畠中尚志の作品一覧
「畠中尚志」の「スピノザ エチカ」「哲学の慰め」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「畠中尚志」の「スピノザ エチカ」「哲学の慰め」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
(上巻より)
「神と人間」についての観念的な議論が中心だった上巻に比べ、下巻では「倫理」や「永遠の愛」といった実践的なテーマが中心。しかし当然これらは上巻の議論を下敷きにしているので、下巻を読みながらも何度も上巻に立ち戻り確認しながら読み進めることとなる。
第四部の冒頭でスピノザは、人間がなぜ善より悪に従うのか、そもそも何が善で何が悪なのかを明らかにする、という。上巻で触れた本書の構造の独特さの次に印象深かった点として、この「善/悪」の定義に見られる「構成的」な視点を挙げたい。第三部定理9備考にあるように、「善/悪」はそれ自体善/悪だからでなく我々が欲するものが善/悪なのだという転倒なのだが、これ以外にそもそも本書の公理系の中心に位置する「神」からして構成的である。「神」が神なのは、そのような神がどこかにいるからではなく、他に依るべき処なく自立し、原因もないままに存在するそのような実体を後から我々が想定し「神」と名付けたからだ。スピノザはこの構成のみを抽出して「神」として本書に頻出させているのだが、この神に人格的な色彩が殆ど感じられないのも当然だろう。
また、定理37備考1にあるように、人間が生まれながらにもつ「自然権」が感情に支配されてしまいホッブス的な競争状態を生むため、「国家状態」による法・刑罰で規制すべし、としているのも興味深い。善悪の構成が生じない自然状態というのは例外的であり、構成員の同意に基づく善悪の構成を伴う国家状態こそが常態なのだというリアリズム。これが第五部末尾に現れる「すべて高貴なものは稀であり困難である」というややペシミスティックな認識につながっているのではないだろうか。
第五部の議論は、その感情に受動的に突き動かされ善より悪を志向してしまう人間をどのように導くかというもの。神の観念に伴う必然性に事物の永遠を読み取り、その永遠の相のもとに事物を観念するという実践知が展開されるが、ここの深い理解にはスピノザの他の著述も参照する必要があると思われた。
上下巻通じての読後の印象は、とにかく本書は一度や二度読んだだけで済ませられるような代物ではなく、今後も何度も読み返す機会が生じ、その読み返しの過程もかなり楽しいものになるだろうという予感。それにしてもよくもこのような著作が世の中に生まれたものだと思う。
Posted by ブクログ
842夜
非常に面白い。
ドゥルーズが『千のプラトー』で器官なき身体に関する書物だと言っていた。
本来的に不自由な人間が自由を獲得するためには外的な刺激による身体の変化に伴って生じる受動的な感情を克服する必要がある。そのことによって人間は感情に支配される度合いを少なくし、理性により神を認識する直観知を獲得することができる。スピノザは直観知を獲得して自由人となることに道徳的な意義を認め「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」と述べて締めくくっている。-Wikipedia
スピノザについて書かなかった理由ではなく、なんとなく書きにくかった理由に、もうひとつ、スピノザをめぐる周囲の騒音が多すぎるということがあった。これはドゥルーズのことじゃない(ドゥルーズのスピノザ論はたいへんに静寂に富んだものである)。
すでにヘーゲルにして、「スピノザは近代哲学の原点である。スピノザ主義か、いかなる哲学でもないか、そのどちらかだ」と言っていたのだし、ベルグソンは「すべての哲学者には二つの哲学がある。自分の哲学とスピノザの哲学である」とまで書いていた。スピノザとほぼ同時代の神学者ピエール・ベールですら、はやくも「宗教心がほとんどなくて、それをあまり隠さないのであれば、誰だってスピノザ主義者なのである」と囃したてていた。
ようするに、スピノザについて発言することは、たちまち全ヨーロッパの知との関係を問われるか、さもなくば自分の哲学を問われるということなのだ。
まさに踏絵なのである。それも全ヨーロッパの知を賭けた踏絵として、スピノザは位置づけられてきたわけなのだ。だからこそ、そこがプラトンを批判して全ヨーロッパの知を問題にしたニーチェとつながる畏怖ともなっているのであろう。ともかくも、こういうスピノザでは、ぼくでなくとも引っ込み思案にもなろう。-松岡正剛