「新書」というのは、著者の知見に関して、専門的な事柄も含めて判り易く説き、一般読者が様々な考える材料を得られるというモノなのだと勝手に思っている。
そうした意味で、自身にとっては「関心は在るが、詳しいのでもない」という分野である「教育」に関して、専門の研究者が工夫をして纏めたと見受けられる本書は、実に興味深かった。
「専門の研究者が」とでも言えば、酷く難解な内容が在るような気がしないでもないかもしれない。が、扱っている内容は小中高の教育活動等を巡る事柄で、難解という訳ではない。また、「大学の先生が、新入生に向けて論点を丁寧に整理して行う講義」という感じ、或いは一般の人が聴講する、参加するという講演会やフォーラムで、「丁寧に纏めるという準備を重ねた上で専門家が行う報告」という調子の章が折り重ねられていて、概ね各章毎という程度の纏まりでどんどん読み進めることが出来る。そして読み進めながら色々と考えさせられた。要約的な部分を冒頭に持って来て、中身に踏み込んで行くというような形式を基礎としているので判り易いのだ。
「教育」ということに「全く関りが無い人生」というのも考え悪いと思う。自身は“親父殿”の薫陶を受けるかのように、時々“母上”に御叱りを受けるかのように育ったと振り返るが、そういうのも「教育」だ。そういう次元ではなく、自身も小中高の御厄介になっていて、序に大学の御厄介に迄なっているので、一般的に「教育」と言う時に思い浮かべる様子に関りは在った。他方、現在時点迄の人生で親になったというような経過は無いので、「子どもの保護者」というような立場では「教育」に関った経過は無い。
そんな状態なので、小中高と大学に御厄介になっていた時期の後、何かで児童や生徒や学生と接したという経過は在ったかもしれないが、「教育」とは無縁に近い状態だ。それでも「社会の未来を担う世代の事柄」である「教育」には、「市井に数多在るその他大勢の1人」として関心が無い訳でもない。が、関心は多少在っても、近年の様子や論点は承知していない。そういう状態で本書に出くわした。
著者は大阪で活動している研究者だ。大阪の様子に通暁していると見受けられる。と言って、本書は「大阪でこういう様子になっている」に終始しているとも思えない。2000年代以降に示され、強く主張され、実際の動きも在った「新自由主義的」と呼ばれる「教育」を巡って、大阪を「事象の典型的かもしれない例」として、或る程度一貫的に紹介しているというように見える。「全国を覆う?」というような傾向に関して、方々の例を引いて来るよりも、焦点を当てる地域を設定し「一貫した一連の動きを観ながら考える」というようなやり方をする方が、情報や内容、その用紙が伝わり易いというように思う。本書はそれを実践していると見受けられた。
大阪は、既存政党と似ている部分も、一線を画するまたは画そうとしている部分も含む、独自の“地域政党”が大変に大きな力を持っていて、何時の間にか少し長い間に亘って地域の行政や地方議会活動をリードしている。そうした中で「教育」を巡っても、断固たる意志で強い主張が為され、色々な取組が行われて来た。それらの中には、結果的に全国の各地で見受けられた動きを先導するかのような内容も在ったようだ。
こうした中、著者は「大阪で起こったこと」と「それらがもたらしたこと」に関して、色々と疑問も持っているということが本書の随所に滲み出ていると思った。そしてその多くは、「そういうことも在るかもしれない…」と納得し得る感でもあった。
例えば「学校選択制」という事柄が在る。小中学校の通学区域が決まっていて、住所によって「A小学校へ入学」、「B中学校へ入学」というのが決まることになっている。これに対して「学校選択制」となれば、「A小学校へ入学」の区域に在りながら「B小学校へ入学」ということや、「B中学校へ入学」という区域に在りながら「A中学校へ入学」ということも可能になる。「A」や「B」に限らずに「C」や「D」というのさえ在り得ることにもなる訳だ。
自身が小中学生の頃、住んでいた家が在った場所を振り返ると、「A小学校」の通学区域と「B小学校」の通学区域、更に「A中学校」の通学区域と「B中学校」の通学区域の「境界」のような辺りに在った。実際には「A小学校」、「A中学校」に通って卒業した。それらは家の横の路を右へ進むと辿り着いた。左を進むと「B小学校」や「B中学校」だ。小学校に関しては「A」と「B」を結んだ線の中間のような場所に住んでいたのだが、中学校に関しては、縁が無かった「B」の方が近かったと思う。と言って、申出て「B」に通うというような話しは全く無かったと思う。「学校選択制」であれば、こういう場合に「より近い中学校へ行きたい」というのも「在り」だったことになる。「だから?」という程度の話しかもしれないが。
極々卑近なことを何となく思い出したが、「学校選択制」というモノに関しては「希望的観測」により「期待される効果」が挙げられるのだが、始まって暫く経って「検証された効果」という何かが語られているのでもないのだという。こういうのが少し刺さった。これは「教育」ということで為された事柄に「限らない?」というような気がしたのだ。様々な事柄に関して、「希望的観測」による「期待される効果」が語られる。全くやっていない中なら、「希望的観測」という以外に何も無いかもしれないが、それを実際に試行して暫く経ったら「やってみて如何だった」が纏まって、そういう中で「こういうような効果」が語られなければならないのかもしれない。が、世の中でそういうことが普通に行われているであろうか?何か気になった。
他にも「刺さった」という感じの場所は幾つも在った。殊に刺さったのは「普通」と「特殊」という件だ。
色々と課題が在る児童や生徒の学ぶ場所として「特殊」なコースを謳う場所を設ける。そういうことを積極的にやるとなれば、一見すると事情が在る人達のためになるようにも感じられる。が、「普通」とされる場所で様々な問題が在って、その故に「特殊」という状態になってしまったというような場合、「普通」の中の問題が解決される、多少でも改善される、少なくとも問題を見詰められるのだろうか?そんなことをして、様々な多様な要素を含む「普通」は「どんどん狭くなる?」ということなのだろうか、という話題の提起が在った。
本書は大阪の事例を取り上げているが、事例報告に終始しているのでもない。全国的に程度のさこそ在れ、見受けられている問題が示唆されている。「教育」に関して「改革!」が連呼され、「単に教育現場(学校や教職員)が疲弊している」、「強力な上意下達で児童生徒や保護者に報じられた事柄や関連事項を説明することが出来なくなる」という件が在る。そして「選択」や「競争」の強化の中で、何か釈然としない様子も生じているかもしれないという訳だ。
「気になる話題」、「刺さる話題」が多い本書であるが、多くの人が読んでみるべき内容が含まれていると思った。