日本語版のタイトルのインパクトである。 英語版を直訳するなら「雇用の新しい地理学」だろうか。しかし日本語のタイトルは極めて本書の要旨を抑えていると思う。
年収を得るには雇用が必要だ。経済が活発な地域では、平均的な収入は高く、また雇用も多い。経済が活発であるとは、そこに産業があるということだ。かつて産業とは製造業だった。今でも製造業が重要であることにはかわりはないが、その形は大きく変わってきている。本書でまず理解すべき点の1つ目は「製造業」と「イノベーション産業」の違いである。アメリカ国内での製造業は、その多くが海外に拠点を移しているせいで没落している。日本も例外ではない。日本のメーカーでもあっても製造拠点は中国へ、また中国の人件費が上がってきた昨今では東南アジアなどのさらに人件費が低いが良質な労働力のある国へ移っていく。一方、アメリカではどういった産業が発達しているか?周知のとおり、インターネットやソフトウェア、それに関わるビジネスをおこなう企業が成長している。こういった産業をイノベーション産業と呼んでいる。
製造業とイノベーション産業の地理的な違いはなんだろうか?製造業は伝統的に、市場や生産投入物への距離が重要だった。つまり、売り先が近いほうがいいし、一方で原料が近くで手に入るほうがいい。こういった地理的要因が製造業が成長する位置を規定していた部分が大きい。
しかし、イノベーション産業はそういった物理的制限が少ない。ソフトウェアの輸送コストはただみたいなものだ。ではなぜ、サンフランシスコ近辺(ベイエリア)やシリコンバレー、またシアトルなどがイノベーション産業の集積地となっているのだろうか?
それは「アイデア」がイノベーション産業の源泉であり、アイデアは人とコミュニケーションすることで生まれるからだという。伝統的製造業が中心だった頃は生産プロセスが差別化の肝だった。しかし、今重要なのはどのような製品やサービスを生み出すかというアイデアが最も肝になっている。そういった生産性と創造性が重要な産業が地理的な拠点を選ぶときに、3つの恩恵があるところを選ぶという。それは
1.厚みのある労働市場(高度な技能を持った働き手が大勢いる)
2.多くの専門のサービス業者の存在
3.知識の伝播
である。
労働市場の厚みとは、文字通り、高度技能者が多くいる労働者のマーケットが存在することだ。同じような技能を持ってる人が10人いる市場と1000人いる市場では、労働者と企業のどちらの立場から見てもよいマッチングの結果が得られるのは後者だ。そして、厚みのある労働市場があれば、さらにイノベーション産業と高度技能労働者の両方を惹きつけることができる。
専門サービス業者の存在は、産業が育つために重要だ。イノベーション産業が成長するには、資金調達や法律関係など様々なサービスを利用することが必要になる。一見、イノベーション産業は製造業よりもかんたんに海外移転ができそうだが、「イノベーションは適切なエコシステムに身を置くことが重要」であると著者は説く。シリコンバレーのベンチャーキャピタル業界では、20分ルールというものがあり、オフィスから車で20分の距離に拠点がない会社には投資しないという。学術研究でも、ベンチャーキャピタルと新興企業の地理的な距離が広がると、投資される確率が急激に落ち込むという。ベンチャーキャピタルはただの投資家ではなく、エンジニアなどアイデアを生み出す起業家にビジネスとしての方向づけを行う役割もある。そのためにも地理的な近さが緊密なコミュニケーションに役立っているのだろう。たとえば、シリコンバレーには会社の法人化のための手数料の代わりに、その会社の株式を受け取る法律事務所があるという。多くの会社と同様の契約を行えば、一つの会社が大当たりすれば、割に合うというビジネスモデルである。多くのイノベーション・スタートアップがある場所だからできるビジネスモデルであるが、一方で何千ドルもする手数料をすぐに払えない若いスタートアップ会社からしてもニーズがある。
知識の伝播とは、これだけインターネットによるコミュニケーションが標準化した現在でもなお、むしろ今だからこそ、対面のコミュニケーションが重要視されているということである。創造的な人同士が対面でコミュニケーションすることで新たなアイデアが生まれる、ということが認識されているのである。例えばWeWorkのようなコワーキングスペースの需要はこういうところになるのだろう。本書の中には「わが社には最新鋭のテレビ会議システムがあり、いつもそれを使ってインド側と会議をしていますが、直接顔を合わせて話をするのと同じようにいきません。一ヶ所に集まってホワイトボードの前で議論を戦わせる経験は何者にも代えがたい」。今これを書いているのはコロナ騒動の真っ最中なので、いささか的はずれな感じもするが、これは心理だと思う。
「年収は住むところで決まる」というが、これは高技能労働者だけではなく、一般的な労働者にも当てはまる。コーヒーショップの店員、レストランのウェイター、美容師など地域でサービスなどに従事する労働者の生産性には、大きな地域差はないはずだが、サンフランシスコのウェイターと、中西部の田舎のウェイターには収入に大きな差がある。これは、大きな収入を得ている高技能労働者が利用するがゆえのスピルオーバー効果だが、この差はどんどん開いていく一方である。
最後に、本書は経済学で言う人的資本、つまり教育の重要性について議論する。イノベーション産業の成長が、それぞれの地域、ひいては国家全体にとって便益生み出すことが議論された。政府が税控除などの形で補助金を出すのはそういう側面があるからだ。これは教育でも同様で、教育を受けた高技能労働者がもたらす社会的便益に対して、教育を受ける本人が支払う私的費用が大きすぎる。また教育を受けた移民が起業する確率は高く、それもまた国家に恩恵をもたらす。こういった研究結果から、政策として高技能の移民を受け入れを拡大するのか、落ち込むアメリカ人の教育を強化するのか。こういった政策判断が求めらえるという。これは日本にとっても他人事ではなく、むしろ切羽詰まった問題と言えよう。