作品一覧

  • 「グレート・スピリット」の教え 先住民族に伝わる賢者たちの言葉

    「グレート・スピリット」の教え

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,540円 (税込)
    あまりにも経済効率を優先する現代社会。わたしたち「文明人」は、どこで道を誤ったのだろうか。「すべてのものは自然のうちにそなわっている」――世界各地の先住民が大切にしている「グレート・スピリット」(=偉大な精霊)の教えに学びながら、現代社会に生きるわたしたちが、自然や大地に畏敬の念をもって、それらと調和しながら、人間としてより良く生きるための道筋を示します。

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  • 人生が一変する「遊ぶっきょう」の教え

    人生が一変する「遊ぶっきょう」の教え

    ビジネス・実用

    3.0
    1巻1,760円 (税込)
    「遊び力」を身につけると 人生は一気に輝きはじめる! 「死ぬことさえも、遊びのうち」と言い放つ町田和尚の話は、いつも私たちに大きな気づきをもたらしてくれます。遊びというのも、けっして不真面目でもふざけているわけでもなく、「真剣」と紙一重のパワーをもった行為であり、“無邪気に勝るエネルギーはない”と言えるほど強大なものだったのです。遊ばない人、遊べない人は、人生という道のりを歩くうえで大きな損をしています。 本書では、日本の歴史上で遊びが果たした役割、文化・芸術方面で花開いた創造性などを検証しながら、あなたの「遊び力」を鍛え、人生に活かす方法を説きます。禅と密教を修めた唯一無二の僧侶がたどりついた究極の境地は、毎日の生活や仕事における迷いや悩みからあなたを解放してくれるでしょう。
  • 風の便り あなたの傍に一生寄り添う言葉(メッセージ)

    風の便り あなたの傍に一生寄り添う言葉(メッセージ)

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,650円 (税込)
    そこに「いのち」と「感謝」があればいい 話題の日めくりカレンダー、待望の書籍化! 2011年の東日本大震災時に被災者へ向けて無料配布された日めくりカレンダーがありました。その後は著者が住職をつとめる寺でのみ販売されているのですが、宣伝や通販等をしていないにもかかわらず、人から人へと口コミで伝わり、この10年間ずっと売れ続けています。この日めくりカレンダーの31編のメッセージに新たな書き下ろしエッセイ26本を加えて書籍化したのが本書です。あなたの傍でいつも輝きを放つ珠玉の言葉たちは、様々な場面で勇気と力を与えてくれるでしょう。いつも携行できる小振りで上品な装丁の上製本です。大切な方へのプレゼントにも最適!
  • 「無意識」はすべてを知っている

    「無意識」はすべてを知っている

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻1,672円 (税込)
    NHKテキスト『無意識との対話 身心を見つめなおす』、待望の書籍化!人はなぜ、自分の中にある宝に気づかないのか−「無意識の力」にゆだねれば、人生はもっと気楽に、そして、より創造的なものになっていく。本書では、仏教を中心にキリスト教・心理学・哲学・スポーツなど多角的な見地から、偉人のエピソードや著者の体験談を交えつつ「無意識」の正体に迫る。無意識の力を呼び覚ますカギとなる坐禅、声の力、少食・断食など、僧侶ならではの心身コントロール術も紹介。 序章  村上春樹とイチローの共通点 第1章 無意識はどう考えられてきたか 第2章 盤珪(ばんけい)禅師が説いた「不生の仏心」 第3章 心の中の「五重塔」 第4章 潜在意識の奥にあるもの 第5章 無意識との対話を実現するには? 第6章 無意識を浄化する 第7章 「祈りの力」を考える 第8章 日本人が誇りとする「結び」の思想
  • 山の霊力 改訂新版

    山の霊力 改訂新版

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻1,650円 (税込)
    日本人の「いのち」の源は山にある。 縄文以来、この列島の住人は山の霊力を崇め、山に育まれて生きてきた。 大和の神奈備山から山岳信仰の霊場まで、全国の名山・霊山をめぐり、 日本を代表する宗教学者が日本人の信仰の本質を探る。 なぜ私たちは山へ登りたいと思うのだろう。 山を眺めると懐かしさを感じるのはなぜだろう。 世界でも類を見ない日本人のユニークな宗教観の本質。 現代をより良く生きるための指南書。 ●その昔、山は動物であった 出羽三山/宮沢賢治/三内丸山遺跡 ●オロチの棲む山 神奈備山/鳥海山/見るなの座敷/巨木信仰 ●神のいます山 白神山地/岩木山/高千穂峰/富士山 ●験を修める山 湯殿山/葛城山/役行者/空海/マタギ ●魂が蘇る山 熊野/立山/恐山/白山/御嶽山/スサノヲ ●人と山とのバイラテラリズム 日本的一神教/山と日本仏教/マイ・マウンテン探し ●山の祈り 利他行としての山行 山岳信仰と日本人の心の文化を書き著した名著「山の霊力」(講談社選書メチエ)を 加筆・修正、新章(山への祈り)を追加、写真を全て刷新するなど大幅に改訂。
  • <狂い>と信仰 狂わなければ救われない

