■本書のねらい
いまを生きる私たちの文化形成がいかようにされているかという問いに、研究者自身の愛好するものという個別のケースから接近し、現代社会と人間をめぐる問題として考察しようとしている点。
■書籍の構成(目次)
はしがきー少年の日のLEDの思い出
序章 「ポップカルチャー」とは何か?ーデジタルメディア時代のポップカルチャーと教育をめぐって(田中智輝)
第1章 「なさそう」が「ありそう」になる世界から見通せることー「グフ」における宇宙世紀とプラモデルの相互連関に着目して(渡辺哲男)
第2章 現代スポーツマンガにおける凡人の努力ー不平等社会における希望の見出し方、あがき方(間篠剛留)
第3章 「宿命」に抗する現代的手法ー『ジョジョの奇妙な冒険』第七部・第八部における「回転」・「球体」表現の比較を通して(小山祐樹)
第4章 「推しのいる生」の何が新しいのかー当事者から見た推し文化論(村松灯)
第5章 音楽ライブイベントにおける音楽享受についてーコロナ禍の音楽シーンの状況をふまえて(古仲素子)
第6章 コミックマーケットという「場」ー「場の魔法」が起こった参加者と、それが解けた研究者の<重なり>(山本一生)
終章 「マイナス宇宙」における父子の戦いと「ネズミ」が姉を糾弾する場面についてー『シン・エヴァンゲリオン劇場版?』と『人間蒸発』(渡辺哲男)
あとがきー中年の日のオンライン授業の思い出
■本書の結論
自由で遊び心に満ちた創造性を含みながら、同時に不真面目でときにあやうく粗野なものでもあるポップカルチャーの快楽から、現代社会や政治、あるいは教育に対する批判性や、自由のための連帯が生まれることもありうるということが、示唆された。
□考察1:本書からの示唆
①「マンガ」の表記に関して、「漫画」や「まんが」などが使用されることがあるため、使用する際には使い分けるもしくは定義する必要があるということ。16、141
②そもそもそれが本当に「ある」のかということ。経済成長というものは「ある」のか。また、「ない」と思いこんでいるが「ある」という可能性はないのか。21
③2010年代半ば以降、ライトノベルやマンガ、アニメ等に「異世界転生もの」と呼ばれる作品が急増したことに対し、「人生をリセットできたら、こんな自分になりたいという願いが見え透いて見える等の引用、筆者自身の「現代的な知識を活用しううたり、能力の活用を試みたり、現地の人々と協力しあったりと、努力描写がまったくないわけではなく、努力や工夫に希望が持てる世界を望んでいるように見える」といううコメントがあった。→若者は、努力の数値化、成長度合いが可視化できることに好感を持っているのではないか。これは、経済成長にも同じことが適用されるのでは?、数値化(テストなど)教育の影響では?41
④「リセット」に対して「やわになった現代人の現実からの逃避」、「再び心地よい世界に」、「今よりも良い条件でスタートするために行われる。戻るべき「心地よい世界」は存在していない。努力の語られ方がそれ以前と同じであろうはずはない。等、同じ言葉でも、時代やジャンルによって、意図するものが違うということ。42
⑤推し文化時代においては、「歴史」に対する期待はほとんどなくなった。政治への期待そのものが消滅するところまで脱政治化が進んだ。だからこそ、推し文化時代におけるオタクは、現実にとどまらざるをえなくなったのではないか。とのことから、政治への関心がなくなったからこその推し文化という可能性が否定できないということ。98
⑥ただ好きなだけで、関連がない可能性もあるということ。99
⑦準備会スタッフという三千人を超える規模のボランティア集団から見る、好きと言えるもののすごさ。129
⑧「アカ・ファン」と呼ばれる一研究領域として成立しており、本書は日本における「アカ・ファン」研究の先駆をなすことになった。より、研究領域としては存在しているものの、日本ではそれほど規模が大きくないということ。167
□考察2:残された課題
①スポーツマンガが難しい時代になっていて、ジャンプから消えているとあるが、現状どうなのかについては、確認する必要がある。52
②オタクとの表記が使用されていること。
【メモ】
1 ポップカルチャーについて、「高い訴求力をもち、多くの人々に受け入れられている文化全般」という意味で捉えている。
そもそもポップカルチャーそのものが実に多様であり、移り変わりの激しいものであるとすれば、雑多な印象は事柄の性質をそのまま反映しているとも言える。ポップカルチャーは全体と部分のような構造において包括的に捉えることが困難な対象であるが、しかし、そこに含まれる多様な作品群やそれらを受容する感性は複雑に交差し、時代や社会のあり方を象徴的に浮かびあがらせることがある。本書の試みは、…
4 ポップカルチャーと教育の関係について
ポップカルチャーは後者の「文化」としての成果を強く持つものとして理解することができるだろう。
12 「動画」という新しい表現形式の導入
2000年代の動画サイトの台頭によって、過去の作品と晋作との時間的な前後関係が希薄化し、あらゆる作品が時代的に並行して扱われるようになったとの指摘である。
15 「参加型文化」とその例(ハリーポッター、『日刊予言新聞』)
ポップカルチャーは古くから大衆操作の常套手段であったことも看過できない。
31 組立説明書にその曖昧な部分を補完する、ある種の「追加設定」がなされることによる補完が試みられている。
36 私たちが、現実世界の歴史を語ろうとするとき、特定の政治的な達g場が語りの内容を規制することがある。そのため、しばしば党外の歴史をどう解釈するか、あるいは、「事実」があったのかなかったのかが議論されることも多い。現実の歴史を学ぶ際、歴史が本書で論じたような論理をもって「創られる」側面を有するということを扱おうとすると、センシティブな問題に触れざるを得ない。
41 1異世界転生ものとソシャゲに見るリセット感覚
47 努力の語られ方の変化 才能→「何に自分をかけるか」
50 「あきたらめたらそこで試合終了ですよ」も、「明るく楽しいブラック企業、意識高い系ブラック企業の論理」が見られる。
52 「自由」は制限や制約を受けないという消極的自由ではなく、積極的自由だろう。
85 「推しを推す生」が広く受け入れられ、実践されているのはなぜか、また、それが一つの文化として定着する社会とは何なのかということが検討されてしかるべき。①推し文化において、どのような主体の在り方が可能になっているのか。その主体において、「世界」はどのように経験されているのか。②推し文化を生み出した社会構造の変化とは何か。
89 他者への没頭は一般には自己を喪失する経験と捉えられるにもかかわらず、推し文化においては、むしろ自己を取り戻す経験として語られている。
93 子どもやパートナー、自分に対しては責任を感じるが、推しに対しては責任を感じない。
94 受け手は作品の物語の背後に現実と同じ統辞法、秩序から成り立つ「世界」の存在を見てとる。
101 おたく概念の出自について
102 現代を「虚構と現実が切り離されていない、むしろその両者が、可能世界と現実世界という形で相互浸透し始めている時代」
126 客ではなく、参加者という全員が対等な考え方
132 図6-5コミケのマーケットとしての特徴
138 ルネ・字らーるの「模倣的欲望論」。「欲望とは自分自身の心の奥底から自発的に引き出してくるものではなく、他者から借用」してくるものであり、その関係性は「欲望する主体と欲望を引き出す媒介、そして欲望の対象という三角形の図式となる」。