すぐれたメインキャラクターを作り出すことについての多くのアドバイスは、長年にわたって存在してきた。デヴィッド・ハワードは『The Tools of Screenwriting(脚本のツール)』の中でこう言っている。「すぐれた主人公は観客の強い感情的反応を引き起こす[……]。大切なのは、観客が主人公から分離していると感じないことだ」。
ロバート・マッキーは同じ問題をこう言い表している。「観客の感情移入は、共感という接着剤によって支えられている。作り手が観客と主人公の絆を結べなければ、観客は何も感じない傍観者となる」。
ブレイク・スナイダーは彼の脚本の教科書に『SAVE THE CATの法則』...続きを読む というタイトルをつけているが、これは観客に主人公を気に入らせるために使われる技法からとられている。「〈SAVE THE CAT〉とは私が名づけたシーンだ。[……]このシーンでは、観客は初めて主人公に出会い、主人公は何らかの行動を起こす――危機一髪のところで、猫を救うとか。このシーンによって観客は主人公の性格がわかり、しかも共感し好きになる」。
これは堅実なアドバイスのように見えるが、あなたが猫好きであることが前提になっている。
スナイダーのアドバイスを受け入れる人は、十万ドルの報酬を手に入れるために人を殺める決心をする男をメインキャラクターに選ぶようなことは断固として拒否するだろう。あるいは、暴行や法定強姦の罪で服役していた男や、立ち上げたビジネスで親友を騙して数千ドル巻き上げる男や、メタンフェタミンを調合して売る男を。
そのような拒否はとても残念だ。なぜなら、そのようなことをすれば、『深夜の告白』(44)、『カッコーの巣の上で』(75)、『ソーシャル・ネットワーク』(10)、『ブレイキング・バッド』(08-13)といった作品は生まれていないだろうから。
ブレイク・スナイダーはこう述べている。私たちがメインキャラクターを最初に目にするとき、その人は何か賞賛すべきことをしていなければならない。そうすれば私たちはその人が好きになると。どんなに少なく見積もっても、メインキャラクターの導入はあらゆる脚本家と映画監督にとって無視することのできない絶好のチャンスである。スクリーン上のキャラクターについて理解する観客は初頭効果に従う。つまり、初登場のシーンでその人が何をしているか、あるいはどのようにふるまっているかがキャラクターについての私たちの基本的な理解の枠組みを設定する。
私たちが『カッコーの巣の上で』のR・P・マクマーフィを最初に目にするとき、彼は戦っているわけではなく、法定強姦に関与もしていない。彼は手錠をはずされた後で飛び跳ね、威勢よく叫んでいる。作品全編を通して、この威勢がよくて反体制的な性格は、私たちが彼について抱く印象を支配している。『深夜の告白』でも『ブレイキング・バッド』でも、メインキャラクターは殺人を企んでいる(前者)わけでもないしメタンフェタミンを製造しようとしている(後者)わけでもない。いずれのメインキャラクターも、愛する人たちに気持ちを伝えるために現実的な障害と格闘している。前者では親友に、後者では家族に。このような尊敬すべき行動のおかげで、これらのキャラクターが映画及びドラマの途中でルールを破る人に豹変するときにも、彼らとの感情的な絆が維持される。
キャラクターの紹介(極端な問題を抱えていないキャラクターの場合)が、彼らのストーリーにうまく貢献している例は数えきれないほどある。そのいくつかはここでとりあげる価値がある。『ラースと、その彼女』(07)で私たちが最初にラース(ライアン・ゴズリング)を目にするとき、彼は家の中から外の世界を眺めていて、外出することができず、自分を見失ったままだ――これはストーリー全体を通してのラースの格闘と合致する最初の手がかりだ。ストーリーが進行する間にラースは妄想から自分を解き放ち、他の人たちと有意義な絆を結ぶはずだ。『世界にひとつのプレイブック』(12)で私たちが最初にパット(ブラッドリー・クーパー)を目にするとき、彼は別れた妻(その場にはいない)に、元の生活に戻ろうと頼み込んでいる。このあと彼は、精神的かつ身体的に自分を改善しようと努力する。この最初の印象は作品全編を通しての彼の行動によっても打ち消されない。彼は元妻の心を取り戻すために自分を改善しようと格闘しつづける。
