第一章 「そんなつもりはなかった」
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・「そんなつもりはなかった」という言い訳は、言質を回避する無敵の言い訳ではない。他方で、そうした言い訳が通用する場合もある。謎は、その違いがどう生じるかだ。
第二章 言質を与える――現行一致の責任
・意図していないことを意味することはない、というのは一般論としては間違っている。人は意図しないことを意味することがあり、その種の意味については「そんなつもりはなかった」という言い訳によって言質を逃れることはできない(第三章)。
・他方で、意味したかどうかが意図したかどうかに左右される場合もある。そうした場合の典型例として、会話の含みという言外の意味を取り上げ、それがいかに誤解されうるのかを見る(第四章と第五章)。
・意味したかどうかが意図したかどうかに左右される場合でも、「本当のことは本人にしかわからない」論法は無敵ではない。その理由は、ほとんどの場合、意図はさまざまな状況証拠から知ることができるからだ。意図が本人にしか知りえない究極的な状況というのは極めて例外的な状況で、そうした状況を考慮する必要はほとんどの場合ない。状況証拠から意図がわかる場合は、 「そんなつもりはなかった」という言い訳によって言質を逃れることはできない(第六章と第七章)。
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・言質を与えるとは、言行一致の責任、つまり意味したことと矛盾なく振る舞う責任を負うということだ。
・何をしたら言行一致になるのかは、発言の内容と、その発言がどんな種類のものなのか――その発言がどんな発語内の力をもつのか――に応じて変わる。主張には主張の、約束には約束の、命令には命令の、言行の一致のさせ方がある。
・主張に伴う責任の一つはある種の挙証責任―――主張内容に疑義が呈されたならば、それに応答してその内容を正当化する責任―――だ。
第三章 意図しない表の意味・ほのめかされる裏の意味
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・ある発言によってあることを意味しているにもかかわらず、そんなことは意味していないかのように振る舞う意味の否認は、ときに通用しときに通用しない。意味に言行一致の責任が伴うかどうかはこうした否認が通用するかどうかによって決まる。否認不可能で、言行一致の責任が伴う意味を表の意味、否認可能で、言行一致の責任を免れる意味を裏の意味と呼ぶ。
・意図の有無と言質の有無はピッタリとは重ならない。意図せずあることを意味することで言質を与えるケースもあれば(意図しない表の意味)、意図してあることを意味しつつも、意図を否定することで言質を回避できるケースもある(ほのめかされる裏の意味)。
第四章 なぜ言わなくても伝わるのか――グライスの語用論
グライスの会話の含みの理論の背景には、会話についてのより一般的な理論がある。そこでまず、 グライスの会話の一般理論について確認しよう。グライスのアイデアの骨子は次だ。
・会話というのは共同作業だ。つまりそれは、協調的な営みだ。そして共同作業としての会話にはそれ用のルールがある。
・発言の解釈は、話し手がそうしたルールに従っているという仮定のもとで、なぜそんな発言をしたのかの理由を、話し手の心の中に求める作業――行為の合理化――である。
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・会話というのは共同作業だ。つまり、話し手と聞き手が協力しあって、共通の目標――たとえば効率的な情報のやり取り――の達成を目指す協調的な活動だ。会話にはこの目標達成に役立ついくつかのルールがある。
・会話の含みと呼ばれる言外の意味がある。会話の含みを理解するには、相手の心を読まなければならない。つまり、ある発言で何が会話の含みとして意味されたのかを理解するには、なぜ話し手がそう発言したのかを、話し手の信念や欲求や意図を推測しながら合理的なものとして――つまり、筋の通ったものとして――理解する必要がある。
第五章 なぜ思いもよらないことが伝わってしまうのか――誤解と文脈
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・会話の含みには誤解の余地が多分にある。誤解が生じる原因の一つは、何が互いの共通了解なのかについて話し手と聞き手とで考えが食い違っているということである。共通了解についての互いの考えのすり合わせは、常識やコミュニケーションを通じて行われるが、それには限界がある。
