遠野を旅行して以来、Xで遠野市立博物館のアカウントをフォローしていたので、本書が出版されていることは以前から知っていた。欲しいと思ってはいたのだが、なかなか本屋で見つからず、私はそういう星の元に生まれたんだ、諦めようなどと弱気になっていた矢先にようやく巡り会えた。嬉しい限りである。
『遠野物語』はお気に入りの本のうちの一冊で、初めて読んで以来幾度も再読しているが、『遠野物語拾遺』を含む増補版は恥ずかしながら読んだことがなかったので、本書を通じて初めてその文章に触れることができた。
こうやって柳田國男と佐々木喜善の文章が並んでいるのを眺めていると、やはり『遠野物語』の良さというのは柳田國男の文才によるところが大きいのだなぁと改めて気付かされる。土台になる民話も優れているし、佐々木喜善による文章も、短い物語を描くのに最適な言葉選びが成されているので想像以上に良いと感じだが、それでも『遠野物語』の不気味さには及ばないと思った。
柳田國男の文章は、なんというか、どこか次元の違う世界から語られてくるような淡々とした不気味さがあるのだ。簡素な文語体はその名状し難い恐怖感を増幅させており、それこそ魑魅魍魎がこの文章を書いているのではないかという印象を読者に与えるのだ。これが病みつきになる。一度読んでしまうと抜け出せない。
これは『遠野物語』に限ったことではないが、文語で書かれた明治の作品や江戸以前の古典は、ある程度内容を把握したらわからなくても原文を読んだ方がいいと思う。最近は時代背景や世界観無視の酷い口語訳が出ていたりもするが、あんな薄っぺらい表現では作品の本質を表現しきれない。どうせならまがいものじゃなく本物の味を堪能するべきである。
さて、脱線してしてしまったが本書の批評に戻ろうと思う。結論からいうと、やや残念な内容だった。引用は『遠野物語拾遺』からのものが多く、あまり関係のなさそうな八戸藩の本草学標本コレクションを数ページを割いて取り上げていたり、これ本当に必要か?と思えるような架空の絵日記が載せてあったりと、無駄な要素を持ち出して水増ししているような箇所が随所に見えた。その分のページをもっと別の要素に振り分けられなかったのだろうか。
ちなみに、「遠野の呪術の世界」と副題につけている割には呪術の要素は少ない。後半にて遠野市立博物館が所蔵する呪術関係の古文書が取り上げられていて、これが本当に興味深い内容だったのだが、見開き1ページで終わってしまった。それこそ前半の余計な部分を削ってこういうところに当てて欲しかったのだが...。
決定的におかしいと思ったのが、「なぜ遠野には怪異が多いのか」の章で、遠野は交通の要衝で盛岡に次ぐ隆盛を誇っていた、そのため地域の人々が立ち寄る人々に怪異を伝え、それが広まっていったのだ、と論じていた部分だ。そもそも『遠野物語』は柳田國男が自費出版したことによって世に知らしめられ、増補版の出版、昭和の妖怪ブームにのって多くの人に知られる事になったと序章にて説明しているのに、明らかに矛盾している。
思うに、人の往来が多かったからこそ他の地域から豊富に民話が持ち込まれ、遠野土着の民話や信仰と混ざり合い多種多様な説話が生まれたのではないだろうか。そのほうが道理が通っていて理解しやすい。本書はまったくもって良質な素材の宝庫といって差し支えないほどに貴重な情報を持ち合わせているのだが、編集があまりよろしくない。その分読み手が想像力を働かせて読む事で有効活用していけると思う。
実際手に入れることができて本当によかったと思っている。この本と『遠野物語』を交互によみつつ、不可思議な世界を堪能し尽くしたいと思う。