これらのキャラクターのうち誰一人、最初の登場シーンで特に賞賛に値することはしていない。しかし、キャラクターにどのタイミングでどういう行為をさせるかについての脚本家/監督の選択が、キャラクターがどういう人物かについての重要な手掛かりを与えている。これらのキャラクターの中にとても人間らしい資質を発見することによって、観客は重要なリンクを手にし、それを使って観客は即座に感情的な絆を生み出すことができる。
ストーリーの作者はキャラクターを好きになってもらうためにわざわざ猫を救っているキャラクターをひねり出す必要はない。単に誰もが共感できるような活動をさせておけば十分だ。もしあなたがラットで実験しようとしているのなら、周りに何匹かの猫を置いておくのもいいだろう。
一度こうした感情的な絆が作り出されると、観客はキャラクターの道連れとなり、観客/読者を引き込むいわゆる鉤(フック)の問い[読者や観客をおびき寄せる疑問。釣り針と疑問符の鉤状の形状の類似にひっかけた言い回し]によって、観客の探索する傾向がはたらいたままになる。「彼女はこの窮地から抜け出すのか?」「彼はお金を手に入れるのか?」――こうした問いはストーリーから出てくる問いだが、観客がキャラクターとの間に感情的な絆を作りあげていないと観客を引き込まない。このように、新しい情報を探し求める観客の傾向が活発であるかぎり、観客は主人公のチャレンジや敗北や勝利とつながりをもとうとするだろう。生き残りという報酬が待っているからだ。
このプロセスは、私たち自身の人生経験からかけ離れた状況にいるキャラクターにおいてさえ機能する。手術台に縛りつけられ、容赦なくこちらの下半身に向かってくる高熱のレーザー光線に焼き殺されそうになるなどという経験をしたことのある人がどれだけいるだろうか? おそらく多くはないだろうが、ほとんどの人は、このような状況で生き残る(あるいは、少なくとも将来、子供をつくる)可能性はとても低いと結論するだろう。けれども、もし私たちがたまたまこのような状況に陥っている人のことを知っていれば、そしてその人がたまたまジェームズ・ボンドという名前であったとすれば、生き残る可能性――なんらかのあっと驚く展開によって脱出する可能性――についての確信は、どちらも飛躍的に高まる。この場合、現実に即した観客の期待が、主人公の能力についての知識と争っている。現実とメインキャラクターの能力とのこうした対立、つまりボトムアップ型の視覚的・聴覚的情報と、ボンドはどんなときでも生き残るというトップダウン型の情報との対立が観客の心の中に起き、これがサスペンスを生み出す。そしてこのサスペンスがシリーズの五十年分の収益につながっている。
さらに、厳密に視覚的なレベルでのコントラストにとどまらず、脚本家はシナリオ(および映画)全編にわたって、緊張を生み出すことと解くことのコントラストを使う。このようにメリハリのある刺激を生み出すリズムは、二つの理由で大切だ。観客を映画に集中させることと、観客の脳が疲れてしまったり、あるいは最悪の場合、眠り込んでしまったりするのを防ぐことだ。
人間が世界を完全な情報によってというよりも、むしろ手がかりによって知覚していることについてはすでに見ておいた(第1章)。つまり、世界ではあまりにも多くのことが起こっていて、私たちの単なる有限な感覚器官と脳はそのすべてを完全に処理することができない。それゆえ、私たちはかつての経験に基づいて、知覚されるものについての仮定をすることで、ショートカットをする――トップダウン対ボトムアップという例の図式だ。
