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現象学は、世界とかかわる私の経験の仕組みを解明し、日常の事柄に新しい視点を与え、身近な他者ともう一度出会いなおす試みだ。一生をかけて愚直に著述を重ね、認識をめぐる哲学の根本問題と対峙し、現代哲学を切り拓いたフッサール。超越論的還元、エポケー、直観、志向性、ノエシス/ノエマ、知覚、生活世界、エンパシーといったエッセンスを平易に解きほぐしながら、誰も踏み入れたことのない場所で孤独に探究しつづけたフッサールの哲学的思考を追いかける、決定版入門書。
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Posted by ブクログ
最終章の他者論が、フッサールが論じ切れていないだけに、より意味を増していた。哲学的孤独をぶち壊す「他者」。自己とのつながりを明確にすることができない「他者」。他者の解明はまだ果たされていない。 本書末の読書案内にある谷徹『これが現象学だ』、斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』は個人的にも名著。
自然的態度を脱して「純粋意識」の領野を切り開いたフッサールの現象学の試みの意義を解説したうえで、そこからふたたび日常生活の場面に還帰するまでの道筋をたどっている解説書です。 著者は、現象学の研究者である谷徹に現象学を学び、本書も谷の『これが現象学だ』(2002年、講談社現代新書)の構成にならってい...続きを読むる部分もありますが、よりあたらしいフッサール研究の動向を踏まえた内容になっています。谷の著作には、浩瀚なフッサールおよび現象学の研究書である『意識の自然―現象学の可能性を拓く』(1998年、勁草書房)がありますが、そこではフッサールとカントの関係についてはきわめて軽いあつかいになっています。これに対して本書では、両者の「超越論的」という概念を比較し、フッサールの「超越論的還元」とそのもとでおこなわれる現象学的な考察の意義がわかりやすく解説されています。 また、フッサールの他者論についても、かなり立ち入って説明がなされているのも本書の特徴といえます。フッサールの他我構成の議論では他者性がうしなわれてしまうという批判が多くありますが、著者はフッサールが超越論的自我の立場に立ち返って思索を開始した理由を、まずはていねいに説明します。そのうえで、「感情移入説」と呼ばれるフッサールの議論がなにをなしえたのかを明らかにし、さらに彼の草稿に見られるコミュニケーションの観点からの他者論を紹介しています。 谷の『これが現象学だ』より、もう一歩踏み込んだ解説書といえるように思います。
非常に分かりやすく噛み砕いて説明してもらっている感じでありがたい。 他方、それでも掴みかねている感じはあって、その原因が本書にあるのか自分にあるのかは分からない。多分現象学自体が難しいということなのかなと思う。
現代日本の哲学者である鈴木崇志(1988-)による現象学の入門書。2025年。フッサールの現象学を「経験」概念を軸にして解説する。本書において、現象学は次の二つの問題に取り組む哲学として定義される。則ち、①経験の可能性の条件を解明することと、②対象の種類に応じて経験を分類しそれぞれの経験において対象...続きを読むがどのように与えられるかを記述すること。 本書の記述から窺えるのは、哲学的探究におけるフッサールの実直な姿勢だ。彼は、深遠なレトリックも技巧的な論理展開も用いることなく、ただ経験の内部にとどまって、経験のみに即して、「事象そのものへ」の指針に忠実に、泥臭く現象学を展開していこうとする。尤も、それはフッサールのうちに隠れた形而上学的前提が皆無であることを必ずしも意味するものではないだろうが。 □ 経験の可能性の条件を解明する 現象学は、経験に即して、経験の可能性の条件を解明するために、以下のような手続きをとる。 ①経験とは、何かが世界に現実に存在していることに気づくことであり、意識と世界が出会うこと。②経験(あるいは意識)は、それが常に何らかの対象についての経験(あるいは意識)であるという意味で、志向性をもつ。③経験について考えるとき、世界そのものは経験(あるいは意識)に先立ってそれ自体として存在している、と素朴に前提してしまっている(自然的態度)。④しかし、自然的態度は「循環の問題」や「像の問題」などの論理的な困難を惹き起こす。⑤そこで、自然的態度およびそうした態度のもとで営まれる自然的経験から批判的に距離を置くために、「世界そのものは経験(あるいは意識)に先立ってそれ自体として存在している」という判断を停止する(エポケー)。⑥こうして、世界は経験(あるいは意識)の外部にあるのではなく、経験(あるいは意識)の内部へと引き戻される(超越論的還元)。世界は、経験(あるいは意識)との相関関係において捉え直される。