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513P
イギリス領インド時代のインドでの話だから、現在のパキスタンも含まれてて、私が行ったラホールとかパンジャーブとかが含まれててアツい。
ラドヤード・キップリング
イギリスの小説家、詩人で、イギリス統治下のインドを舞台にした作品、児童文学で知られる。ボンベイ (ムンバイ) 生まれ。19世紀末から20世紀初頭のイギリスで最も人気のある作家の一人で、代表作に小説『ジャングル・ブック』『少年キム』、詩『マンダレー』など。「短編小説技巧の革新者」とみなされ[1]、児童向け作品は古典として愛され続けており、作品は「多彩で光り輝く物語の贈り物」と言われる[2][3]。1907年にノー...続きを読む ベル文学賞を、41歳の史上最年少で、イギリス人としては最初に受賞[4]。他にイギリス桂冠詩人、爵位などを打診されたが辞退している[5]。キプリングの評価は時代ごとの政治的、社会的環境によって変わり[6][7]、20世紀中にも対称的な見解が見られ[8][9]、ジョージ・オーウェルは「イギリス帝国主義の伝道者」と呼んだ[10][11]。評論家のダグラス・カーは「未だ解決されない、文化と文学の歴史における心情面の距離や彼自身の位置について触発させる作家である。しかしヨーロッパ帝国主義退潮の時代では、帝国の行跡についての議論での好適な通訳者と見なされている。加えて彼の残した作品への評価の高まりが、その再認識を必要とさせている。」と述べている[12]。「東は東、西は西」East is East, West is West ( 東と西のバラード(英語版)) という言葉を遺したことでも知られる。2度ほど来日し、日本についての研究資料も残している。
キム (光文社古典新訳文庫)
by キプリング、木村 政則
多様なのは、ジャンルだけにとどまりません。作中人物たちの国籍、民族、あるいは宗教もそれぞれ異なっているのです。キム一人の素性を考えてみても、インドで生まれ育ったイギリス人という複雑さを帯びています。キムと旅をする老人は、遠くチベットからやってきた位の高い仏僧です。その一方で、しばしばローマ・カトリックとイングランド国教会の聖職者が顔をのぞかせます。インドの人間にしても、決してひと通りではありません。信仰されている宗教は、ヒンドゥー教、イスラム教、シク教、仏教、そしてジャイナ教と多岐にわたります。民族の構成にしても、ベンガル人、パターン人、あるいはラージプート人と幅が広く、「インド人」と簡単にくくれる存在では断じてありません。話されている言葉も、英語はいうまでもなく、ウルドゥー語、ヒンディー語、パンジャービー語、ヒンドゥスターニー語など、各場面で自在に変わっていきます。
以上のことをまとめると、ヴァルナとは、バラモン(祭司)、クシャトリヤ(王侯・戦士)、ヴァイシャ(市民)、そしてシュードラ(労働者)からなるヒンドゥー教の身分制度となります。ただし、ヴァルナに含まれない人々も存在しました。たとえば、糞尿の汲み取り、道路の清掃、水運びなど、ヒンドゥー教の浄・不浄の観点に基づいて禁忌とされる仕事に従事する者たちです。「パリア」あるいは「アチュート」などと呼ばれ、決して触れてはならない者、いわゆる「不可触民」として社会生活のあらゆる側面で差別を強いられていました。
このヴァルナという身分制度が、長い歳月を経て、さらに細分化されていきます。つまり、同じ階級の中にもそれぞれ、職業、出身地、血縁関係などで結びつけられた集団が生まれたのです。この集団のことを「ジャーティ」(本来の意味は「生まれ」)といい、その数はいまや数千にも及ぶといわれています。ジャーティは決して変えることができず、職業は世襲で、他のジャーティとの婚姻あるいは飲食時の同席の禁止など、多くの規制を受けています。
ほかにもたとえばイギリス人が現地人を「黒人」あるいは「黒い奴」などと呼んで差別する傾向にあったことなど、まだまだ記すべきことはありますが、訳語の工夫、詳細な訳注、ルビの活用──旧称や現地人の発音を右横に明記──などにより、滑らかに読み進められるようにしました。あとは、本書を手に取るだけです。いますぐキムと手を携え、壮大な冒険の旅に出てみてください。