もっと専門的な用語を使えば、私たちは二方向の情報の流れを経験する。第一に、現実世界から入ってくるあらゆる刺激(光、音、手触りなど)は、視覚的なり聴覚的なりのエネルギーから、電子化学的なニューロンのインパルスへと変換される。そのインパルスは順々に私たちの脳の隅々まで伝達される。これが感覚と知覚についてのボトムアップ式の情報だ。どんな思考も感情も関与していない。しかし、ひとたび電子化学的な情報が大脳皮質(考える脳の領域)にたどりくつと、それは皮質下にある、より原始的な感情の中枢を通り、私たちの個人的な人生経験と嗜好と意見がつけ加わる。これがトップダウン式の情報だ。こうして、私たちが誰であるかが、私たちがどのように反応するかを決定する。
インフォダンプ…(主にコンピュータに関して)同時に供給される大量のデータ。あるいは、長々と物語の状況説明を提示するナレーション。転じて、一度にはこなしきれないような大量の情報を与える行為を意味する用法もある。
うんざりするような長々と退屈なインフォダンプは読者あるいは観客を即座に圧倒しかねず、あなたの脚本への興味の喪失の原因となる。脚本の教科書は概ね次のことに同意する。――背景的な事実を早く手にすることが読者の理解にとっては重要であるが、より少ない要素でより多くのことを言うことが観客の注意をキープするための鍵であると。出し惜しみされ、あるいはじらすように差し出される情報は、読者を推測しつづける状態に保つ。あるいは、構築主義的心理学が指摘するように、観客が彼らのスキーマに依存することを可能にする。事実を説明する代わりに、情報の断片を手掛かりとして差し出すことが観客の参加を促す。人間は自分のスキーマによる仮定の正しさを証明せずにはいられないので、問いつづけるのだ――自分は正しいのかと。そういうわけで、脚本をストーリーではなくパズルとして始めるのがベストだ。
エドワード・O・ウィルソンは人類独特の進化の仕方に目を向けている。進化の結果、人類は根本的な――彼が信じるには不変の――矛盾を発見するに至る。この矛盾は人間の本性において普遍的に現れる。マルチレベルの進化だ。動物のほとんどの種は、自分自身をケアする個体としてか、あるいはずっと稀なことだが(蟻のように)本能的に協働する集団の一部としてか、どちらか一方のレベルで進化する。
しかし人間は社会の中で自分自身をケアするためにも(個体的選別)、全体としての社会をケアするためにも(集団的選別)進化した。両方のレベルの選別は人間という種が生き残るために役立つにちがいない。問題はそれらが対立的であることだ。個体的選別はふるまいが競合的で利己的な個体を優遇する。一方、集団的選別はメンバーが寛容と利他主義を示す集団を優遇する。これらの二つの衝動はこのようにたえず葛藤の状態にある。
このことの一つの典型的な事例が、友人たちのグループがレストランでディナーをし、割勘にしようと決めるとき、いつでも起こる。メニューでもっとも高価なものを注文することは皆の個体(個人)としての関心のうちにある。なえなら他の人たちは金を出し合い出費を補助するだろうから。そしてこのように注文する人たちは自分自身を最良の価格で最良の食事にありつく者と考える。しかし個々の人たちにとっても慎ましいものを注文することは集団の利益に叶うことだ。なぜならそのことはグループ全体の出費を抑えるから。この難問への答えは、「答えがない」ということだ。各々の個体が別々の、葛藤を含む仕方でこの問題に対処するだろう。たぶんその過程でひとつならずの友情を解消する原因となるだろう。
芸術についてウィルソンはこう結論する。
こうして相互に打ち消し合うマルチレベルの選別の力がはたらく結果、個人の心には必然的にいつまでもあいまいさが残る。すると、絆を結ぶ、愛する、協力する、裏切る、分かち合う、犠牲にする、奪う、欺く、罰する、訴える、裁くなどのやり方について、人々のあいだに無数のシナリオができることになる。文化的進化の上層の大きな広がりに現れる、各人の脳に固有の葛藤は、人文学の源泉となる。アリの世界のシェイクスピアは、信義と裏切りのそんな争いに悩まされず、本能の厳格な命令によってわずかな種類の感動しかもてないため、喜劇も悲劇も一つずつしか書けないだろう。一方、ふつうの人間でも、そんな話をいくらでも編み出せるし、雰囲気や気分の組み合わせを無限に生み出せる。
