えて数値の裏側にある意図を考えるようにしていきたいと感じた。筆者が寄り添ってきたように、競争社会で『弱者』とされてしまい取り残されてしまう人たちを見捨てないことが、より良い社会を実現する第一歩なのではないだ...続きを読むろうか。
仕事しているとデータを取りまとめて分析し見出す客観的な視点と、感覚的にはどこかおかしい、そうではないという視点が対立することがままある。 最終的にどちらが正しいのか、ということはわからないけども、感覚的なところで腹落ちできることの方が自分にとっていい考え方、判断だったと思う。また、自分が思っている...続きを読むことは、みんなも思っているが正しさを表現できないから黙っているだけということもある。 客観性だけにとらわれて物事を判断するのではなく、それが当事者の思いに寄り添ったものなのか、誰のための客観的な考え方なのか、大事にしたいことは何なのか、データだけを鵜呑みにすることなく、広く視点で物事を考えていくことが大切であり、それがほんとうの客観性に繋がるのではと思う。
プリマー新書でやさしい文体だけれどあえて大人向けとした。社会を見る目にはマクロ的視点とミクロ(個別の経験)的視点の両方が必要だが、本書は後者の意義を説明した本。事前知識なしで読むと、個人は前者の視点をもたなくてもよいと捉えてしまうかもしれない。子どもたちにはバランスを意識しながら紹介したい。
大事な問題提起でした。客観性とは自然現象、社会現象を測定し、法則性を追求することで数値化され統計化されてきたこと、そしてその数値によって優劣がされ排除がされること、学校での偏差値から優生思想を生み出すことまで、今の世の中、思い当たることはたくさんあります。 筆者はそれを否定しているわけではなく、筆者...続きを読むの言う、それ以外も真理がある、一人一人の経験の内側に視点をとることが大切ということを、実践を紹介しながら展開していて、説得力があった。 大学の先生らしく、文章は論理的だがとっつきづらいかも。 個人的には「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」という学生のコメントに対して、「彼らが統治者の視点から善悪を判断しており、国家権力の論理に思考を乗っ取られてしまっている」というくだりが印象的でした。
数値による評価を客観的事実として絶対視する考え方は、何が問題なのか。数値データを用いた研究が生まれた経緯、その結果社会にもたらされた影響等を踏まえつつ、その危うさに言及、未来への提唱という形で展開している。 なかなかに難しい内容で「言ってることは理解できるが…」と思わず唸ってしまったが、考えることそ...続きを読むのものに意味のある社会問題だと半ば開き直り読み終えた。読後、100%納得できたかと言われればちょっと首を傾げざるを得ないのだが、そのような視点を持つことが自身の選択肢に増えたという点では良かったと思う。 個人的に特に印象に残ったのは、「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」という学生の意見を、「国事を決定する権力の視点から『善悪』を判断する」としている第7章冒頭部。知らず知らずのうちにこのような「権力の視点」で物事を語っていないかと、自分を顧みるきっかけになった。
レビューをもっと見る
新刊やセール情報をお知らせします。
客観性の落とし穴
新刊情報をお知らせします。
村上靖彦
フォロー機能について
「ちくまプリマー新書」の最新刊一覧へ
「学術・語学」無料一覧へ
「学術・語学」ランキングの一覧へ
アイヌがまなざす 痛みの声を聴くとき
試し読み
荒れる言論空間、消えゆく論壇
鍵をあけはなつ ー介護・福祉における自由の実験
傷つきやすさと傷つけやすさ ケアと生きるスペースをめぐってある男性研究者が考えたこと
ケアする対話 この世界を自由にするポリフォニック・ダイアローグ
ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと
子どもたちがつくる町――大阪・西成の子育て支援
すき間の子ども、すき間の支援――一人ひとりの「語り」と経験の可視化
「村上靖彦」のこれもおすすめ一覧へ
一覧 >>
▲客観性の落とし穴 ページトップヘ