各種文献情報ソースにより捕虜の数はまちまちであるが、日本軍が太平洋戦争で捕虜にした人数は、アジア各地、欧米人含め35万人、うちアメリカ人は14〜16万人程度という数字がある。またそのうち約3万6千人が日本国内にある各地の収容所(130ヶ所)に移送され、原爆の被害に遭った広島でも米国人捕虜が被曝した事は有名だ。日本も当時は捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約に基づいた対応が求められるはず(条約に批准しないものの日本も準用する事は宣言されていた)だが、実際には過酷な労働や栄養状態の悪い食事事情も相まって、3500名程度が捕虜として収監されている間に亡くなったと言われる。一方、日本人も同様に捕虜になるケースがあるが、真珠湾攻撃時に特殊潜航艇に乗り込み、ハワイで捕まった酒巻和男氏をはじめとして、本書内でも触れられているが20万人程度が捕虜になっていたと言われる。駆り出された日本軍総数が終戦時点で陸軍約547万人、海軍約242万人の合計約777万人であり、この日本人捕虜の数は全体数からすると割合としては少ないそうだ。これは戦陣訓にあるように「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育が徹底され、捕まるくらいなら自ら命を断つ自爆が是とされた軍隊文化によるものと考えられる。捕虜になるくらいなら玉砕と称し最後の総攻撃で命を落とす事が通常に行われていた。とは言え、前述の酒巻氏の様に、已む無く捕らえられる者、自らの意思を持って生きる道を選ぶ(投降)兵士も存在し、彼らは戦後も生きて日本に帰ることを恥と考える様な思考性を持ち、戦後長く沈黙を守ったり、自身の行為に葛藤するなど精神的な苦しみから解放されずに生きていく事も多々あったようだ。
本書はハワイにかつてあった日本人捕虜達との交流を通して、戦後の日本に期待した若きアメリカ軍大尉の手記(口頭された内容など含む、編纂されたものではある)である。その大尉オーテス・ケーリは日本に暮らすアメリカ人宣教師の子供として、北海道小樽に生まれ、幼少期を長く日本で過ごした人物だ。当然日本語は日本人並みに堪能であり、家では英語で会話をするため、両国語を完全に使いこなせる様な人材であった。太平洋戦争突入したアメリカでは早くから日本語教育を専門的に行う組織を構築し、日本の暗号解読やケーリの様に捕虜収容所の所長に配属するなど、日本からの情報収集を徹底的に強化した。そこで日本語を学んだアメリカ人は終戦後もその語学力を活かして占領下の日本に於いて、アメリカの統治活動に大きく寄与、力を与えることになる。その中には日本文学・日本学者、日本文化研究の第一人者として後に有名になるドナルド・キーン氏も含まれていた。読み書きはキーン、会話はケーリといった具合に、当時から日本語組織の中でも中心的な役割を担ったようだ。
本書はハワイ収監所所長時代に日本人捕虜に接した著者の捕虜に対する想いや自分が生まれ育った日本に対する愛情に満ち溢れている。当時若干22、3の若者であり、捕虜の方が10歳近く歳上のケースもあったが、相手は捕虜の身にあり、捕虜の心理を弁えながら、思いやりの気持ちをもって接する筆者の人間性の高さに驚かされる。戦後はそれら友情を築いた捕虜達の家族に生きている事を伝え歩くなど、捕虜の帰還のためにも尽力する。筆者は同志社大学の教授の立場からも、日本の若い世代に長らく接する機会を持つのであるが、その際に感じたあるべき日本の姿、日本人の姿との乖離を懸念しながらも、戦後も長く、ハワイ当時の捕虜達との交流を続けていく事となる。筆者が感じる戦後の日本のあるべき姿、それへの想いと裏腹に、日々の食事にも困窮し、がむしゃらに生きる事しか考えつかない元捕虜達の苦しい想い。それらが時に対立し、時に共鳴し合いながら、戦後の混乱した日本の姿をよく表している。それを日本語堪能な筆者が、アメリカ人の心と日本人の心を両方持ち合わせた、特殊な人間性の中で解釈し語る内容は、当時の日本の生々しく生き生きとした言葉で描かれていく。非常にスリリングな内容であり、かつての敗戦時日本の人々が持っていた闘志や生への執念なども感じられて、一気にページをめくっていく事になる。
そして巻末には本書解説として、ジャーナリストの前澤猛氏、上智大学文学部教授であり「八月十五日の神話」の著者としても有名な佐藤卓己氏の2人の解説文が加えられており、こちらもかなり濃い内容となっていた。本書を社会に諦めを感じる若者や、戦争を知らずに何の義務も負わずただ平和を謳歌するだけの世代に是非読んでもらいたい。かつての戦後日本を形成した様々な人々の想いや努力、そしてそれを作り上げた人間主義が存在した事を理解する事は、今後も長く平和を維持する努力の一つとして大切だと感じる。他者を理解し、他国を理解し、社会の中で自分が何を成すべきか、改めて考える機会になる一冊だ。