一般向け書籍にしては、巷に溢れる「戦国時代」の歴史物とは一線を画し、戦国史研究のみならず中世から近世への権力についての橋渡しをも見据えた野心的な学術理論の書であった。タイトルは割とベタな印象があったが(笑)、どうやらサブタイトルの方が本当のタイトルな感じですね。
個人的には日本中世史の学説や研究者たちがぽんぽん登場して、学生時代のようなゼミ講義とか集中講義のテイストが甦ってきてとても懐かしかった。(笑)
以下は主に備忘録として。
本書の関心は、戦国時代の支配体制の在り方として、暴力による支配と、正当性を帯びた法的・公的な支配というこれまでの戦国時代史研究の二側面のそれぞれの主張に対し、両者を統合した新たな概念を構築することにある。
まず本書の関心に基づく理論としては、永原慶二がいう中世領主制支配の在り方として「私的・実力的支配」と「公的権力として制度的なものに依存」ということがあり、これはいわゆる佐藤進一がいう「主従制的支配権」と「統治権的支配権」に対応する中世史研究一般の理解がある。また、水林彪は支配体制が存立するための三要件として、①物理的な強制力(暴力)②社会にとっての有意義な職務を果たしているという正当性(実質的正当性)③所与の法秩序に適合的に支配権を獲得しているという正統性(法的正当性)があるとする。
かつての中世史研究においては支配体制の「暴力」の側面が強調されており、先の永原の学説でも両者は相互補完しながらも前者が一貫して中世支配の根幹を成すとしているが、一方で、その後、矢田俊文らの提唱による戦国期守護論や、藤木久志の「自力の村」論、「豊臣平和令」論に代表されるように、法的な正当性(正統性)や領主と農民の双務的な関係(実質的正当性)が強調される視点が持ち込まれることとなる。
著者は、戦国時代の領主権力が単なる中世(恣意的暴力的支配)から近世(法的機構的支配)への移行期的な存在としてではなく、その特性は何かと問いかけた上で、この検討を通じて、これまでの中世史研究が提示し続けてきた権力の二元論を止揚した、「権力」そのもの形について新たな視点を導入する。
具体的事象として、著者が戦国時代特有の権力構造として着目するのは、「領」と「家中」である。著者は「戦国大名」家に包摂されながらも独自性を保っていた「戦国領主」(=国衆)にスポットを当て、その「領」や「家中」の範囲や特質、「戦国大名」との相対的な関係性を明らかにしている。
ここで著者はこうした「戦国大名」による「戦国領主」の包摂契機や「戦国領主」の「領」形成にはそもそも「戦国時代」という戦争の常態化があるとし、正当性や正統性が強調される理論に対して、「自力の惨禍」からの解放を求める論理から「豊臣平和令」論が成り立っているという点に、トマス・ホッブズのいう「設立による国家」と「獲得による国家」概念を対応させた上で、ただの自力救済からの解放の求めだけではない、軍事的制圧がこうした状況の前提を成し国家や法を作るのだとしている。そうして統一政権が生まれ結果として近世には戦争がなくなり、ヴォルター・ベンヤミンのいう法措定的暴力(豊臣平和令のように軍事的優位なものがその力を背景に法そのものを作る)が姿を消し、法維持的暴力(作られている法に基づく刑罰など)が支配的になるのであるが、これは全く暴力が法により不在になるわけではなく、ニクラス・ルーマンの言う通り権力は複雑性を縮減して相手方に伝達するコミュニケーション・マスメディアであるという観点から、回避選択肢として潜在化しただけだとしている。そしてこのように法や正当性と暴力は対極にあるのではなく両者は不可分のものだとしている。
その両者を結び付けるものとして、著者は新領主制論での石井進の在地領主の支配についての理論とその論争を取り上げる。石井は①中核の家・館・屋敷②周囲にひろがる直営田③さらにその周辺にひろがる荘・郷・保・村という職権を行使しての支配地域という同心円モデルのうち、①②が「イエ支配」の原理であり、領主権力は③の吸収を目指す、とするが、これに対し大山喬平は③の部分は百姓のイエは自立性があり在地領主のイエ支配の外部であって、①②は「主従制的支配権」、③は「統治権的支配権」により支配されており、この統治権的支配権は構成的支配の階級的転化形態であると反論する。しかし、ここで著者はこの論争は相容れないものではなく、大山の使用した「構成的支配」に着目かつ拡大適用した上で、この「構成的支配」により両者は結び付くのだとしている。
すなわち、ミシェル・フーコーにおいて「権力の関係の原理には、一般的な母型として、支配する者と支配される者という二項的かつ総体的な対立はな」く、諸要素の関係性が「権力の関係の網の目」「力関係の場」を織りなす可動的なものであるが、それをせき止め、固定化させるものが、経済・政治・軍隊であり、現実の支配状態が生まれる、としていることについて、こうした無数の関係性の相互影響やせめぎ合いの中から生じたものこそ拡大適用した「構成的支配」(=フーコーのいう権力)であるとするのである。そして、「構成的支配」は「主従制的支配」と「統治権的支配」に先立つとするが、無数の関係性の故、「主従制的支配」と「統治権的支配」はまたさらに「構成的支配」を形成させるともしている。
戦国時代という戦争の常態化が、せき止め、固定化していた権力関係を流動化させ、新たな秩序を構築する方向に向かうのであるが、まさに暴力も(主従制的支配権も)法も(統治権的支配権も)権力の作用なのであり、その流動化の中から再構築されたものが戦国時代においては「領」や「家中」であり戦国大名の分国支配であるとして、それは法や制度として確立したものではなく可動性を残しているところに戦国時代としての特徴があるのだとしている。
結論からだけみると、暴力と法は権力の作用であり、戦国時代は権力の流動化と再構築に特徴がある、ということで、割とミもフタもない当然の話のようにも思えるが(笑)、著者の旺盛なサービス精神からか(?)、日本中世研究史のお歴々があますことなく颯爽と披露されていて(笑)、それらに近現代政治思想の軌跡を密接に絡ませる労力がしのばれてとても面白かった。(笑)一般向け選書としても本当によく論理をまとめたなという感じがある。
ここ数年に読んだ戦国時代研究者の論理展開は残念に思うことが多かったのであるが、こうしたシビアな視点での論理形成であれば信用できる。今後の理論発展に期待したい。