大衆社会論の草分け的な書だが、その内容がよく知られているとは言えないだろう。
オルテガは大衆の典型がすなわち科学者であるとしているところがユニークで、一般的にイメージする大衆社会論とは若干趣を異にする。科学はその発展のために科学者を専門分化させてきたが、科学者は自分の専門分野には詳しいがそれ以外のこ
...続きを読むとは何も知らない、いわば「知者・無知者」としか呼べないものとなってしまった。「科学の他の分野や宇宙の総合的解釈との接触をしだいに失って」きたが、「宇宙の総合的解釈こそ、ヨーロッパ的科学、文化、文明の名に値する唯一のもの」である。ところが、この世界全体の解釈を試みる科学者が不在なのだ。応用科学技術はその基礎とするものを失えば、やがて活力を失う。
オルテガが大衆について以下のように要約する。
「第一に、大衆人は生まれたときから、生は容易であり、あり余るほど豊かで、なんら悲劇的な限界を持っていないという根本的な印象を抱いている。」「第二に、この支配と勝利の実感が彼にあるがままの自分を肯定させ、彼の道徳的、知的財産はりっぱで完璧なものだと考えせる。この自己満足の結果として、彼は外部からのいっさいの働きかけに対して自己を閉ざし、他人の言葉に耳を傾けず、自分の意見を疑ってみることもなく、他人の存在を考慮しなくなる。心の底にある支配感情がたえず彼を刺激し、彼に支配力を行使するように仕向ける。」
また、このようにも言う。「彼らは安楽しか気にかけていないにもかかわらず、その安楽の根拠には連帯責任を負っていないのだ。大衆は、文明の利点のなかに、非常な努力と細心な注意によって初めて維持されうる驚嘆すべき発明や構築物を見ようとしないのである。だから彼らは、まるでそれらが生まれながらの権利ででもあるかのように、自分たちの役割は、文明の恩恵だけを断固として要求することとだと考えているのである。」
オルテガの慣らした警鐘は、ITにより情報が溢れかえり、物資的には何不自由のない現代の社会でも当てはまるだろう。連帯責任を負うもののいない文明はどこへ向かうのだろうか?
第二部では国家論に話題が移り、ヨーロッパの超・国民国家、今で言えばヨーロッパ連合へと言及していく。1930年に書かれているのにEUを予言しているところが先見の明があり、とても興味深い。
オルテガは複雑性(または多様性)と少数者への寛容を備え、民族や宗教、地域利害を超えたヨーロッパの連合が可能であると主張している。経済連合からスタートしたEUは今、移民の受け入れと経済格差に揺れている。
市場経済での勝者とは、どれだけ多くの商品を売ったか、あるいはどれだけ多くの利益を得たかであり、いうなれば経済的人気投票の勝者である。そこには多数派の支持が必要である。経済的多数派が席巻する今日にあって、そこから漏れる経済的少数派は富を失い不幸になって良いのか?グローバル経済のもと地球規模で発生している富の偏在や、宗教的または政治的な理由で難民となった人々はこれを放置しておいて良いのか?「文明とは、何よりもまず共存への意志である」と唱えたオルテガならどのような答えを出すのだろうか?