【感想・ネタバレ】客観性の落とし穴のレビュー

あらすじ

「その意見って、客観的な妥当性がありますか?」。この感覚が普通になったのは、社会の動きや人の気持ちを測定できるように数値化していったせいではないか。それによって失われたものを救い出す。

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村上靖彦先生のようか、臨床哲学の実践家は、「客観性」をいかに見、いかに語るのか、を知りたいと思い本書を購入。

もちろん本書の重みは、後半の臨床哲学的な分析の部分、制度の「間」に落ちてしまった人たちやその支援者の語り(ナラティブ)の分析になるのだろう。が、わたしとしては、村上先生が自身の違和感を言語化するためにおこなった数々の努力が伝わってくる前半の議論の方に、心が惹かれた。

「客観性」重視の論調への違和感を表面するのは簡単だが、それが、わたしたち人間にとってなぜ負の側面をもたらすのか、それがなぜ「悪」だといえるのか、それを、一つひとつ、「客観性」の世界にいきる私たちの耳に届けていくことは、難しい。

本書の著者は、自然科学から始まり、経済科学、社会科学、そして心理学までが、実際に生きている「人」としての我々から切り離されていくプロセスを追っている。
私たちの世界を明らかにするための学問が、なぜ「人」の痕跡をかんじさせない「客観性」を求めるようになってしまったのか…その痕跡をおっていきながら、「客観性」が人を排除するのみならず、誰かを不要なものとしその命を奪うことにすらなってしまった、その帰結を記述しようとする。

ご本人が述べておられるように、その素描にはもちろん不完全なところがあるのかもしれないが、少なくとも、この本を読むなかで、自分の中の苦しさ、わだかまりのようなものがスッと流れていく感じがあった。

「それって主観ですよね」という言葉を投げかけられ続け、つらい気持ちになったときには、いつでも開きたい本だ。

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2025年12月11日

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前半1-4章は客観性の呪縛に囚われているわれらの罪深さを抉り取られ、いたたまれない気持ちに。 
後半5-8章が著者の主張。個々人の経験の偶然性やリズムを、無編集の語りから掬い上げようという。さらにはケアの文脈から、マジョリティで覆い隠されている弱者への救済。

ちくまプリマーから刊行しているには、内容が重い。それだからこそ、10代のような若者にこそ、客観性の神話から解き放たれてほしいという著者の切実な祈りを感じる。客観性が「一般」ではなく「普遍」と解釈されがちな社会、その思想に浸かっている自分の目を覚させてくれる。

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2025年04月12日

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192P

これ分かる。あまりに当たり前になってるけど、大学を学部で選ぶんじゃなくて、偏差値で学部とか関係なく受けたりするの馬鹿みたいだなと思う。そんなんしか大学に行かないなんて、大学側としても国としても害悪な気がするんだけど。

村上靖彦(むらかみ・やすひこ)
1970年、東京都生まれ。日本の精神分析学・現象学者、大阪大学教授。1992年東京大学教養学部卒、基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点CiDER兼任教員。専門は現象学的な質的研究。著書に『ケアとは何か』(中公新書)、『子どもたちのつくる町』(世界思想社)、『在宅無限大』(医学書院)、『交わらないリズム』(青土社)などがある。

一九世紀末から二〇世紀初頭に活躍した物理学者のアンリ・ポアンカレ(一八五四─一九一二)は次のように語っている。「科学の客観的価値とは何か」と問うとき、その意味は「科学はものごとの本当の性質を教えてくれるか」ということではない。「科学はものごとの本当の関連を教えてくれるか」ということを意味する(*17)。 個々の対象ではなく対象間の法則こそが客観性だとみなされるようになるのだ。法則性が重視されることで、人間の関与は一層抹消される。さらには法則の方程式にはどんな数値が代入されてもよいわけだから、個別の対象も抹消される。数式と数値だけが残るのだ。

