今年(2024)のGWの大掃除で発掘された本のレビューは大方終わりましたが、その前に娘夫婦が宿泊した時に大慌てでスースケースにしまい込んだ本があり、それらの本のレビュー書きを終了させたく思っています。記録によれば、日本ではコロナ緊急体制が出された4年程前(2020.5)に読み終えた本です。
この頃を思い出すと、毎日在宅勤務(出社原則禁止)で通勤時間は無くなった反面、週に2回は米国本社との電話会議(夜9時開始)があって、夕方から数時間は読書タイムを確保していました。筆者は何冊もお世話になっている本郷氏ですが、内容は忘れてしまっているのでレビューを書きながら振り返りたいと思います。
以下は気になったポイントです。
・新潟県が米どころになったのは、江戸時代以降であった。現在より寒冷だった当時の米の名産地は、温暖な越前国(福岡県北部)あたり、中世において飢饉は常に深刻であったが、米の収穫に必要な寒さ対策、雪対策ができなかった東北地域は慢性的に食糧難であった(p2)
・上杉謙信には天下を取ろうという気はなかったと思う根拠は、春日山城(直江津港の近く)からずっと動かなかったこと。朝廷から与えられた「関東管領」という地位に非常にこだわっていて、常に関東に目を向けていた(p47)
・信玄が上洛を優先していたなら、前田利長のように二俣城はスルーして、さっきと本丸の浜松城を狙った方がいい。家康の本拠でもない二俣城を攻めている信玄の目的は、遠江中央部の領域支配と思われる(p32)武田家で致命的だったのは後継者問題、信玄は息子の勝頼の子、信勝(自分の孫)を後継とし、勝頼を「陳代(主君が幼少の時、軍務や政務を統括する)」とした、武田家の家臣から見れば、元同僚が社長代理になった状態(p39)
・織田一族の発祥の地は、福井県の越前国織田荘という場所で、今の残る、劔神社(つるぎ神社)という神社の神官の子孫と言われる(p47)信長が他の戦国武将と比べて異質であるのは、大胆な人材登用を行なったこと、当時、これは非常に珍しいことであった、これを行なったのは他には武田信玄くらい(p49)
・室町から戦国時代にかけて武士が力をつけたが、庶民も自我に目覚めて地力を獲得した。今でいう「平等」に近い概念を持っていた「一向宗」を支えとした、石山本願寺を中心とする一向宗は次第に勢力を拡大していったが、信長はそれを一切認めようとしなかった、最後には力で抑え込んだ(p55)
・城といえば石垣というイメージがあるが、実は日本で初めて石垣を積んで城を築いたのは信長である、美濃攻略のための小牧山城が初めて、味方に自分の力を誇示させるため(p57)
・信長は宣教師たちの話を聞いて、中国や朝鮮半島の歴史を学び、王室や皇室がいくつも倒れていることを知っていたはず、彼は神仏の祟りも全く恐れていない、比叡山焼き討ち、石山本願寺壊滅を行なった信長なら天皇家を滅亡させたとしてもおかしくない、「信長時代」と「太平洋戦争の敗戦後」が、天皇制の二大危機の時期だったと言える(p65)
・清洲会議で秀吉を一貫して支持したのが、信長の家臣で同僚でもあった丹羽長秀であった、そのため秀吉は自分が天下人になった時、恩義のある長秀に100万石ほどの領地を与えた(p89)でも長秀が死ぬと、秀吉はすぐに丹羽家から領地と家臣を取り上げ、12万石とした。蒲生氏郷にも90万石を与えたが、息子には2万石しか与えなかった、それに対して石田三成がとりなして、最終的には18万石となった(p96)
・日本の歴史上、最も大切なのは「血」ではなく「家の継承」である、天下人である秀吉が「この子はわしの子で、豊臣政権の後継者である」と宣言したら、それに意を唱える人は誰もいない(p100)
・平安の昔から、貴族が収めなければならないとされたのは、明経道(儒学)、明法道(法律)、文章道(漢文と歴史)そして、算道の四つの学問であった(p108)
・賤ヶ岳の七本槍の武将の中で、片桐且元、平野長泰のように出世コースから脱落していく者もいた、その中で脇坂安治は、小牧・長久手の戦いでも武功を上げている、秀吉は実務能力を試した結果、淡路で3万石と与えたが、加藤清正や福島正則と比較したら出世とはいえない。数人殺せる能力よりも、100人、千人の軍勢を任せられる人や政治的手腕のある人が出世した(p115)
・三成は家紋に「大一大万大吉」を旗印として掲げている、一人が皆のために皆が一人のために尽くせば、皆が幸せになれる、部下や領民との間では、三成の悪い話というのは残っていない、むしろ義に熱い人だったのかもしれない(p131)
・1866年には坂本龍馬、中岡慎太郎の斡旋により「薩長同盟」が結ばれた、その翌年には「薩土盟約」笑に「薩長芸三藩盟約」が結ばれた(p172)考え方は、土佐藩は幕府と朝廷を一本化させる公武合体構想、長州・薩摩は武力による倒幕、安芸藩も外国の脅威がある以上、幕府も仲間にしようという路線であった、薩長vs土佐・安芸であった。土佐と安芸は、政権を朝廷に返上してしまえば、薩長の「徳川を討て」という大義名分がなくなると幕府に働きかけ、大政奉還が実現した。(p173)
2020年5月31日読破
2024年7月29日作成