この本を手に取ったきっかけは、坂本達哉先生の『「共感」の思想史――ヒューム、スミスから現代へ』だった。
坂本先生の本では、ヒュームやアダム・スミスが「共感」をどのように考え、それを道徳や正義、社会秩序の問題とどう結びつけたのかが論じられている。その参考文献のなかに亀田氏の『モラルの起源』があった。
これはちょっと面白そうだと思って読んでみた。
実際、面白かった。
ヒュームやスミスが18世紀に考えていた「人間はなぜ他人に共感するのか」「そこから道徳はどのように生まれるのか」という問題を、200年以上たって、今度は本当に実験しているのである。
モラルを実験する
人間はなぜ他人を助けるのか。
なぜ自分が損をしてまで、ズルをした人間を罰しようとするのか。
なぜ不公平な分配に腹を立てるのか。
そして、人間はどのような状態を「公正」だと判断するのか。
本書は、こうした問題について実際に人を集め、条件を変えながら選択をさせ、どのような行動が現れるのかを調べていく。
心理学だけではない。ゲーム理論、進化生物学、脳科学、認知科学など、さまざまな分野の知見が動員される。
「人間は自己利益を最大化する合理的な存在である」という単純なモデル(経済学でいうところのホモ・エコノミクス)だけでは説明できない行動を、一つずつ実験で確かめていくのである。
オキシトシンで人は親切になる?
坂本先生の本からこの本にたどり着いたこともあり、とくに興味深く読んだのが、第4章の「『共感』する心」だった。ヒュームやスミスにとって、「共感」は道徳を考えるための重要な概念だった。
ところが亀田氏の本では、その共感が哲学上の概念であるだけでなく、身体や脳、さらにはホルモンの働きとして分析される。
たとえば登場するのがオキシトシンである。
母子の結びつきなどに関係するホルモンとして知られているが、種を超えた絆の形成にも関わり、利他的な行動を促進する働きもあるという。オキシトシンによって人間が他人に優しくなるのなら、世の中にオキシトシンを増やせば、ワンちゃんを含めてみんな仲良く暮らせるのではないか。
もちろん、話はそんなに簡単ではない。
だから面白い。
人間の共感や利他性は、誰に対しても同じように働くわけではないからである。
家族、友人、仲間。つまり「われわれ」に対しては強く働く。しかし、「われわれ」への結びつきが強くなることと、人類全体に対して親切になることは同じではない。
むしろ、「われわれ」を強く意識すればするほど、「彼ら」との境界がはっきりすることさえありうる。
考えてみれば、人間の共感や利他性が、小さな集団のなかで協力して生きるために進化してきたのであれば、不思議ではない。その第一の役割は「すべての人類を平等に愛すること」ではなく、「仲間とうまくやっていくこと」だったはずだからである。
ここで、坂本先生の『「共感」の思想史』を読んだあとに亀田氏の本を読む意味が出てくる。共感は道徳を生み出す重要な基盤である。
しかし、共感があるだけでは普遍的な道徳にはならない。
共感はモラルの出発点にはなっても、それだけでモラルの完成形にはならないのである。
松尾匡先生がこんなところに出てくる
もう一つ、意外なところで「おっ」と思った箇所がある。
第5章で、異なる倫理や規範が衝突した場合に何が起こるのかを、進化ゲームを使って分析するところである。そこで引照されているのが、経済学者の松尾匡氏らによる研究だった。
松尾氏といえばマルクス経済学の研究者であり、数理マルクス経済学の置塩氏の弟子である。左派こそ金融緩和を重視すべきだという、いわゆるリフレ派的な主張でも知られている。
ところが、進化ゲームを使って「倫理の衝突」を分析する研究までやっていたとは知らなかった。
ここで扱われるのが、「武士道」と「商人道」という二つの規範である。
簡単にいえば、内集団への忠誠を重視し、外部の人間への協力を必ずしも評価しない「武士道」型の規範と、見知らぬ相手とも取引し協力することを評価する「商人道」型の規範を考える。
どちらの規範のもとでも、それぞれの集団の内部では協力を維持することができる。ところが、異なる規範を持つ人々が出会うと厄介なことになる。一方から見れば「正しい」行動が、もう一方から見れば「けしからん」行動になるからである。
つまり問題は、モラルがないことではなく、異なるモラルがそれぞれ存在することなのである。
これはかなり重要な指摘だと思う。
世の中の対立は、善人と悪人が争っているとは限らない。それぞれが「正しい」と思って行動しているからこそ、かえって対立が激しくなることがある。