論理的な構造が支配する完全な客観性の世界が自然科学において実現したとき、自然は実はそのままの姿で現れることをやめ、数値と式へと置き換えられてしまう。自然を探究したはずの自然科学は、自然が持つリアルな質感を手放すようになるだろう。雨や風の音や匂い、草木が繁茂していく生命力は消えていく(もちろん事象のリアリティにこだわりつづける生物学者・生態学者もいるだろうが)。客観性の探究において、自然そのものは科学者の手からすり抜け、数学化された自然が科学者の手に残ったのだ(*19)。

「社会」という単語はあいまいでとらえどころがない。ところがデュルケームは、ある程度均質性のある集団がもつ「行為、思考および感覚の様式」が「社会」の特徴であり、この「様式」は、集団に属する個人への強制力をもつと主張する。このように定義したときには、社会は個々人の主観から切り離された客観的な事実となる。さらに統計によって様式の傾向を把握可能であると考えた。つまり客観化することで、社会を数値で扱うことができるようになり、科学の対象になるというのだ。

以前、同僚のアーダに「フィンランドに、いわゆるいい学校ってあるんですか?」と質問したら「家から一番近い学校」と言われた(*1)。 名門校があるわけではなく、近所の学校こそが子どもにとってよい学校だというのだ。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『世界侵略のススメ』(二〇一六)のなかで、ムーアがフィンランドの学校を訪れて先生たちとディスカッションしている場面でも、「家から一番近い学校が一番よい学校」という会話が展開されている。 フィンランドでは学校間の競争がないだけでなく、授業も詰め込みではない。子どもの興味に従ってテーマを設定して自分たちで調べ、あるいは体を動かすグループワークが中心であるという。小学校でも九〇分の授業枠のなかで自由に取り組み、休み、自ら学んでいくのだ。

福田はフィンランド教育組合でのやりとりも紹介している。「点数の高い高校に受験生が殺到するのではないか」「それは、他人の点数だ(中略)しかも平均点だ。英語と数学の平均点を出して、何が出てくるのか。自分が何を学びたいかが重要だろう(*4)」 つまり良い偏差値の学校なるものが仮にあったとしても、その「良い偏差値」は多数の人のデータからなる統計である以上、自分の成績とは関係がないものだというのだ。しかも異なる教科を制約のあるペーパーテストで測った平均値はそもそも意味がない。

日本の若者の多くは受験勉強を強いられ、偏差値を気にしているだろう。日本では長年にわたり偏差値によって学校は一直線にランク付けされ、受験生たちは模擬試験や本試験の結果に一喜一憂している。誰もが自由に学ぶ権利をもつはずなのに、学校にランク付けがあり、入学試験で排除することがあるということは奇妙でもある。 また、さまざまな研究分野をもつ大学が、なぜ「私立文系」「国立理系」といった雑なくくりのなかで序列がつけられるのだろうか。私たちはそれぞれ興味を持つことが異なり、そもそも興味や得意は、中学や高校で行われる教科からはみ出ることが多いだろう。 さらに大学に行ってからの多様な学びと研究は、高校までの画一的な教科とはまったく質が異なる。学生自身一人ひとりの願いは異なり、大学の学部の学びの多様さがあるなかで、偏差値という単純な数字を頼りにして序列化することで何が判断されてきたのだろうか。しかし、これほど当たり前のものとして受け止められているのは、数字の呪縛がそれだけ強いということでもある。

一九五七年に東京都港区の中学校教員だった桑田昭三が、学力偏差値を考案した(*5)。当初は教員の勘に頼っていた進路指導に、信頼できる指標を導入することが目的だったのだが、次第に偏差値は独り歩きし、偏差値そのものが勉強の目的となっていく。例えば英語の学習は英語が使えるようになることではなく、英語のテストの偏差値が上がることが目的となっている。偏差値そのものは、テストの点数が正規分布すると仮定される母集団のなかで、どの位置にいるのかを示す統計的な指標にすぎない。

数値至上主義は偏差値に限った話ではない。社会に出たらあらゆる活動が数値で測られる。例えば大学教員である私は、毎年何本論文や著作を出版したのか、いくら助成金を獲得したのかを大学に報告する。業績の報告のあと、年度末に次年度の目標を立てて提出している。つまり目標と成果が数値で計測され評価されるのだ。民間企業に勤めている人たちは、もちろん私どころではない。

