作品一覧

  • フッサール入門

    フッサール入門

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻1,012円 (税込)
    現象学は、世界とかかわる私の経験の仕組みを解明し、日常の事柄に新しい視点を与え、身近な他者ともう一度出会いなおす試みだ。一生をかけて愚直に著述を重ね、認識をめぐる哲学の根本問題と対峙し、現代哲学を切り拓いたフッサール。超越論的還元、エポケー、直観、志向性、ノエシス/ノエマ、知覚、生活世界、エンパシーといったエッセンスを平易に解きほぐしながら、誰も踏み入れたことのない場所で孤独に探究しつづけたフッサールの哲学的思考を追いかける、決定版入門書。
  • 『改造』論文集成 革新の現象学と倫理学

    『改造』論文集成 革新の現象学と倫理学

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,870円 (税込)
    本書は、ドイツの哲学者エトムント・フッサール(1859-1938年)が日本の総合雑誌『改造』のために執筆した連続論文とそれに関連する草稿を集成したものです。 1900/01年の『論理学研究』で注目されたフッサールは、独自の超越論的な哲学を追究し、『イデーンI』(1913年)によって「現象学」を確立しました。3年後にフライブルク大学の正教授に就任し、その地位を確かなものとしたフッサールは、しかし1910年代後半から20年代の大部分をほぼ何も出版せずに過ごしました。 まさにその時期にあたる1922年8月、改造社のベルリン駐在員がフッサールに宛てて書いた手紙が残されています。そこには「あなたに自己紹介なしにお手紙をお送りすることについて、お詫び申し上げます。しかし、私が今こう述べれば、あなたはおそらくそれを理解してくださるでしょう。私は日本の東京の雑誌『改造』(Reconstruction)の代表者としてベルリンに在住しており、私たちの『改造』のために、あなたにご論考を寄せていただくことを心より望んでいる、と」と書かれていました。この依頼に応えて1922年秋から翌23年初頭にかけて執筆されたのが、本書に収められた5篇の論文です。 その地位を確かなものとした哲学者がなぜ日本の雑誌に寄稿することを決めたのか――本当の理由は分かっていません。フッサールはのちに改造社に4篇の論文を送付したと述べていますが、『改造』に掲載された論文は3篇である上、5篇目の論文も残されています。 このように謎に包まれた5篇の連続論文で、フッサールは社会倫理学に属する内容を扱い、「ヨーロッパ文化の革新」を掲げました。これは、のちの『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』(1936年)を予告するものです。『改造』論文全5篇を、11本の草稿、および内容上の関連が深い公開講演「フィヒテの人間の理想」を合わせて集成した本書は、哲学者が晩年の思索に向かう過程を示す貴重な記録であるとともに、危機の時代における「革新」という今日につながる主題を追求した重要な作品であることは間違いありません。 [本書の内容] 〔第一論文〕革 新――その問題と方法 〔第二論文〕本質研究の方法 〔第三論文〕個人倫理学の問題としての革新 〔第四論文〕革新と学問 〔第五論文〕人間集団の発展における文化の形式的諸類型 附論I~XI フィヒテの人間の理想[三つの講演] 訳者解説

ユーザーレビュー

  • フッサール入門

    Posted by ブクログ

    現象学の生みの親、フッサールとその思想を綴った入門書。元から現象学にとても興味があったので楽しく読み進められた。エポケーと、超越論的還元という考えは新鮮で興味深い。現象学は自分が日々体験しているものを言語化していくものであったため、そういことだったんだ!という発見が沢山あって嬉しかった。

    0
    2026年04月30日
  • フッサール入門

    Posted by ブクログ

    最終章の他者論が、フッサールが論じ切れていないだけに、より意味を増していた。哲学的孤独をぶち壊す「他者」。自己とのつながりを明確にすることができない「他者」。他者の解明はまだ果たされていない。

    本書末の読書案内にある谷徹『これが現象学だ』、斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』は個人的にも名著。

    0
    2025年08月20日
  • フッサール入門

    Posted by ブクログ

    自然的態度を脱して「純粋意識」の領野を切り開いたフッサールの現象学の試みの意義を解説したうえで、そこからふたたび日常生活の場面に還帰するまでの道筋をたどっている解説書です。

    著者は、現象学の研究者である谷徹に現象学を学び、本書も谷の『これが現象学だ』(2002年、講談社現代新書)の構成にならっている部分もありますが、よりあたらしいフッサール研究の動向を踏まえた内容になっています。谷の著作には、浩瀚なフッサールおよび現象学の研究書である『意識の自然―現象学の可能性を拓く』(1998年、勁草書房)がありますが、そこではフッサールとカントの関係についてはきわめて軽いあつかいになっています。これに対して本書では、両者の「超越論的」という概念を比較し、フッサールの「超越論的還元」とそのもとでおこなわれる現象学的な考察の意義がわかりやすく解説されています。