そういえば松尾氏から、ずいぶん以前に『商人道ノスヽメ』という本をいただいたことがあった。今回『モラルの起源』を読んで、あの「商人道」はこういう研究にまでつながっていたのかと、いささかびっくりした。
そして、ロールズを実験室に連れてくる
そして、私が本書でもっとも面白いと思ったのが、ロールズを実験室に連れてくるところだった。ジョン・ロールズの『正義論』では、有名な「無知のヴェール」という思考実験が登場する。
自分が社会のどの位置に生まれるのか。裕福なのか貧しいのか。どのような能力を持つのか。
そうしたことを一切知らない状態で社会のルールを選ぶとしたら、私たちはどのような原理を選択するだろうか。
ロールズは、そうした条件のもとで社会の原理を選択する際には、最悪の結果どうしを比較し、そのなかで最もよいものを選ぶマキシミン・ルールが合理的だと考えた。そして、社会的・経済的不平等については、最も恵まれない人々の利益を最大化するように組み立てられるべきだとする格差原理を提示した。
これは本来、政治哲学における思考実験である。ところが亀田氏らは、これを本当に実験してしまう。
しかも面白いのは、「無知のヴェール」という哲学的装置をわざわざ設定しなくても、人間が集団全体の状態を評価するときには、最も悪い状態に置かれている人がどうなっているかをかなり気にする傾向が現れるという点である。
これは面白い。
ロールズが規範哲学として組み立てた正義の原理と似たものが、人間の認知や判断のなかから実験的に現れてくる。
もちろん、「人間が実際にマキシミン的な判断をする」ことと、「だからマキシミン原理が正しい」ことは同じではない。
現実の人間がどう判断するかという問題と、社会はどうあるべきかという問題は区別しなければならない。
それでも、ロールズの『正義論』を読んでいるだけではまず出てこない角度から、ロールズを眺め直すことができる。
これが実験社会科学の面白さなのだろう。
モラル同士が衝突したらどうするのか
ここまで見てきたように、人間のモラルは必ずしも普遍的ではない。「われわれ」には通用しても、「彼ら」には通用しないかもしれない。
そこで出てくるのがメタモラルという考え方である。
亀田氏がここで参照しているのは、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ』である。
グリーンは哲学を出発点としながら心理学や神経科学を横断して研究してきた人物で、異なる「モラル・トライブ」、つまり異なる道徳を持った集団同士が共存するためには、個々の集団内部のモラルを超えたメタモラルが必要だと考える。
そして、その候補として提示されるのが功利主義である。功利主義なら、原理的には「仲間だから重く数える」「よそ者だから軽く数える」ということはない。国籍や民族や宗教を超えて、一人を一人として扱うことができる。
その意味では、「われわれ」と「彼ら」という、人間の共感がどうしても持ってしまう境界を超えるための原理になりうる。
なるほど、とは思う。しかし同時に、少し引っかかる。
全体の効用を最大化しようとする功利主義と、最も不利な人を重視するロールズ的な発想とは、必ずしも同じ方向を向くわけではないからである。
場合によっては両者は衝突する。つまり、本書を最後まで読んでも、「これが正しいモラルです」という答えが出てくるわけではない。
実験のあとに、もう一度思想へ戻る
「では、私たちはどのような社会を作るべきなのか」
すると再び、ロールズや功利主義といった政治哲学、倫理学、社会思想の世界へ戻っていく。
この往復が面白かった。
実験社会科学は、哲学や思想を不要にするものではない。
哲学者が考えてきた人間観や正義論を実験室に持ち込み、現実の人間が本当にそのように行動するのかを調べる。その結果を持って、もう一度哲学に戻るのである。
200年以上前にヒュームやスミスが考えていた問題は、実験装置や脳科学やゲーム理論という新しい道具を手に入れても、なくなったわけではない。
むしろ問いは、いっそう具体的になった。
人間は共感する。しかし、誰にでも同じように共感するわけではない。
人間は利他的に行動する。しかし、その利他性にも境界がある。
人間は正義を求める。しかし、人によって「正義」の中身が違えば、その正義同士が衝突することさえある。
そして人間は、最も不利な人のことを意外に気にするらしい。
そんな人間たちが一緒に暮らすためには、どのようなルールを作ればよいのか。ロールズを実験室に連れてきても、最後に残るのは、やはり思想の問いなのである。