アメリカの喜劇役者チャールズ・チャップリン(一八八九─一九七七)が監督・主演した『モダン・タイムス』(一九三六)というコメディー映画がある。チャップリンが演ずる工場労働者の主人公は、機械と資本家に縛り付けられながら同時にコミカルに工場のラインを乱し、上司をはぐらかすことで抗う。映画の前半で、チャップリンは人間が工場や機械に管理される様子を描いた。チャップリンはベルトコンベアに乗って歯車に巻き込まれながら文字通りに歯車と一体化する一方、社長は社長室でジグソーパズルで暇をつぶしながら、テレビ画面を通して労働者の働きぶりを一望に監視するのである。

『モダン・タイムス』は経済的な原理が優先するなかで一人ひとりの顔が見えなくなる社会を描いてもいる。映画冒頭、工場労働者が集団で仕事に向かう場面では、羊の群れのカットのあと顔が見えない労働者たちの群れが映し出される。労働者たちはほとんど同じ服装で同じ動作をするために一人ひとりの区別がつかない。

小学生の頃は、ゴキブリがたくさんいる部屋に暮らし、毎食カップラーメンを食べるような生活を「普通」と感じていた。友だちがびっくりしたことがきっかけで世間一般の「普通」を知り、このときから「普通」はショウタさんを縛る規範となり、それを内面化してあこがれるようになった。ところが最後にそこから大きく変化する。「普通、って何?」と自ら進んで世間の「普通」から離脱する。受動的にではなく、自らの意志で「普通」から離脱することが、そのままショウタさんの生き方のスタイルの表現となっている。困難な社会的な条件のなかで、どのように主体的に人生を引き受けたのかが示されている。

母親はうつ病と薬物依存でショウタさんの世話を十分にはできなかった。さらには、たびたび変わる母親のパートナーからショウタさんは暴力を受けて転居を繰り返した。そして、二人暮らしだった高校生のときに母親は衝動的に自死している。そのような背景のもとでショウタさんは「母親に育てられてよかった」と繰り返す。最終的に、一度は自分のものとして内面化した世間一般の「普通」という価値観を離れ、自分固有の価値を発見するとともに、自分と母親の人生を肯定する。経験の重さは、落ち着いた語りのなかに透かし見える。そして彼個人の経験が一般的な「普通」へと回収されることがないということをさまざまな仕方で確認するのだ。

偶然出会う出来事とともに私たちの人生は作られていく。人間が変化するのは、つねに出合い頭の偶然の出来事、一期一会の偶然の出会い、思わず口に出た偶然の言葉をきっかけにしてであろう。 出来事が起きた日時は年表のどこかにプロットできるが、出来事がなぜそのとき「たまたま」起きたのかという「たまたま性」は、年表には書き込めない。とはいえ「たまたま」はまぎれもなく時間的な経験だ。

近代日本の哲学者である九鬼周造(一八八八─一九四一)は、偶然という問題に真正面から取り組んだ数少ない人物である。彼は偶然を、定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然、原始偶然という四種類に分けて議論した(*2)。

最後の第8章ではこれまでの議論から見えてくる、望ましい世界の姿を描きたい。腰を据えて一人ひとりの声と言葉を聴き、解きほぐし、数値に基づく競争ではなくお互いの交流から組み立てられる社会はどのようなものだろうか。 その前にまずこれまでの議論を振り返っておこう。第1章と第2章では、私たち一人ひとりの生きづらさの背景に、客観性への過度の信頼があることを指摘した。自然も社会も心も客観化され、内側から生き生きと生きられた経験の価値が減っていき、だんだんと生きづらくなっている。

人は自分の存在が無条件に肯定される場を必要とする。自分の体が落ち着けるような、そういう場所も必要だ。その場所は、自宅ではなく、他の人がともにいる場所であり、それゆえに自分の存在を肯定してくれる居場所である。居場所は安心できて落ち着ける場所というだけでなく、誰もが利用できて力関係が弱い場所、遊びの場、何をしてもよい場、何もしなくてよい場、声を発することができる場所、語り合える場、沈黙できる場、いつでも帰ってこられる場所、社会で失敗しても戻ってくることができる場所といった多様な意味を帯びる。さらに居場所をメタファーとして考えると、すき間へと追いやられた人が自ら声を上げることを可能にする環境という意味も持つだろう。