・「そんなつもりはなかった」は、会話の含みの誤解を解くための有用な手段であり、私たちのコミュニケーションの重要なインフラの一つである。だがそれは、意味しているのに意味していないように振る舞うことで言質を回避するための手段に転用されうる。誤解修正のインフラとしての「そんなつもりはなかった」の有効性を担保することと、責任回避のための「そんなつもりはなかった」を無効化することはトレードオフの関係にある。
第六章 誤解じゃないって本当にわかるんですか?――知識と意味の否認可能性
ここまでの話をまとめよう。ある人があることを知っているかどうかは、どんな証拠をもっているかだけではなく、何が適切に無視される可能性なのかに左右される。そして、何が適切に無視される可能性なのかは、状況に応じて変化する。その変化の要因には、少なくとも二種類ある。それは、判断の正しさに関わる要因、それから、判断が間違いであった場合のコストという実践的な要因である。判断の正しさを脅かす要因があったり、間違いであった場合のコストが大きかったりすると、 視するのが適切ではない可能性は増えていく。こうした変化によって、手持ちの証拠は同じであるにかかかわらず、知っているかどうかが変わることがある。
適切に無視される可能性は状況に応じて変化する。このことをルイスの提案に組み込むと次のようになる。
ある状況である人がPということを知っているのは、Pではないどんな可能性についても次が成り立つ場合かつその場合に限る。(i)その人の手持ちの証拠がその可能性を排除するか、あるいは、 (ⅱ)その可能性は、その状況で適切に無視される可能性である。
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・話し手が意味したというのは誤解ではないということが聞き手にわかっていないなら、その意味は誤解の余地としての否認可能性をもつ。会話の含みが誤解されやすいということは、会話の含みがこの意味で否認可能になりやすいということでもある。
・ 誤解の余地としての否認可能性の有無は、誤解によって生じるコストの大きさに左右される。 これは否認可能性がもつ揺れ、ひいては意味の表と裏の境界の揺れの一つだ。
・意味したかどうかが意図の有無に依存する場合でも、「本当のことは本人にしかわからない」 論法は無敵ではない。その理由は、意図はさまざまな状況証拠から知ることができるからだ。意図が本人にしか知りえない究極的な状況というのは極めて例外的な状況で、そうした状況を考慮することが誤解によって生じるコストに見合うことはまずない。状況証拠から意味する意図がわかる場合は、「そんなつもりはなかった」という言い訳によって言質を逃れることはできない。
第七章「いいね」と「そんなつもりはなかった」
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・他人のツイートに「いいね」することでその内容に好感を表明しつつ、「そんなつもりはなかった」と否認する。こうした否認が通用するかどうかは、何が適切に無視される可能性かに左右される。そして何が適切に無視されるかの設定は、日常的な場面と裁判とでは異なりうる
――特に、冤罪のコストを考えれば、裁判では日常生活と比べてより多くの可能性を適切に無視されないものとして考慮するということがありうる。結果、日常生活では否認可能でない意味が、裁判では否認可能になるということが生じうる。
・どのくらいの慎重さが裁判における誤解のコストに見合うのか、その釣り合いが調整されることで、白々しい「そんなつもりはなかった」による意味の否認の通用する・しないは変化しうる。
第八章 多様化する意味の否認可能性
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・意味の否認可能性には多様性がある。意味したということがわかる・わからないという認な基準で評価される誤解の余地としての否認可能性だけが意味の否認可能性なのではない味が否認可能かどうかは、裁判のような特殊な社会的文脈の事情や、対人関係のスムーズあるいは話し手や聞き手の個人的な都合といったさまざまな理由に照らして、異なる基準価される。そしてどの基準を取るかによって、意味が否認可能かどうかは変わりうる。
第九章 犬笛とイチジクの葉
犬笛は犬には聞こえるが人には聞こえない。これにちなんで、幅広い聞き手に向けられた表向きのメッセージとは別のメッセージを一部の聞き手にこっそり伝える発言を、犬笛と呼ぶ。
…都合の悪い内容に関する責任追及を回避するために付け足されるこの種の補足的な発言を、ソールはイチジクの葉と呼ぶ。