⑦経験(あるいは意識)の外部を持ち出すことなく(超越論的態度)、ただ経験(あるいは意識)の内部にある枠組みにのみ依拠するものとして捉え直された経験(超越論的経験)に即して、自然的態度および自然的経験がいかにして惹き起こされるのかを解明しようとする。 なお、超越論的経験において、意識による対象の経験は、「意識/感覚与件/把握(意味付与)/現れ(対象の現れ)/現れるもの(対象)」の五項関係によって捉えられる。この構図のもとで、世界は意識に現れるものとして経験の内部に位置づけられることになる。 □ カントとフッサールの比較 カントにとって、①「超越的」とは「経験を超えて、経験の外部にある物自体へ向かう」ということであり、②「超越論的」とは「個々の経験を超えて、経験そのものの可能性の条件を論じる」ということ。そして③「超越論的哲学」とは「経験を超えて、経験を可能にする条件(感性の形式、悟性のカテゴリー、超越論的統覚の自我など、経験が成立する上で主観が予め備えているべき条件)を論じる」ということ。 フッサールにとって、①「超越的」とは「自然的経験においては、世界はそれ自体として経験の外部に存在している」ということであり、②「超越論的」とは「個々の自然的経験を超えて、自然的経験そのものの可能性の条件を論じる」ということ。そして③「超越論的現象学」とは「超越論的経験に即して、自然的経験を可能にする条件を論じる」ということ。 探究の主題が、カントにおいては経験一般の成立可能性であるのに対して、フッサールにおいては自然的経験の成立可能性である点に注意。 □ 経験を分類する 現象学は、「経験」概念を次のように位置づけ、分類する。 ①第一に、生は常に絶え間ない体験の流れ(体験流)の中にある。②意識とは、体験のうちで、ある対象を志向しているもののこと。③作用とは、意識のうちで、ある対象を顕在的に志向しているもののこと。④直観とは、作用のうちで、ある対象を充実したイメージをもって顕在的に志向しているもののこと。 ⑤本源的に与える直観とは、直観のうちで、対象を、これ以上遡ることができない仕方で、十全に現れさせるもののこと。本源的に与える直観により、その対象の知識を獲得することができる。しかし直観は、意識の側が恣意的に操作できる作用でもなければ、対象の側から一方的に規定されてしまっている作用でもない。なぜなら、意識は対象を恣意的に構成できるわけでもなければ、対象は意識と無関係に存在するわけでもないから。つまり、認識の正当性は、意識と対象との相互関係のうちにあるのであり、どちらかが一方的に独占できるものではない。超越論的還元によって対象が意識の内部に引き戻されるからといって、それは対象が意識に対してそれ以上遡れない仕方で十全に現れていることを含意しないことに注意せよ。 ⑥本源的に与える直観のうち、個別的な対象を与えるものが経験であり、普遍的な対象を与えるものが本質直観である。ただし、経験のうち他者経験(他者を対象とする経験)は本源的に与える直観ではない。なぜなら、他者経験とは、他者のうちに自己のものとは別個のしかし自己のものと同様の意識があるという判断を導く経験であるが、他者の意識は自己に対して直接的に現れるものではなく、エンパシー(感情移入)によって間接的に類比することしかできないから。 ⑦経験は、対象(超越的対象、自己自身の体験、価値、他者)に応じて分類される(超越的知覚、内在的知覚、価値覚、他者経験)。 □ 経験における「カント的な意味での理念」 「超越論的還元によって対象が意識の内部に引き戻されるからといって、それは対象が意識に対してそれ以上遡れない仕方で十全に現れていることを含意しない」という点をさらに掘り下げてみる。 ①超越論的還元によって対象が意識の内部に引き戻されるからといって、有限の経験においてその対象の「全体」が与えられることは決してない(対象は常に有限の経験を超え出ている)。②にもかかわらず、無限の経験に先立って、その対象の「全体」を有限の経験の極限(目的、理念)として予め想定せずにはおれない(意識がその有限の経験を超え出た「全体」にまで志向性を向けずにはおれない)。 このように、経験の有限性に対して、意識が無限へと飛躍しようとする一種の越権行為によって先取りしてしまう対象の「全体」のことを、「カント的な意味での理念」と呼ぶ。こうした対象「全体」の越権的な先取りによって経験が進んでいくべき方向性が与えられるということが、経験の成立には必要となる。 例えば、超越的対象は、有限の経験(超越的知覚)においては、無限のパースペクティブ全体からなる当該対象「全体」のうちの有限部分を捉えられるに過ぎず、意識は決して当該対象の全ての側面を一挙的に捉えることはできない。にもかかわらず、意識は、無限のパースペクティブ全体から捉えられた当該対象の「全体」を、予め想定せずにはおれない。 また、自己自身の体験は、有限の経験(内在的知覚)においては、連続する無限の瞬間の全体からなる体験流「全体」のうちの有限区間を捉えられるに過ぎず、意識は決して体験流の全ての瞬間を永続的に捉えることはできない。