キムはぶらぶらと近くの煙草屋に向かった。潑剌とした感じのイスラム教徒の娘がいた。キムは香りのきつい葉巻を恵んでもらった。イギリス人の習慣を取り入れたがるパンジャブ大学の学生たちが買っている銘柄だ。大砲の下に戻ってきたキムは煙草に火を点け、膝にあごを乗せた姿勢で考え事にふけっていたが、しばらくするとやおら立ち上がり、ニラ・ラムの貯木場のほうへと消えていった。
「なぜ知る必要があろう。中道を行くのに身分の高いも低いも関係はない。弟子にした以上、この手から奪う者、奪おうとする者、奪える者はいない。よろしいか、あの弟子がいなければ、聖なる川は見つけられん」老僧は重々しく 頭 を振った。
「とにかく蛇が大嫌いなんだ」いくらインドになじもうと、白人の血が流れていては、蛇への恐れは抑えようがない。 「生を全うさせてやりなさい」とぐろを巻いたコブラがしゅうしゅうと音を立て、頭巾のような頭部を開きかけた。「お前に早く 解脱 が訪れんことを」そう願いをかけてから、老僧は静かに問いかけた。「おい、蛇よ。聖なる川は知らんか?」
「ああいう者たちが」老婦人はきっぱりとした口調になって、キンマの葉を口に入れた。「ああいうインドに長くいる者こそが、正義を守るんだよ。この国を知り、この国の習慣に通じているからね。それに引き換え、欧州から来たばかりの連中ときた日には。白人の女に乳を与えられ、こちらの言葉を書物で覚えたものだから、疫病よりもたちが悪い。諸王にしたら害悪さ」そう言うと、老婦人は誰にともなく長々と語りだした。一人の若くて無知な警察官が、山の小国を領土問題で混乱に巻き込んだという。その国王は老婦人の九番目のいとこだったそうだ。話の締めくくりに、宗教とは無縁の書物から言葉が引かれた。
ともあれ、こんな経験は初めてだった。その気になれば、このインドという茫洋たる神秘の世界にいつでも逃げ込める。そう、天幕もなければ、聖職者も大佐もいない世界に。それまでは、先方の希望とあらば、せいぜい点数を稼ぐとしよう。そんなふうに考えるところが、やはりキムも白人だった。
ハリーは苛立たしげに指を鳴らした。「連中の陣地に潜り込むことなど、この私にすれば児戯に等しい。通訳を買って出るもよし。頭が弱いふりをしたり、空腹を訴えたりして、そのまま居つくこともできる。そして、いったん入り込んだら、可能な限り情報を盗む。ここの奥様を相手に医者の先生を演じるようなもの。じつにたやすい。ただし、私は不幸なことにアジア人でして、それは時に応じて深刻な欠点となります。わけてもベンガル人ですから、意気地がありません」
「いえ、神の創造物ではなく、進化の過程で誕生したにすぎません。絶対的な必然性から生じたものです。まあ、どちらにせよ、無益な存在。とにかく、そう、臆病者なのです。昔、ラサに向かう途中、首を刎ねられそうになりました。そのせいで、目的地に行くのは断念したほどです。正直、腰が抜けて、おいおい泣きました。残酷な拷問にかけられるのかと早合点しましてね。とはいえ、今回の二人組から責め苛まれることはありますまい。しかし、不測の事態には備えておきませんと。緊急の際、誰か西洋の方がいてくれたらと思うわけです」ハリーは咳払いをして、カルダモンの実を吐き出した。「あくまでも個人的な依頼ですから、一蹴していただいて構いません。あの老師と大事な約束がおありかもしれない。いえ、君なら老師の気をどこかへ逸らすことができるでしょう。それとも、私のほうで何か食いつきそうな餌を撒きましょうか? とにかく、私が例の二人組を探し出すまでは、少なくとも局の一員として連絡を絶たずにいてください。君のことは、デリーで友人から話を聞いて以来、高く評価しています。もちろん、この一件が片付いたら、報告書に名前を出しておきますので。立派な勲章になるでしょう。さあ、これで洗いざらい打ち明けました」 「そういうことだったのか。いまの話だけど、まあ、最後のほうは信じてもいい。でも、前半のほうはどうなんだい」
それを聞いたキムは、今日の旅が無事に済んだことを喜ばずにはいられなかった。なにせ体の節々が悲鳴を上げている。下を向きすぎて頭はくらくらし、岩場の割れ目にぐいぐいと足先を突っ込んだせいで、指が痛くてたまらない。いまの喜びに匹敵するのは、聖ザビエル校の四百メートル走で優勝して、同輩から称賛を浴びたときくらいのものだろう。山歩きのおかげで、体内から油分と糖分が抜けた。また、過酷な峠を登りきるたびに乾いた空気を喘ぐように吸い込んだせいか、肺が強くなり、胸骨が硬く盛り上がっている。何度も傾斜を下りたから、ふくらはぎと太ももに筋肉がついた。