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・意味の否認可能性の多様性は、一部の人たちにとっては否認可能だが、他の人たちにとっては否認可能でない、という二面性をもったコミュニケーションを可能にする。犬笛、それからイチジクの葉はそうしたコミュニケーションの方法の具体例だ。
第十章 揺らぐ表と裏の境界線
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・多様な否認可能性のうち、どんな場面でも使える唯一絶対の否認可能性のようなものはない私たちは状況に応じて異なる否認可能性を使い分けている。そうした使い分けに応じて意味表と裏も変わりうる。
・他方で、どんな場面でどんな否認可能性を使うのかは、話し手や聞き手が自由勝手に選択― よいものではない。その選択が正当性をもたない場合――たとえば個人の私利私欲だけに償て選択される場合など――があり、そうした場面では不当に言行一致の責任が課されるといことが生じる。
第十一章 誤解だけど誤解じゃない――聞き手の意味
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・意味していないのに意味したと聞き手が誤解する。そうした誤解には、曲解もあれば、やむを得ないものもある。本章で探究したのは、やむを得ない誤解の結果、話し手が意図しないことを意味してしまう――誤解が誤解でなくなる――という可能性だ。本章では、そうした意味として、聞き手の意味と聞き手にとっての含みという新たな意味概念を提案した。
・「そんなつもりはなかった」の乱用は、「そう発言したからには、こういう意味に決まってる」という応答に、単なる聞き手の都合の押し付けを超えた正当性を与え得る。そうした応が正当になる場面が増えれば増えるほど、意図しない聞き手の意味は増えていく。それは意が話し手のコントロールを次第に離れていくということだ。
第十二章 言葉の意味を捻じ曲げる
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・言葉の意味を個人が好き勝手に変えることはできない。他方で、社会の中で然るべき権威とみなされた集団が言葉の意味を変える、ということはありうる。しかし権威がどうやって言葉の意味を変えるのか、そのメカニズムの詳細は複雑で十分に解明されていない。
・言葉の意味を権威が変えるということはいかに不当なものになりうるか。二つのあり方を検討した。第一に、ある集団が、不当な仕方で意味決定の権威としての立場を獲得するということがある。そうした権威による意味決定は、まさにその点で不当だ。第二に、意味決定の権威は社会インフラの整備を社会から委託される立場にあり、そのことゆえに生じる社会的な責任がある。そうした責任に背くような仕方で権威を行使するならば、そうした意味決定は不当だ。
第十三章 意味の遊びと意味の交渉
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・意味には遊びがある。つまり、言葉の意味だけでは、その言葉が何に当てはまるのか、その言葉を使うことでどんな責任を負うことになるのかは、完全には確定しない。言葉がどんなものに当てはまるのか、言葉を使うことでどんな言行一致の責任が生じるのかは、場面場面での遊びの調整や交渉なしには定まらない。
・意味変化プロセスには、言葉の遊びの調整を超えて、何が言葉の遊びであるのかについての交渉がときに含まれる。
・意味をめぐる交渉はさまざまな仕方で不当なものになりうる。交渉の目的や結果の評価、交渉のプロセスの評価などの観点は複数あり、それぞれによって正当なのか不当なのかの評価は食い違いうる。意味をめぐる交渉の正当性・不当性の最終的な評価は、そうしたさまざまな観点を総合的に見た慎重なものであるべきだ。
第十四章 「誤解を招いたとしたら申し訳ない」
アーロン・ラザールは、謝っているようでちゃんと謝っていない発言、謝罪のような見掛けをしているだけで本当はまともな謝罪になっていない発言を謝罪もどき (pseudo-apology)と呼ぶ(Lazare 2004)。謝罪もどきは、謝罪に関わる事実認定を避けることで謝罪に伴う責任を回避しようとする発言だ。ラザールによれば、そうした謝罪もどきには少なくとも八つのパターンがある(Lazare 2004, 85-106)。適当に例を足しながら、それらを見てみよう。
(1)謝罪の対象をぼかす。つまり何に対する謝罪なのかをぼかし、具体的に特定しない。たとえば、「何かよくわかりませんが、ともかくごめんなさい」といった発言がこれにあたる。
(2)自分が関与したことをぼかす。たとえば、「このような結果になってしまったこと、誠に申し訳なく思います」といった発言を考えるとよいだろう。