シーンを書くとき、たとえばおおざっぱな草稿であっても、そのシーンの「メインキャラクター」を特定し、その人が欲していること、およびその目的への障害をはっきりさせることは有益だ。これは葛藤を生み出し、それが今度は読者のうちに期待を生み出し、ページをめくりつづけさせる。最初の草稿のあと、任意のシーンを調べ、あなたがそのシーンの「クライマックス」と「解決」を見つけることができるかどうかを確かめてほしい。この二つは通常は対立する。たとえば誘惑のシーンで、クライマックスは誘惑が成功すると考えられる瞬間でありうるが、(ラストでの)解決は、誘惑は成功しないだろうと分かるときだ。ドラマティックなシーンにおけるそのような構造は、状況に内在する葛藤を利用するだけでなく、観客の注意を維持するためにコントラストを用いることもある。
準備は研究し、調査し、素材を収集する段階だ。可能な資金と編集のサポートも含めて。そして創造したい作品を準備する段階だ。調査は長い間、強力で効果のある脚本の重要な構成要素だった。「どんなに才能があっても、何も知らなければ書けない。才能は事実とアイディアで刺激してやる必要がある。調査をしよう。才能に題材を与えよう。調査をおこなえば、クリシェ(※常套句、ステレオタイプ)との闘いに勝てるだけでなく、恐怖とその同類である鬱状態を乗り越えることもできる」とロバート・マッキーはアドバイスする。しばしば脚本家は自分がクリエイトしようとする世界についての深い知識をもつ。「あなたが知っていることを書け」はありふれたアドバイスだ。ジェームズ・ジョーンズ(『シン・レッドライン』)やティム・オブライエン(『本当の戦争の話をしよう』)といった小説家は、従軍経験のあとで戦争について書いた。ジョン・グリシャム(『ザ・ファーム』)は、法律について書く前は法律家だった。SFの古典『未知との遭遇』(77)のコンサルタントには宇宙飛行士が呼ばれ、オスカーを受賞した『アリスのままで』(14)という若年性アルツハイマーにかかった認知科学者のストーリーは、脳科学者のリザ・ジェノヴァによって書かれた小説に基づいている。
脚本家が準備をすればするだけ、作品は外部検証をクリアする可能性が高くなるだろう。
映画監督のアルフレッド・ヒッチコックは極度にうまく組み立てられスキーマを破ることで『サイコ』(60)の効果を強めることに成功した。その場合のスキーマはこうだ。観客は一人の主人公のいる映画に慣れている。そこでは主人公は映画のあいだじゅうずっと生き残り、あるいは、まれなことではあるが、映画の最後の方で死ぬ。誰もこんな映画を撮ったことはない(ネタばれ注意!)、主人公が、映画が半分もいかないうちに死んでしまうのだ。
メインキャラクターにつながりをもつことについての科学があるとすれば、キャラクターが映画のあいだずっと、もしくはほとんど生き延びることは、観客の注意を維持するのを助けることに役立つ。このようにしてメインキャラクターが死ぬ瞬間に、観客の注意は、なんらかの他のツールが使用されなければ失われるだろう。この場合、ヒッチコックはかなりの上映時間を費やしてノーマン・ベイツというキャラクターが彼の母がしたことの後始末をするのを見せ、観客が彼につながりをもつチャンスを与える。というわけで、観客は、序盤はこれを四万ドルの金を盗んで逃げる若い女性についての映画であると思っていたのが、映画のほぼ中盤で母親の犯罪の尻拭いをしようとする青年についての映画に変貌する。観客の注意は維持される――そしてスキーマの違反が映画史上最も記憶に残る衝撃的な場面の一つを作り上げる。