書くべき内容は章立てを作った時点ではっきりしたのだが、専門外のことについて触れるためらいもあった。客観性や数字を用いる科学は不要だと主張しているわけではなく、「真理はそれ以外にもある」「一人ひとりの経験の内側に視点をとる営みは重要だ」とつぶやきたいだけだということはご理解いただけたら幸いであり、決して既存の科学そのものを批判する意図があるわけではない。

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2024年09月04日

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研究用の文章を書いてて「そこに客観性はあるのか」というツッコミが来そうだなあとよく思い悩むので、この本を読んで安心できた。

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2025年08月26日

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数値化の鬼とは逆の思考で、数値が全てでは無い、個別具体の意見が存在するのだって言う主張。
あるものの視点を大衆側では無く、ニッチな方の視点に立って一度観察することが客観性を排除するためには重要である。

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2025年08月16日

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ある人の考え方や言動をみていると、頭の中で分析して何かにカテゴライズしてしまう。そしてこの人はこういう人だからと決めつけてしまうことがある。たまたまその時の状況や環境がそうさせているだけであって、本当は簡単に割り切れるものではないのかもしれない。まあこれは主観でやっていることなので、客観性とはちょっと違うのだが一般化していることに変わりはないだろう。

客観性は大事だが、そこから切り詰められた個別性を無視するのは乱暴なことで、どちらも大切にしたいと思った。本書に書いてある現象学の考え方は組織作りにも参考になりそうだ。

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2025年06月08日

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数値には表れない経験に思いを寄せ、寄り添うことが、真の主体性である。誰のための客観性なのか?考えて数値の裏側にある意図を考えるようにしていきたいと感じた。筆者が寄り添ってきたように、競争社会で『弱者』とされてしまい取り残されてしまう人たちを見捨てないことが、より良い社会を実現する第一歩なのではないだろうか。

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2025年05月20日

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仕事しているとデータを取りまとめて分析し見出す客観的な視点と、感覚的にはどこかおかしい、そうではないという視点が対立することがままある。

最終的にどちらが正しいのか、ということはわからないけども、感覚的なところで腹落ちできることの方が自分にとっていい考え方、判断だったと思う。また、自分が思っていることは、みんなも思っているが正しさを表現できないから黙っているだけということもある。

客観性だけにとらわれて物事を判断するのではなく、それが当事者の思いに寄り添ったものなのか、誰のための客観的な考え方なのか、大事にしたいことは何なのか、データだけを鵜呑みにすることなく、広く視点で物事を考えていくことが大切であり、それがほんとうの客観性に繋がるのではと思う。

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2025年04月21日

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プリマー新書でやさしい文体だけれどあえて大人向けとした。社会を見る目にはマクロ的視点とミクロ(個別の経験)的視点の両方が必要だが、本書は後者の意義を説明した本。事前知識なしで読むと、個人は前者の視点をもたなくてもよいと捉えてしまうかもしれない。子どもたちにはバランスを意識しながら紹介したい。

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2025年03月22日

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大事な問題提起でした。客観性とは自然現象、社会現象を測定し、法則性を追求することで数値化され統計化されてきたこと、そしてその数値によって優劣がされ排除がされること、学校での偏差値から優生思想を生み出すことまで、今の世の中、思い当たることはたくさんあります。
筆者はそれを否定しているわけではなく、筆者の言う、それ以外も真理がある、一人一人の経験の内側に視点をとることが大切ということを、実践を紹介しながら展開していて、説得力があった。
大学の先生らしく、文章は論理的だがとっつきづらいかも。
個人的には「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」という学生のコメントに対して、「彼らが統治者の視点から善悪を判断しており、国家権力の論理に思考を乗っ取られてしまっている」というくだりが印象的でした。

