ドナーで生まれた著者の怒りを真空パックしたような一冊。フィクションのような都合の良い感動はさせてくれない。
私自身は子を授かりたいと真剣に考えたことはまだない。だから、精子提供というものに需要があることに驚くのだが、夫の遺伝子でなくても妊娠を望む夫婦や、自ら望んでシングルマザーとなる女性、同性カップルなど、必要な事情があるようだ。
「ドナーで生まれた子どもたち」は、1980年代に精子提供で生まれたオーストラリア人の女性が書いたノンフィクションであり、私が読んだどんなフィクションよりも恐ろしかった。
何が恐ろしいのか。
「ドナーで生まれた子どもたち」では、過去のHIV感染の事例が紹介されていた。
世界中でHIVの感染が広まった時期に、献血では感染リスク行動に関する質問をドナーにするようになったが、精子提供ではこのような取り組みは見られなかったと。
献血したことがある方は知っていると思うが、献血の問診って病歴とか最近の性行動とか根掘り葉掘り聞かれる訳で、それは血液検査だけでは排除できないリスクがあるから。
輸血を受ける患者を守るのために、ちょっと過剰じゃない?と思うような問診が献血ドナーに行われている一方で、精子ドナーはどうなのか。提供を受ける母親と赤ちゃんは十分に守られているのか?
著者はこの点について怒り狂っていましたが、私はただただ自分の行為の結果に無自覚なドナーが恐ろしい。
ある日突然、父親と血が繋がっていないことを知らされる。
そんな場面で、フィクションでは「血の繋がりなんて関係ない!」って感動的な演出になりますが、ノンフィクションではそう簡単にはいかない。
自分の由来の半分を失う喪失感、嘘をつかれていた怒り、遺伝病の恐怖、、
精子ドナーは匿名のことが多いようだ。ドナー・提供を受ける親・医療者、大人たちによって決められた匿名というルールで被害を被るのは生まれてくる子ども。
大人たちの都合で生み出した命への仕打ちとして、理不尽だなあと思う。
著者を含むドナーで生まれた子どもたちの当事者グループは、精子・卵子提供や代理出産に反対している。ただ、ある特定の場合を除いては。
それは、実の親(ドナー)や異父・異母兄弟姉妹との交流があること。
”知らない方が幸せ”って言葉は綺麗事だなと、今までいろんな場面で思ってきたけど、この件についてもそう思う。当事者には知る権利がある。
現在では、公的な精子提供では”1人のドナーから生まれる子どもは○家族以内”ということが各国決められているようだ。あくまでも”公的な精子提供では”。
これの何が恐ろしいって、偶発的近親相姦の可能性が高くなること。
付き合った彼氏が血の繋がった兄かもしれないなんて、ママレード・ボーイじゃあるまいし、冗談キツい。人間は自分に似た人に惹かれるというし、同じ地域で同年代で、同じクラスにいたら、って考えると相当恐ろしい。