    <狂い>と信仰

    ビジネス・実用

    -
    1巻720円 (税込)
    禅の修行者は、疑団、禅病、魔境など幾つかの精神的危機を経て、<悟り>という覚醒に到るという。また、エホバやアッラーなど一神教の神は、しばしば人智を超えた破壊性や冷酷さを露にし、人間を恐怖に陥れ、服従させる。人と神との出会いの確信にあるのは、無意識の闇から突き上げるマグマたる<狂い>であり、それを受容し律することなくして、<救い>が訪れることはないと、著者はいう。本書では古今東西の宗教体験にみる人と神との<狂い>の姿を、豊富なエピソードを交えてリアルに描き、人間の尊厳ある生き方を探る。 本書の目次は以下の通り。若き日の禅寺での修行、アメリカの神学校でのキリスト教の勉強という、ユニークな宗教遍歴を経た著者が、深い確信をもって魂の本質に迫る。
  • 森女と一休

    森女と一休

    小説・文芸

    3.0
    1巻1,595円 (税込)
    本書は、一休が最晩年の10年間を同棲した盲目の女琵琶師・森女との物語が中心です。足利義政の時代の虚構に満ちた仏教界を嫌悪し、常識に囚われない「禅の神髄」を示そうと肉と魚を喰らい、酒をあおり、遊郭に出入りした一休が、77歳で森女と出会うことで、なぜ変わったのか。80歳で大徳寺の住職となり、応仁の乱で焼けた伽藍を復興。森女との交情のうちに一休が見出した「人の道」「無我無欲の境地」を描きます。
  • 「生きる力」としての仏教

    「生きる力」としての仏教

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻789円 (税込)
    仏教とは、人が亡くなるたびにお布施を集め、墓地や駐車場を経営する宗教のことではない。世間の常識に縛られる凡夫を解放し、生きる喜びを与えてくれる宗教なのだ。今こそ、仏教の原点に立ち戻るべきでは──。本書では、元禅僧にして比較宗教学者と、“癒し”の文化人類学者が、日本仏教の再生について熱く討論。「<悟り>と<狂い>は紙一重」(町田)、「仏教は人生をリセットする教え」(上田)、「陰徳を積むという価値観を見直そう」(町田)、「“痴”と“智”の絡まりあいに救いがある」(上田)など、宗教の本質を見抜いた独自の見解をぶつけ合う。さらに、オウム事件から十年が過ぎ、日本社会と仏教のあり方を考える。それは単なる教義としてではなく、実践する仏教のあり方である。そのために、お寺を中心としたボランティアの取り組みや、家庭に仏壇を取り戻す方法なども提案。果たして日本仏教に未来はあるのか。現代人の魂に火をつける刺激的対論である。
  • 「野性」の哲学 ――生きぬく力を取り戻す

    「野性」の哲学 ――生きぬく力を取り戻す

    ビジネス・実用

    -
    1巻726円 (税込)
    現代人は人工空間に生きている。身体感覚が極端に希薄な社会では、凶悪犯罪や自殺が日常化し、魂の拠りどころも見えにくい。こんな時代だからこそ「野性」のエネルギーを解放し、根源的な生命力を取り戻さなければならない。信長の決断力、龍馬の行動力、松下幸之助の直観力等を手掛かりに喪われた「野性」の回復を訴える。
  • 前衛仏教論 ――〈いのち〉の宗教への復活

    前衛仏教論 ――〈いのち〉の宗教への復活

    ビジネス・実用

    -
    1巻748円 (税込)
    仏教といえば、「葬式」「法事」「お墓」など、死者のイメージがつきまとう。あるいは意味不明のお経、丸もうけする坊主…およそ普通の日常とは縁がなさそうだ。しかし、仏教は本来、宇宙に遍満するあらゆる〈いのち〉を慈しむ。私たちを生き難くするあらゆる束縛から解き放ち、のびのびと今を楽しむ自由な自分を取り戻す道であるのだ。本書は、二十年の長きにわたり仏道修行を積んだ後、海外で比較宗教学を修めた破天荒な宗教学者が、閉塞した日本仏教への大胆な提言を交え、その思想としてのおおらかさを再発見する試み。
  • 生きてるだけでいいんだよ : 『臨済録』自由訳による