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2025年02月02日

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数値による評価を客観的事実として絶対視する考え方は、何が問題なのか。数値データを用いた研究が生まれた経緯、その結果社会にもたらされた影響等を踏まえつつ、その危うさに言及、未来への提唱という形で展開している。
なかなかに難しい内容で「言ってることは理解できるが…」と思わず唸ってしまったが、考えることそのものに意味のある社会問題だと半ば開き直り読み終えた。読後、100%納得できたかと言われればちょっと首を傾げざるを得ないのだが、そのような視点を持つことが自身の選択肢に増えたという点では良かったと思う。
個人的に特に印象に残ったのは、「働く意思のない人を税金で救済するのはおかしい」という学生の意見を、「国事を決定する権力の視点から『善悪』を判断する」としている第7章冒頭部。知らず知らずのうちにこのような「権力の視点」で物事を語っていないかと、自分を顧みるきっかけになった。

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2025年01月25日

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模試の結果に一喜一憂した受験生時代。
○歳以上の出産はリスクが急増するという情報を見て、年齢を逆算していた20代。
コロナの新規感染者数の増減が自分の気持ちにまで影響していた数年前。
客観的な指標こそリアルで、数字やデータをきちんと理解して行動することが理性的で正しいと思いがちだ。

この本は、客観的なデータはもちろん必要なものだけど、それだけが重要視される世の中ってどうなの?個人の体験の一つ一つだってもっと大切に扱われても良いんじゃないの?と問題提起している。

「それってあなたの感想ですよね」が論破に繋がるのは、個人の感想はあくまで個人的なことで、客観性が無いから意味が無いということなんだろう。

客観性が無いものは意味も無い世界なら、ドキュメンタリーなんて必要無いんだよなぁ。
芸術だって文化だって存在価値が無くなるし、極端な話そもそも人間の生活だって標準化されたプログラム通りに営まないと非効率って事になってしまう。
数字に踊らされすぎないように生きたいなぁ。
だからもう体重計乗るの辞めます(笑

考え方ももちろん興味深いんだけど、この本に出てくる色々な体験をした人達の語りもすごく魅力的だった。

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2024年10月20日

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近代以降、科学が発展する中で生まれた客観性への過度な信仰に警鐘を鳴らす一冊。

前半は客観性が盲信されるに至った経緯やそれによる弊害を明示してくれる。結局、人間を定量化、数値化することが難しいのだと感じた。もちろんメリットもあるが、特に医療や福祉の世界においてはデメリットも目立つのだろう。私も医療関係で働いているので、日々感じているところと符合する部分もあり、改めて考え直すいい機会になった。

個人的には優生思想に関する説明がよかった。優生思想はよくないということはわかっている。しかし、具体的になぜだめなのか理解できていない部分もあった。本書では客観性の盲信→数値化→序列化→能力主義→優生思想というように明快な説明があってわかりやすかった。これほど簡単に説明されないと気付かない私も、やはり客観性の虜なのだろう。

後半では客観性に捉われない「個人の経験」を重視したものの見方を提示したうえで、よりよい社会の在り方を提案していた。主張は理解するが、前半と比べてややわかりにくかった。私に哲学の素養がないからなのか、具体例を多く並べた後にふわっとしたことを言って終わってしまった印象。個別性を大切にするためかもしれないが、方法論としてもう少し体系的にまとめてほしかった。

