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  • ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡―

    Posted by ブクログ

    若くして1000人もの部下を率いる――その姿からは、生まれながらのリーダーとしての才覚と責任感の強さが感じられる。まさに天才肌であり、誰もが信頼を寄せる最高の上司だったのだと思う。

    しかしその舞台は会社ではなく、戦場。
    日々、生死が隣り合わせの中で、彼は部下たちの命を預かっていた。
    戦いが終わり、自分だけが生き残ってしまったことへの罪悪感と喪失感は、想像を絶するほど深いものだったに違いない。

    戦後も彼の心は戦場に置き去りのまま、亡くなった部下たちのことを忘れることができなかった。
    遺族に手紙を送り、戦死の詳細を自ら調べて伝える――その行動には、「上官としての最後の責任を果たしたい」という強

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    2025年10月25日
  • ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡―

    Posted by ブクログ

    沖縄戦で24歳の青年が大隊長として1000人もの部下を率いていたとは驚いた。でも戦後、戦死した部下の遺族に宛てた手紙はとても今どきの24歳には書けないであろう文面で、ああ80年前の24歳と今の24歳は違うんだな、と。あの戦いの中、沖縄の人たちに辛くあたっていた日本兵がいたというのはよく読むけれど、ああこんな責任感を背負って生きた人もいるんだな、と。北海道や東北から遠く離れた沖縄で息子や夫を亡くした人の返信は胸につまる。戦争なんてやるもんじゃない。

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    2025年07月23日
  • ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡―

    Posted by ブクログ

    沖縄戦当時24歳、1千人近い部下を持った大隊長は9割の部下を失うも生きながらえる。戦後、遺族たちに部下の最期を伝える手紙を送り、その返信356通。墓場まで持ち帰ろうとする指揮官を説得し、遺族からの返信をさらに関係者に返却する企画。一度も父と会うことのなかった子供や親戚、筆者夫婦を含め戦争を知らぬ世代の学生ボランティアの努力を戦記を交えて記した感動作。

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    2024年09月19日
  • ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡―

    Posted by ブクログ

    自分のどんな感想より、伊東大隊長のこのメッセージを受け取ってほしいとこちらに引用します。

    『エピローグ 奇跡の帰還』より
    p263「戦争は二度と起こしてはならない」
    伊東大隊長は、亡くなる少し前まで、自衛官を相手に沖縄での経験や国を守る軍人としての心構えについて講義することが多く、訪ねてくる軍事の専門家も後を絶たなかったそうだ。
    そうした訪問者を対象に、大隊長はアンケートをとっていた。

    【設問内容1日本にとって、大東亜戦争とは?】
    ①やむにやまれぬものか
    ②愚かなものか

    大隊長の陸軍士官学校時代の二〇名の同期は、両論に分かれ一〇:一〇。訪ねてきた少尉、中尉相当の自衛官五名は、二:三。そし

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    2024年08月20日
  • ずっと、ずっと帰りを待っていました―「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡―

    Posted by ブクログ

    太平洋戦争の壮絶な激戦地となった沖縄。その沖縄戦を闘った部隊の中に、当時24歳の伊東孝一が大隊長として率いる第二四師団歩兵第三二連隊があった。部隊は1945年5月初旬、日本軍が唯一米軍から陣地を奪還するという戦いぶりをみせたが、激しい戦闘の末に9割が戦死。伊東は〈生き残ってしまったことへの後悔と贖罪の意識、そして戦死した部下たちへの想い〉に苛まれた戦後を送ることになる。その彼は終戦直後、およそ600人の部下の遺族宛てに 詫び状を送る。そこには沖縄から持ち帰ったサンゴの塊を打ち砕いて分けた包みと、各々の「戦死現認証明書」が同封されていた。そしてその遺族からの返信を大切に保管していた。本書は著者が

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    2024年04月10日

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