にもかかわらず、意識は、全ての瞬間において捉えられた自己の生の「全体」を、予め想定せずにはおれない。 □ 独我論、他者論 超越論的現象学は、超越論的還元によって、世界を自己の経験(あるいは自己の意識)との相関関係において捉え直そうとする。このとき、自己の意識そのものは、自己の意識において構成されるすべての対象と、異なる階層にあることになる。こうして、自己という存在は他の全ての存在に対して特権化される。超越論的現象学はこの点を以て独我論といわれる。超越論的現象学はこうした独我論を出発点とする。 そしてフッサールの現象学は、この独我論的理論構制から出発して、他者論へと向かっていく。しかし、『デカルト的省察』で展開されている他者論は、他者の存在そのものを論理的に導出しようとする議論ではなく、あくまで他者が自己の意識のうちに構成される可能性を現象学的に論じているに過ぎない。しかも、他者の構成可能性の根拠として示されるエンパシー論(「対化」と「類比による把握」を通して他者の体験が「付帯現前化」することで、自己の意識のうちに他者が構成される、とする議論)は、あくまで自己の似姿としての疑似他者、自己に対する全き異質性が除去された他者であり、そこでは他者は自己の像であるに過ぎない。仮に、この自己の像から否応なく逸脱せずにはおれない異質性を以て、つまりこの自己の像から逆照されるものとして、他者を捉えようとしてみたところで、果してそれは独我論において問われている「他者」であるといえるのか。 独我論は、どれだけ他者経験を分析してみても、決して解決に向かわないのではないか。なぜなら独我論は、経験の問題でもなければ構成の問題でもなく、存在の問題であり論理の問題であるから。独我論と現象学とでは、問われていること、問いの構制そのものが、全く異なるのではないか。独我論は、それが論理的には解決不可能であることを、その解決不可能性をもたらす論理的機制(そもそもの問いの立て方)を剔出して示して見せる以外に、対処のしようがないのではないか。
現象学の祖であるフッサールに注目して、現象学が掲げている課題、解決する手立てについて簡潔に解説する良書 「現象学的還元」「エポケー」を通じて開かれる純粋な体験流の世界において、私にとって対象が現れるとはどういうことなのかを追求する フッサール独自の用語法ではあるものの、日常的な語彙から出発して議論...続きを読むを始めていくところに親しみや生活世界の尊重が感じられた。ありふれた「現象」を解明するからこそのやり方だなと思った 前半の「経験の仕組みの問題」「経験の分類の問題」に取り組んでいる段階では、カント的な認識論を感じつつも、私たちの普段の直感にフィットする議論を展開しておりとても興味深かった 後半からは、「私」にとっての外部であると自然に想定される「世界」「他者」についての議論が行われる。世界との接触、すなわち「経験」について細かく分類しながら探究していき、遂には私の体験において異質な存在である「他者」の存在に出会う 「哲学的孤独から脱却するための糸口は、誰かと話をしたり、あるいは話しかけられずに互いに口ごもったりするという日常的な体験に立ち返ることで与えられるのである。」 対象の捉え方にカントを感じたり、日常的な感覚を尊重すると言う姿勢や時間の観念にベルクソンを感じたりと、これまでの読書で得てきたものが集大成的に現れてきたのも、個人的には楽しかった 大変わかりやすい論理の展開で議論が進んでいくため、しっかり噛み締めながら読んでいけばちゃんと理解することが出来ると思う 巻末の参考図書も充実しており、まさしく「入門書」として、本書から出発する学習も念頭に置かれているのも良い
近現代の哲学家が結構通っているっぽい現象学の祖、フッサールの入門書。 マジで最近入門書しか読んでないけど、広く浅く、分野同士の関わり合いとかを学ぶのもきっと大事でしょうと自分を慰めながら読んでいる。 現象学は、「経験の仕組みを明らかにする」哲学ととりあえず自分は理解した。その前提として、世界が自分...続きを読むを超越して存在するという(自然的)判断を停止して〈エポケー〉、対象を自分の経験のうちに引き戻してしまう〈超越論的還元〉操作を学んだ。地味に「超越的」と「超越論的」という哲学によく出てくる表現の差を理解できたのは大きい。 プラトンのイデア論とかカントの物自体、ラッセルのセンスデータみたいなものとの関連をすごく感じたし、賢いやつって認識について深い洞察を持ってるなと改めて思った。 フッサールが好んで使った具体例はリンゴの木らしいが、 「リンゴの木/リンゴの木の現れ/感覚与件/把握/私」 という五項関係はかなり分かりやすい。 超越的な対象(説明ムズイ)から始まって他者経験へと進んでいくのは著者のいう探検感もあって読み応えが結構あった。 世界の見方をまた一つ新しく手に入れた気分。
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