    また、フッサールの他者論についても、かなり立ち入って説明がなされているのも本書の特徴といえます。フッサールの他我構成の議論では他者性がうしなわれてしまうという批判が多くありますが、著者はフッサールが超越論的自我の立場に立ち返って思索を開始した理由を、まずはていねいに説明します。そのうえで、「感情移入説」と呼ばれるフッサールの議論がなにをなしえたのかを明らかにし、さらに彼の草稿に見られるコミュニケーションの観点からの他者論を紹介しています。

    谷の『これが現象学だ』より、もう一歩踏み込んだ解説書といえるように思います。

    0
    2025年10月04日
  • フッサール入門

    Posted by ブクログ

    非常に分かりやすく噛み砕いて説明してもらっている感じでありがたい。
    他方、それでも掴みかねている感じはあって、その原因が本書にあるのか自分にあるのかは分からない。多分現象学自体が難しいということなのかなと思う。

    0
    2025年08月03日
  • フッサール入門

    Posted by ブクログ

    現代日本の哲学者である鈴木崇志(1988-)による現象学の入門書。2025年。フッサールの現象学を「経験」概念を軸にして解説する。本書において、現象学は次の二つの問題に取り組む哲学として定義される。則ち、①経験の可能性の条件を解明することと、②対象の種類に応じて経験を分類しそれぞれの経験において対象がどのように与えられるかを記述すること。

    本書の記述から窺えるのは、哲学的探究におけるフッサールの実直な姿勢だ。彼は、深遠なレトリックも技巧的な論理展開も用いることなく、ただ経験の内部にとどまって、経験のみに即して、「事象そのものへ」の指針に忠実に、泥臭く現象学を展開していこうとする。尤も、それはフッサールのうちに隠れた形而上学的前提が皆無であることを必ずしも意味するものではないだろうが。

    □ 経験の可能性の条件を解明する

    現象学は、経験に即して、経験の可能性の条件を解明するために、以下のような手続きをとる。

    ①経験とは、何かが世界に現実に存在していることに気づくことであり、意識と世界が出会うこと。②経験(あるいは意識)は、それが常に何らかの対象についての経験(あるいは意識)であるという意味で、志向性をもつ。③経験について考えるとき、世界そのものは経験(あるいは意識)に先立ってそれ自体として存在している、と素朴に前提してしまっている(自然的態度)。④しかし、自然的態度は「循環の問題」や「像の問題」などの論理的な困難を惹き起こす。⑤そこで、自然的態度およびそうした態度のもとで営まれる自然的経験から批判的に距離を置くために、「世界そのものは経験(あるいは意識)に先立ってそれ自体として存在している」という判断を停止する(エポケー)。⑥こうして、世界は経験(あるいは意識)の外部にあるのではなく、経験(あるいは意識)の内部へと引き戻される(超越論的還元)。世界は、経験(あるいは意識)との相関関係において捉え直される。⑦経験(あるいは意識)の外部を持ち出すことなく(超越論的態度)、ただ経験(あるいは意識)の内部にある枠組みにのみ依拠するものとして捉え直された経験(超越論的経験)に即して、自然的態度および自然的経験がいかにして惹き起こされるのかを解明しようとする。

    なお、超越論的経験において、意識による対象の経験は、「意識/感覚与件/把握(意味付与)/現れ(対象の現れ)/現れるもの(対象)」の五項関係によって捉えられる。この構図のもとで、世界は意識に現れるものとして経験の内部に位置づけられることになる。

    □ カントとフッサールの比較

    カントにとって、①「超越的」とは「経験を超えて、経験の外部にある物自体へ向かう」ということであり、②「超越論的」とは「個々の経験を超えて、経験そのものの可能性の条件を論じる」ということ。そして③「超越論的哲学」とは「経験を超えて、経験を可能にする条件(感性の形式、悟性のカテゴリー、超越論的統覚の自我など、経験が成立する上で主観が予め備えているべき条件)を論じる」ということ。

    フッサールにとって、①「超越的」とは「自然的経験においては、世界はそれ自体として経験の外部に存在している」ということであり、②「超越論的」とは「個々の自然的経験を超えて、自然的経験そのものの可能性の条件を論じる」ということ。そして③「超越論的現象学」とは「超越論的経験に即して、自然的経験を可能にする条件を論じる」ということ。

    探究の主題が、カントにおいては経験一般の成立可能性であるのに対して、フッサールにおいては自然的経験の成立可能性である点に注意。

    □ 経験を分類する

    現象学は、「経験」概念を次のように位置づけ、分類する。

    ①第一に、生は常に絶え間ない体験の流れ(体験流)の中にある。②意識とは、体験のうちで、ある対象を志向しているもののこと。③作用とは、意識のうちで、ある対象を顕在的に志向しているもののこと。④直観とは、作用のうちで、ある対象を充実したイメージをもって顕在的に志向しているもののこと。

