田島正樹の作品一覧
「田島正樹」の「古代ギリシアの精神」「スピノザという暗号」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「田島正樹」の「古代ギリシアの精神」「スピノザという暗号」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
Posted by ブクログ
現代の心の哲学や実在論/反実在論をめぐる議論を参照軸にしながら、スピノザ哲学の現代的意義を探る試み。スピノザ解釈としての妥当性はともかくとして、著者の議論そのものはたいへんおもしろく読んだ。
著者は、スピノザ哲学の「内在主義」に秘められた現代的意義を高く評価する一方で、その実在論的な傾向を持った「全体論」ないし「実体一元論」を批判している。
神の啓示の内容も全体論的な布置の中で理解されるというのが、スピノザの内在主義の立場だと著者はいう。そこから、私たちが従うべき倫理的価値は現実に営まれている社会と別に存在するものではなく、それらの営みへのコミットによって生じるものであり、倫理学はそのコミットの細部の価値直観から出発して、できるだけその直感的判断を生かすような整合的で首尾一貫した価値原理を探究する営みであるはずだと著者は主張する。
他方で著者は、そうした倫理学を可能にする立場は、反実在論でなければならないと考える。自由と合理性を調停することが、自由をめぐるもっとも困難な問題の一つである。スピノザは、私たちの行為のすべての筋道が、あらかじめ神のうちに用意されていると考えた。だが著者は、スピノザ哲学の内在主義のうちに、私たちの創発的活動を認めるような可能性を見いだし、その方向へと進むことで自由と合理性の調停を図ろうと試みている。
著者がスピノザの哲学を、感覚や感情に根ざした内在主義と捉えた上で、そこに現代の心の哲学の議論に接続しているところは、とくに興味深く読んだ。感覚は私たちの身体の観念だとスピノザは考える。ところで、私たちの知識には、命題で表現できる知のほかに、運動能力のような知がある。感情やクオリアはそうした知識と同じく、私たちがこの世界に住み着く仕方であって、それらをシニフィアンとすることで私たちは知覚的環境適応を図っていると著者は主張し、手持ちのシニフィアンを利用することで志向的内容の表現を実現するという形で、心身問題を解決に導く方途を探っている。
Posted by ブクログ
プラトンの提示した視点があまりにも当然になりすぎたプラトン以後の世界の見方に対して、そうではない視点から古代ギリシアの哲学を見直す、という提案。
イオニアの系譜として、文献が比較的残っているアリストテレスを読み直すことで何が得られるかということだが、脱プラトンでラカンやカントが引き合いに出されている。
そこが激ムズの原因でもある。難しすぎてかなりしんどかった。
全体像が掴みにくいのだが、偶然と運の違いや、差異によって意味を何に固定するのか、その時隠蔽される別の可能性による悲劇性など、面白い箇所は随所にある。
ラカンやカントの部分がわかれば、もっと理解が進むだろうし面白さの裏付けにもなると思うのだが、内容が複雑で、いまはちょっと力不足だなという実感と共に読み終えた。
いつか再読するかもしれないが、かなり体力を使った割に読後の達成感は薄くて、その気持ちになるにはまだまだ勉強が足りない。
Posted by ブクログ
古代ギリシアの思想、とりわけアリストテレスの『霊魂論』を中心にとりあげ、その検討を通じて著者自身の哲学的考察が展開されている本です。
著者は、ギリシア悲劇において表現されている世界観を明らかにしています。アリストテレスが『詩学』のなかで、「悲劇が人の心を動かすに当たって最も大きな役割を果たす二つの要因、すなわち逆転と認知とは、いずれも筋の要素に他ならない」と述べていることを引いて、悲劇的な運命の「認知」の契機が作品のなかでどのような役割を果たしているのかということを、具体的に示しています。
しかし、悲劇の本質を明らかにすることが本書のねらいなのではありません。著者は、悲劇的な帰結が登場人物たちによってそのようなものとしては自覚されていないことに目を向け、ラカンの思想などを参照しながら、「知」が成立するための時間的な構造についての検討へと進んでいきます。
こうした著者の思索は、アリストテレスの共通感覚論へとつなげられます。著者は、共通感覚を統覚になぞらえて理解することはできないと主張し、時間のうちにおいて感覚を受容することに内在的な観点から、共通感覚的な「知」が成立するにいたる理路を解明しようとしています。
アリストテレスの解釈そのものが主題ではないので、アリストテレスの議論を手がかりとしながらも、著者の自由な思索が展開されています。ただ、前半部分は問題の核心にせまるよりもその周辺を逍遥しつつ議論がなされているという印象を受けます。