「それなりに世間を見てきてわかったことがある」所狭しと並べられた料理越しに老婦人は言った。「いまの世の中には二種類の女しかいない。男から力を奪い去る女、そして男に力を与える女。昔の私は力を奪い去るほうだった。でも、いまは力を与えるほうだよ。これ、いまさら坊さんぶるのはおよし。軽く聞き流すがいい。いまはぴんと来なくても、また旅に出たら効いてくるから。ご覧よ」最後の一言は、女主人の慈悲深さを倦むことなく褒め称えている老女に向けられたものだ。「この子ときたら、肌がつやつやじゃないの。毛を梳いたばかりの馬みたいにね。宝石を磨いて、踊り子にくれてやるようなもんだ。そうだろう?」
ともあれ、国民的な作家として絶大な人気を誇っていたキプリングは、やがて国家の象徴という絶対的な地位へと祭り上げられながら、大英帝国に凋落の兆しが見えだすやいなや、文学者としての評価は急激に落ち、それから長年にわたって保守反動の帝国主義者という悪評を浴び続けたのでした。
すでにラホールには、両親が住み暮らしていました。父親がメイヨー美術学校の校長とラホール博物館の館長を務めていたからです。一八八二年、キプリングがまだ十六歳のときのことでした。 『文武日報』というのは、パンジャブ州で最大の発行部数を誇っていた日刊紙です。キプリングは編集補佐として雇われたのですが、人員の不足は否めず、すぐさま精力的に働かざるを得なくなりました。実際、インドの各地へと取材に出かけ、そして記事を書いています。その中でも、一八八五年、新たな総督となったダファリン卿がアフガニスタンの首長と会見した際に記者として同行したことは特筆に値するでしょう。
インド在住のイギリス人に向けて書かれたものでありながら、その題材のみならず、横溢した異国情緒が英米の広い読者の心に強く訴えかけました。それだけではなく、主要な新聞の書評でも取り上げられ、名立たる作家たちから賛辞を呈されました。
キプリングはイギリスの文壇にたやすく入り込むことができました。けれども、本人としては、かえって自分の立場がわからなくなってしまったようです。というのも、アメリカを訪れたときには、その俗悪性と地方性に愕然とする気持ちを覚えたこともあり、やはり自分は典型的なイギリス人なのだと認識を新たにしたのですが、いざイギリスに来てみれば、本来は自分が属するべき故郷のことを外国としか思えなかったからです。
さらには、イギリス人として初めてノーベル文学賞を獲得しました。キプリングが四十一歳のときです。これは受賞者として最年少の記録であり、現在に至るまで破られてはいません。
ある見解によれば、キプリングが『キム』の原型ともいえる作品を思いついたのは、ラホールの『文武日報』に勤めていた時期にさかのぼります。一八八五年三月七日付の日記に、「今日、『マザー・マチューリン』の着想を得た」とあり、この話の中に、ラホールでアヘン窟を営む混血のアイルランド人が出てくるのです。実際に着手もしており、一八八五年に叔母イーディスへ宛てた手紙、および翌年に別の人物へと宛てた手紙を読むと、順調に書き進めていた様子がうかがわれます。この長篇は未完に終わりましたが、その原稿は数年にわたり保持されました。
『キム』はまず、一九〇〇年十二月から翌年十月まで、ニューヨークの月刊誌『マクルーアズ・マガジン』に連載され、一九〇一年の一月から十一月までイギリスの月刊誌『カッセルズ・マガジン』に連載されました。そして修正を施したのち、一九〇一年十月にイギリスとアメリカで出版されました。
キプリングは『キム』を書くに際して、多くのものに依拠しました。たとえば、幼少期を過ごしたボンベイでの体験に基づいて、インド自体の雰囲気、あるいは使用人たちから聞かされた物語や歌といった要素が物語に加味されています。もちろん、ラホールとアラハバードで新聞記者として過ごした時代を見落とすわけにはいきません。ほかには、大きな情報源として、父ジョン・ロックウッドの貴重な経験と豊富な知識が助けになりました。そもそも、小説に登場する館長の人物造形が、実際にラホール博物館で館長を務めていた父親に立脚しています。