(3)やったことは明らかなのに「もし~だとしたら、謝ります」のような条件つきの形にする。 特にそうすることで、謝罪の対象がそもそも事実でないという可能性を示唆する。
「もし私のせいで傷ついたのだとしたら、お詫びします」と言うことで、傷ついた原因が私ではないという可能性をちらつかせる、というのがこの種の謝罪もどきだ。
(4)相手の被害を問題視し、相手のせいにする。「もし気分を害されたとしたら、お詫びします」 という発言はときに、誰しもが私のやったことで気分を害するわけじゃない、むしろ些細なことで気分を害したあなたが悪い、といったことをほのめかしうる。
(5) やったことを小さく見せる。迷惑どころの騒ぎではない重大な過失に際して、「ご迷惑おかけしてしまい、申し訳ありません」と言うのは、やったことを小さく見せる謝罪もどきだ。
(6) はっきりとした謝罪の言葉ではないけれど、謝っている風の言い回しを使う。「残念に思います」や、「大変心苦しく思っています」といった言い回しがそうだ。
(7)謝る相手をずらす。つまり、本来謝るべき相手とは違う相手に謝る。被害者に謝ることなく、「心配をかけた家族に謝りたい」とだけ言う人が使うのがこの手法だ。
(8)謝る対象をずらす。つまり、本来謝るべき対象とは違う対象について謝る。誤解なんかない場合に使われる「誤解を招くようなことを言ってしまい申し訳ありません」はこの種の謝罪もどきの典型例だ。
こうした謝罪もどきのいろいろなパターンを見ていると、謝罪もどきにも二種類あることがわかる。
一つは、謝罪すべきことがあり、謝罪すべき相手がいるにもかかわらず、そのことをその相手に謝らず、別のことや別の相手に対して謝るというタイプの謝罪もどきだ。やったことを小さく見せる、 謝る相手をずらす、謝る対象をずらす、などはこの種の謝罪もどきである。
もう一つは、謝罪めいた言葉を発しているものの、そもそもそれが謝罪になっていない、というタイプの謝罪もどきだ。「残念に思います」という発言は、気持ちの表明であって、謝罪とはちょっと違う。悪いのは自分じゃなくて相手だというほのめかしも、使われた言葉こそ謝罪の言葉であれ、そもそも謝罪になっていない。
…バウマンによれば、無条件の謝罪は次の四つからなる複合的な発語内行為(発語内行為とは何かについては第二章二節を参照)だ。
第一に、無条件の謝罪はある種の事実認定である。特に、ある行いが相手に害をなす悪い行いであったこと、そしてそれをやったのは自分だということを事実として認めることが謝罪には含まれる。
第二に、無条件の謝罪は感情の表明だ。特にそれは、自分がやったことに対する自責や後悔の念の表明だ。
第三に、無条件の謝罪は改善の約束だ。やってしまったこと自体をなかったことにすることはできない。けれど、今後はそういうことが起こらないように、自分の行動を改善することを約束する。無条件の謝罪はこうした約束でもある。
第四に、無条件の謝罪とは、それに相応しい立場を受け入れる、特に謝罪によって自分の立場がある意味低くなるということを受け入れるということだ。謝罪の言葉を口にした途端、好き勝手に振る舞い、それを咎められると「はいはい、謝ったんだから、もういいでしょう、しつこいな」などと返すのは、謝罪後のしかるべき態度ではない。謝ったなら謝ったなりの相応しい振る舞いがある。
この四つが合わさったものを謝罪の典型だと考えよう。バウマンは、条件つき謝罪は、これら四つの発語内行為のどれでもないと考える。「~だとしたら申し訳ない」と発言したところで、そもそも 「~」の部分を事実と認めることにはならない。そう発言する人は、それを認めていないからこそ、 「仮にそれが事実だとすれば」という条件つきの形にしているのだ。そしてこうした事実認識を欠いているのだから、それに対する自責や後悔の念を表明することも、改善を約束することも、立場の変化を受け入れることもない。
これだけは押さえておきたい本章のポイント
・「誤解を招いたとしたら申し訳ない」のような条件つきの謝罪は、本当の意味での謝罪ではない――謝罪もどきにすぎない――とときに非難される。ただし、こうした非難に値するのは、 自分が悪いことをしたとわかっていてする条件つき謝罪であり、条件つき謝罪一般ではない。
・謝罪に条件をつける、というのは謝罪のリデザインだ。謝罪に限らず、発語内の力は、必要に応じて作り変えることができる。既存の発語内行為では十分対応できない問題に対処するために発語内の力を改良したり、新たな発語内の力を作ったりする営みを、言語行為工学と呼ぶ。
おわりに
意味の表と裏をめぐる本書の探究で何が明らかになったのか。それは意味の表と裏の区別がいかに揺らぎうるのか、言質がいかに不確かなものでありうるのかだ。