脚本執筆と映画製作にアプローチするための――そしていかに他人とは違って、なおかつ実力者でいられるかという難問を解くための――最良の方法は、ルールという観点からではなくむしろ効果という観点から考えることだ。つまり、脚本家/監督が観客にいかなる効果をおよぼしたいのかということだ。このことが脚本家/監督が(単にルールに)従う人から真のクリエイターに変貌することを可能にする。観客にいかにして影響をおよぼすかについて決定をくだすクリエイターだ。本書はいかにして観客が映画に反応するかについてのいくつかの方法を紹介している。それらをいかにイマジネーション豊かな斬新なやり方で使い、記憶に残る、おそらく観客/読者の人生から消し去ることのできない瞬間を生み出すのかは、脚本家と監督にかかっている。
注目に値するのは、映画史の中で最も成功した映画の一本(『スター・ウオーズ』)が映画制作におけるほとんど普遍的な規範に違反していることだ。メインキャラクターを早めに出すこと、しかも確実に最初のシークェンスで、という規範だ。たとえばシド・フィールドはこうアドバイスする。「だいたい最初の十ページ(おおよそ十分)で、読み手や観客に向けて[……]説明しなければならない。[……]主要登場人物は誰か?」。ブレイク・スナイダーは主人公を一ページ目に登場させよと勧める。第2章で詳述したとおり、観客を夢中にする映画の力はその大部分が、メインキャラクターへの感情的な絆にかかっている。本作はメインキャラクターを十七分が経過してから登場させているのに、なぜ成功したのか?
これは第9章で論じた芸術全般についてのベーシックな哲学的問題のひとつと関係がある。あなたはいつルールに従い、いつルールを破るべきかという問題だ。なぜ映画史上もっとも成功した作品がメインキャラクターを早めに登場させるというスキーマに違反しているにもかかわらず成功していたかを理解するには、一歩引いて、映画監督が最終的に生み出そうと努めている効果を解明する必要がある。それは「観客を夢中にさせ続ける」ことだ。感じのいい主人公を登場させて観客が感情的な絆を生み出すようにすることは、ひとつの効果的な、確実な手段だが、唯一の手段ではない。この場合、監督は最初の二つのシークェンスの分析で論じられて諸要素を利用して、メインキャラクターが登場するまで観客の興味を維持することができた。そのあとはメインキャラクターに委ねればよいのだ。
物語映画にメインキャラクターを早期に登場させることは慣習になっている。なぜならそれは実際に試され、うまくいくとわかったからで、その結果、一般的に利用されるに至った。このことは、別のアプローチがうまくいかないことを意味するわけではない。特に、もう一本の大成功を収めた『サイコ』(60)は、メインキャラクターを映画が始まってほぼ二十八分経つまで登場させなかった。
ほとんどの映画ファンはこういう映画を見たことがある。メインキャラクターがなんらかのややこしいジレンマに陥るが、なんらかの説得力のない手段を通じてそこから抜け出し、不平あるいはまったくの失望――あるいは、ごまかされたという気持ち――しか残らないような映画だ。そのような「ごまかし」についての伝統的な用語がデウス・エクス・マキナ――「機械仕掛けの神」だ。この概念は古代のギリシャ演劇に発し、神が(クレーンによって舞台に降りてきて)間一髪で降臨し、キャラクターの問題を解くというパターンのことだ。アリストテレスは『詩学』において述べている。「それゆえ自明なことは、プロットの解決は、錯綜にもまして、プロットそれ自体から生まれねばならず、デウス・エクス・マキナによってもたらされてはならない」。すなわち、ジレンマからの脱却の手段は、ストーリーそれ自体の生地に織り込まれているべきであり、なんらかのご都合過ぎ的なやり方で導入されるべきではない。
科学者たちは学びの経験を要約する用語をもっている。メタ認知だ。これは新たな情報と既に知られていたものとの間の関係を見つけることであり、ブレンドされ、精錬され、再生された知識を理解可能ないくつかのカテゴリーに分類することだ。