20世紀イタリアの小説家ボンテンペッリ(1878-1960)による児童文学作品、1922年。ボンテンペッリは、未来派のマリネッティ、形而上絵画のジョルジョ・デ・キリコ、メタ演劇のピランデッロなど、20世紀イタリアの前衛運動の影響の中で創作し、のちに「魔術的リアリズム」と称される幻想的な作品を多く発表することになる。
鏡というモチーフには底知れぬところがある。それは鏡によって生起する二種の区別のイメージから来るように思われる。
■第一の区別、形而上学的区別或いは超越的・存在的区別
第一に、個体とその像とに重ねられる階層的区別・対比・隔絶のイメージである。例えば、現実/幻想、現/夢、実/虚、真実/臆見、内実/外見、実質/形式、本物/偽物、起源/模造、創造/模倣、創造主/被造物、主人/奴隷、支配/被支配、自律/他律、主/従、生/死、主/客、内/外、真/偽、A=A/A≠B、自己/他者。これらは云わば形而上学的位階構造とでもいうべきもので、二者間に形而上学的分断・形而上学的隔絶を措定し、前者の後者に対する優位性が含意され、後者からの前者への階層間移動こそが志向すべき方向性・価値基準として予め設定されている。
しかし、実像と鏡像との区別に正反対の対比をイメージすることもある。現実/理想、具体/抽象、個物/概念、可変/不変、特殊/普遍、雑多/純一、仮象/イデア、不純/純粋、仮初/永遠、無秩序/秩序、生成/存在、A≠A/A=B、自己/世界。ここでは明らかに、後者の側に優位性が置かれている。「本当はね、真実の、現実の人間というのは、われわれだけ、鏡のこちら側にいるわれわれだけなんだ。きみたちこそ像に過ぎないのさ。中身のない、見かけだけの存在なんだ。世界とは、われわれのことだ」。
このように、鏡の前後で、形而上学的階層関係の無限の反転=遊戯が生起し、どちらの側も超越的な根拠・土壌を保持できずその特権性を失うこととなる。こうした両義性・決定不可能性の情況にあっては、安定的な自己同一性は消失し、主/客の区別は揺らぎのうちに投げ込まれる。
「ここにきみがいるというのは、ここにきみと同じような別人がいるって意味だ。つまりきみの像というか、・・・、きみたちはふたりいるんだ」。「きみだろうと、きみの像だろうと、どっちにしてもまったく同じことさ」。
形而上学的階層性を想起させながら、同時にそれを無効化する契機も孕んでいるという点に、鏡の第一の底知れなさがある。
■第二の区別、超越論的・存在論的区別(以下、ただの言葉遊びに過ぎない)
しかし、鏡には、形而上学的区別とは次元の異なる、もう一つの区別のイメージがあるように思われる。それは、個体とその像との階層的区別を措定する、階層化という作用それ自体に孕まれる逆説性に関係する。
ここで問題にしようとしているのは、主体(subject)/対象(object)という形而上学的区別に於ける二者間の関係、ではない。この二者間の関係を問題としているのは、先に述べた第一の区別の内部に於いてである。そうではなくて、形而上学的区別の内部に於いては捕捉できない、こうした区別を措定する作用そのもの、/そのもの、鏡そのもの、をここでは問題にしようとしている(「区別」と「区別を措定する作用」とを混同してはいけない)。そしてそれは同時に、いまこうして形而上学的区別を措定する作用それ自体を一つの対象「/」として取り出そうとしているその対象化作用「 」そのもの、を問うことである。則ち、形而上学的区別に対する形而上学的区別の自己適用、という自己関係的な機制それ自体を問題にしようとしている。云わば超越論的・存在論的な問題設定である。
/そのものが対象化されるとき、それが形而上学的区別に基づいて対象化される以上、主体の項として対応するのは何なのか。/そのものが鏡像「/」となっているとき、鏡の前に在る実像とは何なのか。それは、当然のことながら、/そのものでしか在り得ない。則ち、//「/」。これは云わば「合せ鏡」で表象される機制であると云える。則ち、/=「/」。以上より、鏡/は対象化作用「 」の不動点である。λ計算に於ける不動点定理との共通性に注意。
∀x.x/「x」
∴ //「/」
これは「合せ鏡」であるから、
/=「/」
これは、鏡/が対象化作用「 」の不動点であることを意味する。
こうした極めて捉えがたい、対象化作用の自己関係的機制を、言葉遊びではなく、厳密に形式化して表現することは可能か。