心の全面化と、それによる消失の時代。通史で見る心の正体。
◯人間や心は、与えられた自明の存在ではないし、必然的で本質的な存在でもない。また、唯一で決定的でもないし、変容不可能でもないし、理想へと収束もしない。あらゆる歴史があり得たように、あらゆる人間とあらゆる心があり得た。本書はそういう視点に立つ。
◯ひとつの「発明」であると考えた上で、その創造と更新の歴史を辿ってみる。
第Ⅰ部 西洋編
第1章 心の発明
ホメロスからソクラテスへ、すなわち「風のような心」から「制御する心」への移行。
自律した統一体としての心への変容。
◯ソクラテスによるホメロスの否定の本質とは、世界を視ることによって生きるのではなく、世界を視た上でさらにそれを観るというメタ意識の創造であった。
◯世界について考えるのではなく、世界について考えたことについて考える。
第2章 意識の再発明と近代
◯デカルトの行った意識の再発明。
①世界の存在を根拠づける基盤
②精神と身体を区別して身体を機械とみなす
③魂の物質への変更、意識という新たな認識装置を概念化
◯パスカルの「弱い心」
・「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」
・私は宇宙に呑みこまれる存在でありながら、同時に宇宙を呑みこむ存在なのだ。人間が考える心を失うのであれば、人間はまたたく間に宇宙に呑みこまれ、無限の深淵に消えてしまうという恐怖の表れでもある。
・神と接続しなくてもかろうじて幸福でいられるのは、神とは無関係に自律して心を充実させることができるからではなく、単に問題から目を逸し、気を紛らわせているから
◯気晴らし=慰戯(divertissement)→多様性、娯楽
◯神が地上から去るとき、「労働する心」と「消費する心」の二人の落とし子を残して去った。
◯カントの意識論は、意識に可能な思考と不可能な思考を規定する、鋭くて冷静な、しかし機械的で形式的なモデルであった。
・世界に始まりや終わりが存在するかというような問いは、人間に備わった思考の形式に適合しないアンチノミー(二律背反)
◯カントにおける心は、いわば世界の表面的なデータを受容する形式的なアプリケーションである。心ははじめから(ア・プリオリに)すべての人間にインストールされているデフォルト機能。
・感性:対象に触発されて認識の素材として表象を得る受動的な能力
・悟性(知性):感性によって受け取った表象を組み合わせて概念を形成する積極的な能力
・構想力:両者を媒介する能力。多様なデータ(感性の受け取る表象)と各オブジェクト(悟性の与える概念)を繋ぐインターフェースのような役割
◯カントは、人間の心は「全能でありながら無」(完全なシステム/空虚な心)であることを要請した。このことは、一方でではこれまでの心の問題を見事に解決した方法でありながら、他方では心の問題を抹消してしまったとも言える。
第3章 綻びゆく心
◯フッサール:流れであり、出退であり、射映の起点となる身体があり、自己と他者の響き合いであり、生活世界から取り出されるものである。
・出現、退場という捉え方が無意識を発見する。
◯ハイデガー:道具、気分、生命
第4章 認知科学の心
◯20世紀の心をめぐる3つの考え方の潮流
①心の本質を「言語」であると捉える
→世界と意識を言語化(言語化できる世界に限定される言語的転回)→究極の言語である記号の操作による計算→コンピュータによる計算システム→システムによるシステムの再生産→心の人間からの技術的な離脱(テイクオフ)
②心を「神経科学的な現象」であると捉える
→神経細胞の膜電位における電気パルスの伝達/非伝達の0/1システム→①②で「心はコンピュータである」という完璧なメタファー獲得
③心を「主観的な性質」であると捉える
→なんらかの記号には回収できないような質感=クオリアこそ、認識の本質であると同時に、物質と意識を分かつミッシングリンク→プシュケーにも似た亡霊に戻る
◯ヴァレラ:身体化された心(Enbodied mind)
・エナクティブ認知(enactive cognition):視覚とは単なる視覚情報の処理ではなく、知覚(センサー)と行為(モーター)の関係性の学習であり、意識は身体的行為を伴って成立し、主体と環境が同時に存在を開始する。
・私たち生命にとって意識とは、絶対的で唯一の世界認識や自己同一性の基盤ではないどころか、出発点でさえない。
・センサーモーターのモデルによれば、センサーは単に外界のデータを収拾してくるのではなく、現に作動して自己生成しているシステムに刺激を与え、自己自身を変化させるプロセスに関与するようなデータを利用する。
→コンピュータの情報処理のモデルとは決定的に違う。
→意識は世界を映す「鏡」ではない(略)目の前に映る風景は、脳がカメラのように世界を映し取った風景ではなく、脳と身体の自律的な運動によってその都度生成される風景である。
・脳ー身体ー環境システム:意識は脳の外側、身体、環境にまたがって存在する。
→意識は、中央集権的な統御システムであることから解放されるだけではなく、意識と環境の区別さえ本質的ではないような存在論まで飛躍する。
◯メルロ=ポンティ:肉の哲学
・知覚が意識という主体によって対象を捉えるというフッサールの意識中心のモデルの瓦解であり、むしろ知覚から意識が構成されるという転倒である。
・身体行為と主体と環境の相互交流を中心とした意識の在り方
補論 生命は再開する
第Ⅱ部 日本編
第5章 日本の心の発生と展開
◯「見る」万葉集から「思ふ」古今和歌集
◯「何ものかと共にある意識」の万葉から「情報論的な自然」を詠む古今へ
◯自然からささやかなメッセージを読み取る万葉から明確なコミュニケーションを取る古今へ
第6章 夏目漱石の苦悩とユートピア
・「人生は誕生と死という二つの無限に挟まれた一個の点」「人間は完全でなければならない、そうでなければ無だ」
・パスカル、バイタイユとの一致
・究極の意味か究極の無意味、人間はこうした二択の間に彷徨い苦悩する。