デイヴィドソンの真理条件的意味論と、その帰結としての「コミュニケーションの哲学」という発想のエッセンスを分かりやすく解説するとともに、デリダとの共通点を探るという著者独自の視点が提示されている。
哲学的意味論において有力な立場の一つは、言語表現の意味は、言語を使用できる限りにおいて私たちがそのつど
...続きを読む実践的に理解しあっている何らかの能力に基づいているという考え方である。だがデイヴィドソンは、こうした能力の共有を前提せず、そのつど人びとの間でコミュニケーションが成立しているという事実から出発する。
こうした立場に立ってデイヴィドソンがとった戦略が、真理条件的意味論である。「雪が白い」という話し手の発した発話を聞き手が解釈するとは、「「雪が白い」が真であるのは、雪が白いときでありかつそのときに限る」という真理条件を表わす文(T‐文)を与えることとされる。ただし、聞き手の作り出した真理条件の正しさを確かめるような視点は存在しない。むしろ、解釈とはT‐文を「見越す」ことによってはじめて成立するというのがデイヴィドソンの考えだった。
本書では論文「碑銘をうまく乱すこと」での議論を紹介しながら、デイヴィドソンの真理条件的意味論がコミュニケーションの全体にまで拡張されていることを解説している。この頃のデイヴィドソンの思想は、70年代の論文「隠喩が意味するもの」に見られるような、「意味」を「文字通りの意味」に限定して理解し、隠喩の持つ意味をそこからの逸脱事例として理解する立場よりもいっそうラディカルな立場に到達していたのである。
最後に著者は、「碑銘をうまく乱すこと」に見られるラディカルなコミュニケーションの哲学と、デリダの思想との共通点を見いだそうとする。デリダは「署名」の意味作用について考察をおこない、署名が機能するのは、そこに主体の意図が存在することによってではなく、意図を伝えるとみなされる「表現」がしかるべきモデルを「反復」しているからにほかならない、むしろこうした「反復」が可能なのは、それが現前的な意図=志向から切り離されることによってであると論じた。その上で彼は、こうした状況を「透明」な翻訳が不可能な「バベル的状況」として捉え、聞き手は話し手の言語についての「解釈」という「賭け」をおこなうことで他者の方へとみずからを投げ出してゆくすぐれて社会的な営みをおこなっていると考える。著者はここに、デイヴィドソンのコミュニケーションの哲学と共通の精神を見ようとしている。