本書の基礎にあるのは、意味の表と裏、言質の有無を左右するのは否認可能性だ、という考えだ。 何かを意味しつつも、それを否認する人がいる。そうした否認が通用しない、ということが言質を与えるということであり、言質を取られた人は、意味したことと行動を一致させる責任を負う。そうした否認が通用するなら、その人は言質を与えておらず、意味したにもかかわらず、言行一致の責任を負うことはない。
こうした考えのもと、表と裏の境界を揺るがし、言質の有無を不確かにする一つの要因として本書が注目したのは、否認可能性の多様性だ。否認が通用する仕方、つまり、意味しておきながらそんなことなどなかったかのような話し手の振る舞いが容認される仕方は一つではない。意味したということが誤解じゃないとわかっているかどうかという基準 (認識的な規範) 一つとってみても、その判断に伴うリスクといった実践的な要因を含むさまざまな要因によって、基準は微妙に変わりうる(第六章)。さらに、裁判という特殊な状況に鑑みて、あるいは穏便な人付き合いのために、といったさまざまな事情で、わかっているかどうかとは別の基準が使われることもあり、その結果、場合によっては、誤解じゃないとわかっていつつ、否認の振る舞いが容認される、ということも生じる(第八章)。
このように否認の容認の基礎となる基準は複数あり、どれを用いるかに応じて、同じ否認の振る舞いであっても容認されたりされなかったりする。その結果、ある基準では表の意味だったものが、別の基準では裏の意味になる、ということが生じうる。
意味の表裏の境界を揺るがし、言質の有無を不確かにしうるさらなる要因は、言葉の意味の揺らぎ、それから発語内の力の揺らぎだ(第十二~十四章)。何をすれば言行一致になるのかは、言葉の意味と発語内の力に左右される(第二章)。だが言葉の意味や発語内の力は場面場面で調整されたり、 場面場面での調整を超えて大きく変化したりする。こうした調整や変化によって、同じ言葉を使った発言であっても、場面場面で、言行一致の責任のあり方が変わり、意味の表裏が揺らぐことがある。 かくして発言に伴う責任は絶対不変ではなく、意味の表と裏の境界は揺らぎうる。
こうした意味の表裏の揺らぎは悪用されうる。そしてそれは、不当に言質を逃れようとするものにとっての付け入る隙だ。犬笛やイチジクの葉は、異なる否認可能性の間の揺れを巧みに利用することで、社会的に認められないことがらをやり取りしつつ非難を免れる手段となる(第九章)。言葉の意味や発語内の力が変わりうるということは、意味や力には、人がそれらを自分の都合のいいように捻じ曲げようと交渉する余地があるということでもある(第十二~十四章)。
悪用の可能性をもつ意味の表裏の揺らぎに私たちはどう向き合っていけばよいだろうか。 悪用の可能性があるものなんかなくしてしまえばいい、そう思われるかもしれない。しかし、意味の表裏の揺らぎをなくすことはまず不可能だ。たとえば、誤解じゃないとわかっているかどうかの基準が場面場面で揺れる、それゆえ誤解の余地としての否認可能性が揺れる(第六章)というのは、知識というもののあり方からして避けがたいことであり、私たちにどうこうできることではない。あるいは、言葉の適用例やそれに伴う責任のあり方を隅から隅まであらかじめ確定しておくことはできない、というのはおそらく言葉の本質であり、だとすれば、意味から遊びを取り除くことなどそもそも不可能である(第十三章)。意味の表裏、言行一致の責任のあり方を左右するさまざまな要因の不確定性ゆえに、意味の表裏の揺らぎを完全になくすことはできない。
だとしても、責任逃れのための悪用の余地を減らすために、意味の表裏の揺らぎを極力少なくすべきではないのか。
本当にそうだろうか。私はこうした方針に抗いたい。忘れてはならないのは、意味の表裏の揺らぎ、言質の不確かさは、私たちのコミュニケーションを豊かなものにもする、ということだ。否認可能性のある一つの基準を杓子定規に当てはめて意味の表裏を決めるのではなく、状況に合わせて柔軟にその境界を決める余裕が私たちのコミュニケーションにはある(第八章)。言行一致の責任の中身を決める言葉の意味と発語内の力が不変でないということは、 とは、それがニーズや状況に応じて変化する柔軟性をもつということでもある。言葉の意味に遊びがあるからこそ、それを場面場面で調整することでその場にピッタリな言行一致の責任を作り上げることができる。発語内の力にもニーズに合わせたリデザインの余地があり、それに応じて言行一致の責任は変化しうる。言葉の意味そのものや、発語内の力の基本的なあり方を変えるよう交渉することさえときに可能であり、こうした交渉の可能性は、コミュニケーションを支える言葉の社会インフラを改良する余地でもある(第十二~十四章)。