それでも主張に関しては共感しかなかった。今後も心にとどめておきたい。

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2024年08月30日

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毎日スーツを着てパンプスを履いて仕事に行くことがどうしても無理──そういう理由で一般企業への就職をあきらめた女性がいる。「そんなことくらいで」と思うだろうか。「努力が足りないのでは」と思うだろうか。しかし、多くの人にとって何でもないことだとしても、彼女が就職を断念しなければならないほどに苦痛と感じるのであれば、少なくとも彼女にとっては、それは耐え難い苦痛なのではないか。
客観性はすべての人に同じ基準を押し付け、すべての人を同じ基準で測ろうとする。そうしたとき、前述の女性のような人は「落伍者」あるいは「怠け者」というレッテルを貼られ、世の中から切り捨てられてしまう。けれども、そのような客観性ははたして「真理」なのだろうか。
単一のモノサシで測ろうとするから、比較と競争が生まれる。偏差値はその典型である。偏差値は学力を測るモノサシのひとつに過ぎないが、偏差値によって学校も生徒も一直線上にランクづけされてしまい、その中で競争を強いられる。偏差値が無意味だと言っているのではない。数値的な客観性によって、見えなくされているものがあるということである。
本書の「はじめに」の中で、「障害者にも幸せになる権利はあると言うけれど、障害者は不幸だと思います」という学生の言葉が紹介されている。本来、何が幸せで何が不幸かは、人それぞれである。しかしこの学生は、幸せの基準は誰でも一緒だと考え、その基準によって障害者を不幸だと決めつけてしまっている。同時に、自分自身をもその基準に縛り付け、不毛な序列制へとみずからを追い込んでいるように見える。
客観性に対する過剰な信仰。数字に支配された世の中。現代社会におけるマイノリティの差別と排除は、それらと切り離すことができない。著者は病気や障害を抱えた人たちへの聞き取りを通じて、「経験をその人の視点で語る」ことの意味を説く。それは一体どういうことか。
本書で取り上げられているショウタさん(仮名)のエピソードをここに紹介したい。母子家庭に暮らす彼は、精神疾患と薬物依存の母親を世話しながら、極度の貧困生活を送っていた。だから、家にしょっちゅうゴキブリが出たり、夕食が毎晩カップラーメンなのも、彼にとっては「普通のこと」だった。しかし、友達が遊びにきたことで、彼は自分の家庭が「普通ではない」ことに気づいてしまう。そして、自分を不幸だと思い、「普通の生活」に強く憧れるようになる。ところが、母親の逮捕をきっかけに施設に入り、自分以外にもさまざまな境遇の子供がいることを知ると、「普通って何だろう?」と考えるようになる。結局、普通なんてものは存在しないんだ。そうやって彼は「普通」の呪縛から離陸する。
人間は、一人ひとりが異なる顔を持った個別的な存在である。しかし、客観性「だけ」を真理と見なしたとき、「全体」や「多数」といった顔のない主語によって、個人は抹殺される。現代社会の持つ非情さと、現代人が抱く不安。その二つの根底にあるものを、著者は見事に描写している。

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2024年03月12日

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ネタバレ

「働く意志のない人を税金で救済するのはおかしい」これに対して、「統治者の視点に立っている」と言うのは良い指摘だと思った。客観性に執着しすぎず主観的に判断しても良い。

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2025年12月05日

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・数字に支配された世界においては、人間が序列化されること。

・科学の客観的価値は、個々の対象/性質ではなく、物事の関連性=対象間の法則を教えるものであること。

は意識する必要を感じた。

顔の見えない数字やデータによる定量化によって、ひとりひとりの経験の価値が顧みられなくなるのでは?には同意だが、著書の研究手法でもある「現象学」のアプローチの必要性を飲み込むには少し骨が折れる感覚があった。

定量と定性をバランスよく見ていくように心がけたい。平均でつくられたコクピットに合うパイロットがいない、なんてことにならないようにしなくては。

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2025年10月12日

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仕事でも私生活でも客観的に物事を考えることが多いが、何か忘れていることがあるのかも、と気になり読んだ本。本書のキーワードでもある「客観性」とは関係が薄そうな話がチラホラ出てきたので、読みづらさを少し感じた。会社のミーティングなど、議論の場では客観性が重視されるが、違った観点の考え方を知る機会になった

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2025年10月05日

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 著者の言っていることには基本的に賛成だし立場も似ている気がするけれども、一冊の本としては、だいぶとっ散らかっている感じがする。たしかに書かれている内容は『客観性の落とし穴』なのだ。その穴に落ち続けると、どこに行き着いてしまうのかが書いてあるのだ。だけど、このオビだと、ひろゆきのような冷笑系の人々の煽りに対する返答が直接的に書いてあるのかと思ってしまい、それにしては随分遠回りだなあ、という読後感になってしまう。著者が研究する際の方法論である現象学やインタビューのススメみたいにも読めてしまう。オビが読み手をミスリードしている気がする。わたしだけミスリードされてるのかもしれないけど。

