私が友人の家に集まって、木材を寄せ集めたスノコのようなものを友人数人で作ろうとしていたときの話。電動ドリルでねじくぎを打ち込む作業で、みんな電動ドリルを使った経験がなかったから、ドリルの回転力に振り回されずに垂直に安定させることすら上手にできず、手元をふらつかせて素人丸出しの作業が続いていた。
そこに、その友人の祖父が姿を見せた。おじいさんは元大工だったものの、現役はずっと前に退いている。白髪で皺の多い顔からも相当のご高齢であることがうかがえ、話しかけても耳が遠いのか、こちらの言うこともよくわかってないような生返事、しかも、心もち手が震えているようにも見えた。
そのおじいさんが私たちのヘタッピの作業を見てたのか、電動ドリルを自分で手に取った。私たちが「おじいさん、危ないからやめたほうが…」と言う間もなく、おじいさんは視線を定め、手の震えをピタリと止め、誰よりも安定した手つきで正確にドリルを使いこなし、あっと言う間に工程を終えてしまった。
たぶんそのおじいさんは軽度の認知症だったと思う。しかし大工仕事にかけては依然として高い技術力を保っていて、その点だけに限ればりっぱに社会でも有用となるものである。この本を読んだ後、そのエピソードにこそ、著者の徳田さんが示すところの、社会全体が認知症に対してどのようにアプローチすべきかの解決策が隠れているとの思いを強くした。
つまり認知症問題の解決とは、認知症の方(やそうでない方を含めて)の生活上の支障が取り払われ、その人の自由な意思によって社会参加を可能にすることだ。
この考えは障がい者や妊婦などへの「バリアフリー」に近いが、それらのバリアフリーが援助を必要だと明確に見える人に対するものであり、他方で、認知症の方は一見しただけでは援助を要する方なのかが分かりにくいところが異なっている。
援助を要するのかが見えにくい以上、その人を見て援助が必要だと判断できれば援助をするという手法は不十分。したがって、要援助かどうかの判定というような手順を超越したアプローチが必要ということになる。この本で徳田さんはそれを社会全体の「アップデート」という用語を用いて説明している。
もちろんバリアフリーのように、社会インフラや商店、金融機関などの生活上の設備の改善が大きな要素を占めているのはもちろんだが、それでは医療や介護の現場のほか企業や公共機関が改善していけばいい、といった“他人任せ”になってしまう恐れがある。
徳田さんはそれを一歩進めて、認知症を『“あちら”の話ではなく“こちら”の話』と書き、この長寿社会で誰もが認知症になりうるものとして、すべての人が当事者意識を持つ必要性を示している。
そうなれば、認知症の方が生活しやすい社会のイメージを自分にとっても関係が深いものとして考えを巡らせられるし、認知症の方を一律的に収容や隔離をするのではなく、自分が高齢になっても可能な限りやってみたいこととして、できうる範囲での社会への主体的参画(ある人は就業すらも)が思い描けるはず。
徳田さんの理想を冒頭の私のエピソードに当てはめて考えれば、その元大工のおじいさんにとっては日常は介助などを受けながらも、自分にやりたい意思があれば自分の体力の範囲内で大工仕事を行え、後進への助言にもあたれるような認知症の方でも自己実現できる社会が、目指す姿であるはずである。