日本という国の諸外国との違いについて、端的に海外の人に説明するなら、天皇陛下の存在を抜きに説明する事は難しい。アメリカや韓国などの大統領制の国、イギリスやタイのような国王がいる国、中国のように共産党が頂点に立つ国、様々な国家体制が存在する中、日本の天皇制は独特な形だ。ここで私が形という言葉を用いたのは、天皇制の独自性を感じながらも、それに国家体制とか国家の仕組みという表現がそぐわないと感じる程、そこには実態の権限は存在せず、国家統合の象徴としての存在に止まる事が、その役割や意味合いを非常に曖昧なものとしているように感じるからだ。主権はもちろん国民にあり、天皇陛下もその国民の1人である。また憲法第4条に明記されるように、天皇は国政に関わる権能を有しない。よって直接的に政治を動かす事がないのであるが、それにも関わらず、実質的に国を動かす内閣総理大臣は天皇が任命する。これにも直感的な疑問を感じ、私には上手く説明ができない。私にとっての天皇陛下は説明が難しい存在であるにも関わらず、日本という国を説明するのに欠かせない存在である。これが「象徴」という表現に現れるなら、その言葉の当てはめ方は、これまた非常に巧さを感じたりもする。ある種感覚的に受け止められる、この「象徴」という言葉、これこそ正にぴったりな言葉なのであろう。だから天皇制は日本の文化であり社会の基盤でもある、という理解にも繋がる(明確にどちらとも言えないがどちらも当てはまる)。
戦前戦後で日本の天皇の在り方は大きく変化したように見える。それは天皇が神であり絶対に背くことの出来ない権力から、前述した象徴としての存在に変わった事。三島由紀夫が言うように「人」になったと言う表現がわかりやすい。本書はそのような天皇の在り方がどの様に確立され、そして何を契機にして変遷していったかを、神学的な考察で紐解いていく内容となっている。その言わんとしている事は、天皇を神学的な考察で見ていくと、戦前戦後で何ら変わりないものとしている所、それが本書の最も興味深い主張となっている。何故明治維新により社会的に大きな変化を起こす必要があったのか。そして天皇制をその変化の中でどの様に位置付けたか。それが齎した社会や国民意識への作用。その結果として分析可能な五.一五事件や二.二六事件、そして終戦の詔の録音を奪おうとした宮城事件。国体を守るためには天皇陛下へ翻意を迫る事すらも厭わないという発想に行き着くまで。国体か天皇そのものかと言う議論が展開されていく流れ。天皇が社会の基盤としてではなく信仰の対象となり、それが国体=国そのものの在り方として軍部や民衆に浸透していく様は、歴史として後世の人間が貧困や個人の権利の主張などの社会の変化と合わせて見ていくと非常にすんなり頭に入ってくる。
今に生きる我々の中ではその存在は当たり前の様でもあり、失礼な表現かもしれないが、なくてはならない空気の様でもある。天皇陛下のいない日本は私の中でも確かに日本ではないし、あってこその日本の姿。これは文化なのか、社会そのもの基盤の一部なのか、はっきり説明できない。それが何故私の中で日本そのものと感じるのか、一つの答えを見つけることのできる一冊である。