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2025年10月05日

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ネタバレ

『客観性の落とし穴』を読んで、客観的なデータや合理性ばかりを重視する社会が、少数派や弱い立場の人の実情を見落としやすいという指摘には納得できた。効率や数字を優先するあまり、人の個別の事情や感情が軽視されるリスクは現代社会の課題だと思う。

ただ、著者が強調する「一人ひとりの語りに耳を傾ける」ことは理想的ではあるが、現実的には時間や資源の制約もあり、全ての声を平等に拾うのは難しいという印象も受けた。現場の実情を考えると、なかなか実践が難しい部分もある。

だからこそ、客観的なデータや制度の整備と、個々の声を尊重する姿勢とのバランスをどう取るかが重要になる。この本は、「客観性」という言葉の裏にある問題点に気づかせてくれる良書だと感じた

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2025年05月31日

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「客観性」。もはや神格化されていると言っても過言ではないこの言葉に警鐘を鳴らす1冊。

ものごとをどこまでも客観的に見ていくと、それは全て数値化・データ化されてしまう。
例えば、スギの木は花粉症の原因となりうる植物であるが、その花粉が原因で鼻がムズムズしたり目が痒くなったりなどの人間の「経験のダイナミズム」は、客観的に見れば無駄である、とされてしまうのだ。

そういった、「経験のダイナミズム」の重要性を今一度説き、昨今社会が抱えている問題解決の糸口を見つけていく。

正直、終盤の筆者の意見はなかなか理想論で実現は難しいと思ったが、面白い内容ではあった。

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2025年05月31日

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本書は
前半-客観性と序列化について
後半-客観性の対照となる個人の経験について

書かれているのだが、前半の客観性と序列化についての経緯や問題点には、大いに興味があり、納得できる部分も多かった。

科学によって、自然や人間でさえも数値化されてしまい、『正しい』とされることからズレることの難しさや、序列化による優劣の社会的な常識の息苦しさは感じるところがある。

後半の客観から排除された「個人の経験」に注目することについては、納得は出来るが現実的に人間の認知領域の限界により難しいのではないかと感じた。

ただ客観性が真理ではない、という考えは非常に重要であり、一人ひとりが客観性やエビデンスがあれば正しいのかを考えるべきだと思う。

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2025年04月20日

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村上靖彦(1970年~)氏は、東大教養学部卒、同大学院総合文化研究科博士後期課程満期退学、基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第7大学)取得、日大国際関係学部助教授・准教授、阪大人間科学研究科准教授を経て、同教授。精神分析学・現象学者。
本書は、2024年の新書大賞第3位を獲得。
本書の帯には、「「数字で示してもらえますか」、「それって個人の感覚ですよね」、「その考えは客観的なものですか」、「エビデンスはあるんですか」 この考え方のどこが問題なのか?」と書かれており、私も、それに大いに興味を引かれて手に取った。
が、通読して、正直なところ少々期待外れであった。
本書の構成は、前半で、客観性・数値化という発想の歴史と、その結果現代社会に生じている問題について書かれ、後半で、客観性・数値化により切り捨てられてしまった個々の経験を復権させるにはどうしたらいいかについて、著者が長年行っている社会的弱者へのインタビューを材料に、考察されている。
そして、著者が本書で言いたかったことは、極めてシンプルであり、「数字による束縛から脱出する道筋を本書は探してきたが、それは数字や客観性を捨てるということではない。・・・問題は、客観性だけを真理として信仰するときに、経験の価値が切り詰められること、さらには経験を数字へとすりかえたときに生の大事な要素である偶然性やダイナミズムが失われてしまうことだ。「客体化と数値化だけが真理の場ではない」ことを理解する方法が問われている。」ということだ。
この主張は、科学至上主義、効率至上主義の現代社会においては見落とされがちであり、私も100%賛同するし、目から鱗でもあった。
にもかかわらず、期待外れと感じたのはなぜか。。。気になる点はいくつかあったが、例えば、ジュニア向けということで、内容はわかりやすくしようとしながら、使われている単語や表現は意外に難しかったり、「現象学」というワードが出てくるのだが、その説明が全く足りていないなど、中途半端感が否めないのだ。教養新書なら教養新書、ジュニア向け新書ならジュニア向け新書と書き分けた方がいいし、この種のテーマであれば、歴史や現象学のような理論に触れるよりも、もっとルポルタージュ的な作品にする方が印象に残るような気もする。
テーマ・主張はいいだけに、残念な読後感の残る一冊であった。
(2025年3月了)