    ⑤本源的に与える直観とは、直観のうちで、対象を、これ以上遡ることができない仕方で、十全に現れさせるもののこと。本源的に与える直観により、その対象の知識を獲得することができる。しかし直観は、意識の側が恣意的に操作できる作用でもなければ、対象の側から一方的に規定されてしまっている作用でもない。なぜなら、意識は対象を恣意的に構成できるわけでもなければ、対象は意識と無関係に存在するわけでもないから。つまり、認識の正当性は、意識と対象との相互関係のうちにあるのであり、どちらかが一方的に独占できるものではない。超越論的還元によって対象が意識の内部に引き戻されるからといって、それは対象が意識に対してそれ以上遡れない仕方で十全に現れていることを含意しないことに注意せよ。

    ⑥本源的に与える直観のうち、個別的な対象を与えるものが経験であり、普遍的な対象を与えるものが本質直観である。ただし、経験のうち他者経験(他者を対象とする経験)は本源的に与える直観ではない。なぜなら、他者経験とは、他者のうちに自己のものとは別個のしかし自己のものと同様の意識があるという判断を導く経験であるが、他者の意識は自己に対して直接的に現れるものではなく、エンパシー(感情移入)によって間接的に類比することしかできないから。

    ⑦経験は、対象(超越的対象、自己自身の体験、価値、他者)に応じて分類される(超越的知覚、内在的知覚、価値覚、他者経験)。

    □ 経験における「カント的な意味での理念」

    「超越論的還元によって対象が意識の内部に引き戻されるからといって、それは対象が意識に対してそれ以上遡れない仕方で十全に現れていることを含意しない」という点をさらに掘り下げてみる。

    ①超越論的還元によって対象が意識の内部に引き戻されるからといって、有限の経験においてその対象の「全体」が与えられることは決してない(対象は常に有限の経験を超え出ている)。②にもかかわらず、無限の経験に先立って、その対象の「全体」を有限の経験の極限(目的、理念)として予め想定せずにはおれない(意識がその有限の経験を超え出た「全体」にまで志向性を向けずにはおれない)。

    このように、経験の有限性に対して、意識が無限へと飛躍しようとする一種の越権行為によって先取りしてしまう対象の「全体」のことを、「カント的な意味での理念」と呼ぶ。こうした対象「全体」の越権的な先取りによって経験が進んでいくべき方向性が与えられるということが、経験の成立には必要となる。

    例えば、超越的対象は、有限の経験(超越的知覚)においては、無限のパースペクティブ全体からなる当該対象「全体」のうちの有限部分を捉えられるに過ぎず、意識は決して当該対象の全ての側面を一挙的に捉えることはできない。にもかかわらず、意識は、無限のパースペクティブ全体から捉えられた当該対象の「全体」を、予め想定せずにはおれない。

    また、自己自身の体験は、有限の経験(内在的知覚)においては、連続する無限の瞬間の全体からなる体験流「全体」のうちの有限区間を捉えられるに過ぎず、意識は決して体験流の全ての瞬間を永続的に捉えることはできない。にもかかわらず、意識は、全ての瞬間において捉えられた自己の生の「全体」を、予め想定せずにはおれない。

    □ 独我論、他者論

    超越論的現象学は、超越論的還元によって、世界を自己の経験(あるいは自己の意識)との相関関係において捉え直そうとする。このとき、自己の意識そのものは、自己の意識において構成されるすべての対象と、異なる階層にあることになる。こうして、自己という存在は他の全ての存在に対して特権化される。超越論的現象学はこの点を以て独我論といわれる。超越論的現象学はこうした独我論を出発点とする。

    そしてフッサールの現象学は、この独我論的理論構制から出発して、他者論へと向かっていく。しかし、『デカルト的省察』で展開されている他者論は、他者の存在そのものを論理的に導出しようとする議論ではなく、あくまで他者が自己の意識のうちに構成される可能性を現象学的に論じているに過ぎない。しかも、他者の構成可能性の根拠として示されるエンパシー論(「対化」と「類比による把握」を通して他者の体験が「付帯現前化」することで、自己の意識のうちに他者が構成される、とする議論)は、あくまで自己の似姿としての疑似他者、自己に対する全き異質性が除去された他者であり、そこでは他者は自己の像であるに過ぎない。仮に、この自己の像から否応なく逸脱せずにはおれない異質性を以て、つまりこの自己の像から逆照されるものとして、他者を捉えようとしてみたところで、果してそれは独我論において問われている「他者」であるといえるのか。

    独我論は、どれだけ他者経験を分析してみても、決して解決に向かわないのではないか。なぜなら独我論は、経験の問題でもなければ構成の問題でもなく、存在の問題であり論理の問題であるから。独我論と現象学とでは、問われていること、問いの構制そのものが、全く異なるのではないか。独我論は、それが論理的には解決不可能であることを、その解決不可能性をもたらす論理的機制(そもそもの問いの立て方)を剔出して示して見せる以外に、対処のしようがないのではないか。

    0
    2025年08月24日

新規会員限定 70%OFFクーポン 今すぐGET