≪だが、佐野と交流していくうち、もう一つテーマができた。あのグローブの重み、敗者の汗が染みこんでいく物語を書きたい。井上戦に至るまで、佐野が歩んできた道のりを──。≫
「足の使い方もそうなんですけど、全部が〇・五秒くらい速いんです。例えば、普通なら『ワン・ツー』とワンとツーの間に『・』が入るじゃな
...続きを読むいですか。だけど、井上君は『ワンツー』という感じで間がない。全部のスピードにおいて、そうなんです」
「全部がハイレベルすぎるんです。ディフェンス、オフェンス、パンチの当て勘、スピード、フィジカル……。戦力のグラフを作るとしたら、全部の項目が十で大きい。七とか八がないんです。すべてが必殺技くらいのレベル。試合の後、スパーリングしたじゃないですか。『ジャブがハンマーみたいだった』って僕は言いましたよね。でも、本当はよく分からない。だって、あんなパンチを経験したことがないから、喩えようがない。他にそういう人がいないんですよ」
「井上のパンチが僕のことを、遥か彼方に追いやったんだ」 決して冗談には聞こえない。エルナンデスはいまだ、あの敗戦を消化しきれていない。立ち直れていないのだ。
「永遠に勝ち続けることはないんだよ。いずれ誰かが私に勝つというのは分かっていた。私が王座を失うとき、判定負けはないだろう。試合の駆け引き、技術の攻防では負けない。だって経験があるからね。だから負けるとしたら、こういった試合。打たれて潰されるような試合しかないと思っていた。それが起きたんだな」
「私はね、試合後に虚勢を張ったり、強がることはもっと馬鹿げたことだと思っているんだ。試合後は素直にならないといけない。相手を認めなくてはならない。日本の文化で素晴らしいものの一つは、スポーツに限らず、相手をリスペクトすることだよ。私はね、常に対戦相手をリスペクトしているよ」
「これまで何度か引退しようかなと思っても、続けられたのは彼とのスパーリングが大きい。他の世界王者はここまで強くないだろうという思いがあったので」
「すぐに今まで闘ってきた世界王者とは全然レベルが違うなと分かりました。ジャブが速くて強い。出てくる角度はそれぞれ違うし、まるで矢が飛んでくるような感じで伸びてくる。あれは普通の選手の左ストレートですよ。たまに出してくる右ストレートの威力はその三倍くらいありました」
ボクサーは誰もが最初は井上のようなスタイルを目指す。ところが、短所に気付き、長所で補う。もしくは長所をさらに伸ばして武器とする。そうやって独自のスタイルを築いていく。 しかし、河野いわく、井上はすべてが長所だという。 「いろんな強い選手とやってきたけど、その中でも抜きん出て強かった。打たせずに打つ。ジャブやワンツーの精度一つとっても図抜けていますよ」
「『ナルバエス』の名前をここで終わらせたくない。ボクサーになろう」 この瞬間、父と同じ道を歩むことを決めた。 「怪物」が新たな「ボクサー・ナルバエス」を生んだのだ。
佐野友樹が「最初の一分くらいで把握された」と語った距離感、ジェイソン・モロニーが「知らぬ間にコントロールされていた」と振り返る頭脳、田口良一が感じた「絶対に仕留めるという殺気」のフィニッシュ、オマール・ナルバエスが体感した階級を上げた初戦での強さ。これらすべてが凝縮されたような試合だった。
私はすぐに電話をかけた。なぜ、井上と闘ったボクサーはあそこまではっきりと試合を記憶しているのか。あらためて聞きたかった。
「僕が思うに、命懸けで闘ったからじゃないですか。プロアマ通じて百試合近くやっていますけど、正直言って覚えていない試合のほうが多いんです。井上君と闘って燃え尽きたボクサーもいるだろうし、やりきれなかった人もいると思う。だけど、リング上で体感する井上君は特別で、一瞬一瞬が命懸けになる。もうね、本当に一瞬一瞬なんですよ。だから、しっかり覚えているんじゃないですかね」
敗者は勝者に夢を託し、勝者は何も語らず敗者の人生を背負って闘う。井上は佐野の人生にも光を当て、輝かせている。それが本物のチャンピオンなのだろう。