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2025年03月07日

Posted by ブクログ

統計や平均という科学的観点だけでは抜け漏れがある
個人の経験、体験といった個別性を消してはいけない、といった論旨
著者は貧困、子育て、ケアなどの現場に従事しているため特に個別性の重要度を感じるのだろう
この様な現場以外にも社会的な切り捨てを防ぐには個別性への配慮は必要ではある
しかしながら、世の論調は理想だけを打ち出したインクルーシブという思想の提示だけであり、それを実現するための手段や環境構築は個人や企業に委ねるのみという無責任
私見としては個別性への配慮は、現代資本主義の環境下では実現し難い
即効性ばかりを求める社会構造では、相応の時間を要する個への対応は致しかねる
(タイパを重視する若年層もこの社会構造に毒されている)
無目的な成長ではなく、共同体における持続的生存を当たり前とする社会構造にしていくことが個の尊重に繋がると考える
国家や準ずる大企業の近視眼な戦略を改め、ブレーキを踏むための動きを考えていきたい

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2025年02月18日

Posted by ブクログ

データに基づいた客観的なエビデンスが正義!という現代の風潮に、自分自身も影響を受けていたのだなと気付かされた。
客観的データが役立つのは間違いないけど、だからといって主観が否定されることではない。個人の経験、感想などが同様に大切にされるべきものなんだと思う。
著者が押し付けがましくなく、その主張をされていてすんなりと入ってきた。

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2025年02月16日

Posted by ブクログ

(2025/01/23 1h)

数値に縛られて見落としがちな、人と人との交流の機微について書かれた本。

優しさの詰まった内容で、こういう生き方を忘れないようにしたいと思う。

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2025年01月23日

Posted by ブクログ

統計を駆使する抽象的な制度からではなく、一人ひとりの声を尊重するところから社会を作る試みが可能となる。

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2024年12月29日

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何でもデータ化、序列化されて客観性が強化された時代。大学で客観的妥当性などが学生から問われる時代。

しかし、統計は一人一人には意味を持たない。その中での個別の文脈、経験の重要性について、主に終末医療・生活保護などの分野のエピソードを中心に筆者は語っている。

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2024年12月08日

Posted by ブクログ

客観性や数値化、データに価値を置きすぎると、優生思想まで発展し、差別も生みかねないという点に驚いた。
これからの時代に心得ておきたいこと、それは個人の経験を理解するうえで、客観性やデータなどはあくまで役に立つ程度のものであると認識しておくこと
筆者もいうように、この内容は100年後も1000年後も人類が存在しているかぎり妥当であろう。

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2024年12月04日

Posted by ブクログ

統計学的な内容かと思ったら福祉の話だった。
高所得者が低所得者のために税を納めることに不公平感を覚えていたが、それは思想統制の罠にかかったものであることにはっとした。そもそも弱者に対する分配が減ったところで、国民の負担率が下がる見込みはないのだ。

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2024年09月13日

Posted by ブクログ

【なぜ】出張先の本屋でおすすめされており冒頭を読み新しい視点をもらえそうだったため一読
【どう】3.0点の★3(最初章ごとに語られる内容とリズムが違いすぎて頭がついていかなかった。7章あたりから丁寧に説明が入り理解できた。ただし、まだ腹落ちできていない部分も多くあるため再読したい)
会社における社員のモチベーション評価のようなものに懐疑的である私からすると、こういう表現がしっくりくるのか思えた。

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2024年08月01日

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