意味の表裏の揺らぎ・言質の不確かさを抑制するというのは、こうした豊かさを犠牲にすることでもある。あらかじめガチガチに決めておいた画一的な基準を杓子定規に当てはめるということによって生まれるのは、随分と余裕のない、融通の利かないコミュニケーションのシステムだ。たとえば、 誤解じゃないということがわかっているかどうかを基準とした否認可能性、つまり認識的な否認可能性こそが意味の表裏を決める唯一の基準だと考えることで生まれるのは、人間関係の円滑円満さのために対人関係の規範を認識的なそれに優先させることを許さない、幾分ギスギスした不寛容なコミュニケーション像だろう。あるいは、法廷での発言についてはわかりきった言外の意味でも言質を免れるという仕組みは、法廷での特殊事情に鑑みた一つの制度設計だが、認識的な否認可能性を金科玉条としてあらゆる場面で適用するというのは、こうした柔軟な制度設計を不可能にする(第十章)。意味の遊びや交渉の余地という揺らぎを認めないということは、排他的な思想―――たとえば、「結婚」 という言葉が異性カップルにしか当てはまらないのはその言葉の意味からして揺るぎないのであり、 同性カップルに「結婚」が適用される遊びや交渉の余地などない、という思想――に口実を与える (第十二章)。画一的な基準はときに排除の原理となるのだ。あるいは、発語内の力に変化の余地を認めなければ、民事裁判における立証責任の転換の余地もなくなろう(第十四章)。 意味の表と裏の揺らぎ・言質の不確かさは、それを悪用する人にコミュニケーションにおける責任逃れの余地を与える一方で、私たちのコミュニケーションを豊かなものにもする。こうした豊かさを維持しつつ責任逃れを野放しにしないような、意味の裏表の揺らぎ・言質の不確かさのよい匙加減を見出すこと、これこそが一つの社会的課題ではないか。そして、その役に立つのは、豊かさの源でもある揺らぎを適度に残しつつも、その悪用を牽制する方法を見つけることだ。この点について二つの視点を示唆することで本書の締めくくりとしたい。
一つは、言行一致の責任帰属の正当さがいかに脅かされるのかを明るみに出すということだ。たとえば他のどんな基準にも反して個人の都合を押し通すことで言質の有無を決めることが正当化されることはないだろうし、あるいは認識的不正義という社会的不正義の影響が認識的な基準に基づく責任帰責を不当にすることもあるだろう(第十章)。言葉の意味や発語内の力を調整・変化させる試みもまたさまざまな仕方で不当になりうる(第十二~十四章)。コミュニケーションに限らない一般的な規範――社会のインフラを扱うことに伴う社会的な責任であったり、相手のことを考えずに個人の都合を押し通すことの悪さであったり――に照らして言質の決定がいかにして不当なものになりうるのか、それを理解し、必要とあれば個々の場面でそれを指摘することは、言質の揺らぎの悪用を牽制する一つの手段である。
こうした不当さの指摘とは別のもう一つの視点は、責任逃れのための言質の揺らぎの悪用が今あるコミュニケーションの仕組みを脅かす構造を指摘する、というものだ。誤解を解くための正当な「そんなつもりはなかった」と責任逃れのための「そんなつもりはなかった」の間には、それぞれの有効性についてのトレードオフ関係がある(第五章)。責任逃れの余地をなくそうとして「そんなつもりはなかった」が通用する基準を厳しくすると、それに合わせて本当の誤解を解くための正当な「そんなつもりはなかった」が通用する基準も厳しくなる。責任逃れの余地を狭めるために、本当の誤解を解く手段の有効性を犠牲にするというこの方針は、責任逃れの横行によって正当化されるかもしれない。こうして定められた意味の表と裏の境界は総合的に正当なものでありうるが、その結果生じは、誤解の可能性に過度に不寛容な社会――――誤解が誤解でなくなる社会――だ(第十一章)。あは、意味の遊びの悪用に対する対抗策は、遊びそのものに対する不寛容でありうる――「反社会値力」をめぐる政府と野党の「定義できない」、「いや、すでに定義されている」という応酬はまさにうした動きに見える(第十二、十三章)。これが示唆するのは、言葉の意味や発語内の力を自分の都のいいように捻じ曲げる行いの横行は、それを牽制すべく意味や力を変える余地そのものを制限す。 一種の圧力になりうるということだ。意味の表と裏の揺らぎを利用した言質逃れは、このようにして今あるコミュニケーションの仕組みをじわじわと蝕んでいきうる。この構造を指摘することは、言質の揺らぎを利用した責任逃れを牽制しコミュニケーションの豊かさを守るために本書から引き出しうるもう一つの手段となろう。