    生きてるだけでいいんだよ : 『臨済録』自由訳による

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,232円 (税込)
    『臨済録』で、新たなジブンが見えてくる! 9世紀の僧、臨済の言葉は現代を見すえていた。36の言葉が教えてくれるのは「ジブン」のあるべき姿。NHK教育テレビ『こころの時代』に出演の著者が語る、本物の私を見つけるための羅針盤。

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  • 法然対明恵 鎌倉仏教の宗教対決

    法然対明恵 鎌倉仏教の宗教対決

    ビジネス・実用

    3.0
    1巻1,485円 (税込)
    人はいかにすれば救われるか。法然と明恵――鎌倉新旧仏教を代表する両者の思想対決は、私たちを根源的な問いへと誘う。現実か理想か。他力か自力か。そして、生と死の究極の姿とは。最新の宗教学の成果を踏まえ、2人の対決の彼方に宗教のアクチュアルな「力」の再生の可能性を探る、宗教のポストモダン。(講談社選書メチエ)
  • 人の運は「少食」にあり 「プチ断食」がカラダとココロに効く理由

    人の運は「少食」にあり 「プチ断食」がカラダとココロに効く理由

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻825円 (税込)
    元・僧侶にして比較宗教学者である著者が、宗教と道徳的側面から独特のアプローチで「少食」の効用について記しました。職業別長寿ランキングで必ず1位になる「宗教家」、自身の体験も踏まえ、その自分を律すること=「節制」が長生きに繋がることを、さまざまな観点から証明を試みています。筆者自身が行っている二泊三日の「断食セミナー」の内容とその効果についても紹介し、健康と運命は好転することを説いています。
  • あなたを救う「法然」のことば

    あなたを救う「法然」のことば

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻462円 (税込)
    「南無阿弥陀仏と称えたら誰でも極楽往生できる」──鎌倉時代、法然上人は上流階級のものであった仏教を、念仏を称えるという簡単な方法で民衆の宗教に変え、多くの人々の悩み苦しみを聞き、的確な答えを授けました。そんな法然がいまの世に生きていたら、私たちの悩みにどう答えてくれるのでしょう……。この本は法然にかわり悩みに答える形で、法然のことばとそこに込められた思いを綴る1冊です。あなたに幸せが訪れますように。
  • なぜ宗教は平和を妨げるのか 「正義」「大義」の名の下で

    なぜ宗教は平和を妨げるのか

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻770円 (税込)
    アメリカ教・キリスト教とイスラム教、終わりなき戦い!宗教・民族・領土・政治・経済の原理が世界を複雑にし、国家間や民族間対立の溝を深くする。歴史をひもとき、正義の仮面の下で宗教を歪める人間のエゴを衝く!

ユーザーレビュー

  • あなたを救う「法然」のことば

    購入済み

    今を生きる

    この本を読むことにより穏やかな毎日が得られるか否かはそれぞれの人によるかとは思いますが、様々な悩み苦しみをもって生きている我々には一つの指針となるかと思います。絶対とは言わずそれぞれの人に分かりやすく今をどう生きていけば笑顔の毎日を送れるか示しているかと思われる

    #癒やされる #感動する

    0
    2026年07月21日
  • 山の霊力 改訂新版

    Posted by ブクログ

    1320

    町田宗鳳(まちだ そうほう)
    広島大学名誉教授、「ありがとう寺」住職 1950年京都市生まれ。 14 歳のおり、家出をして仏門に入る。以来 20 年間、京都の臨済宗大徳寺で修行。 34 歳のとき寺を離れ、渡米。のちハーバード大学で神学修士号およびペンシルベニア大学で哲学博士号を得る。プリンストン大学助教授、シンガポール国立大学准教授、東京外国語大学教授、広島大学大学院総合科学研究科教授を経て、現在は広島大学名誉教授、ふじのくに地球環境史ミュージアム客員教授、都留文科大学特任教授、天台宗僧侶。研究分野は比較宗教学、比較文明論、生命倫理学。『人類は「宗教」に勝てるか』など日本語や英語の著書多数。年間を通じて「ありがとう禅」「ありがとう断食セミナー」「心のケア合宿」などを主宰。

    山岳信仰と日本人の心の文化を書き著した名著「山の霊力」(講談社選書メチエ)を加筆・修正、新章(山への祈り)を追加、写真を全て刷新するなど大幅に改訂。

    山の風景は美しい。アルプスやヒマラヤのように純白の雪をかぶって、神々しく天を突く山の姿は、おのずと人間に崇高な感情を抱かしめる。神に出会ったときの敬虔感情も、かくなるやと思わしめるものがある。

    兎追いしかの山、 小鮒釣りしかの川、   夢は今もめぐりて、   忘れがたき故郷。 如何にいます、父母、 恙 なしや、友がき、   雨に風につけても、   思いいずる故郷。 こころざしをはたして、 いつの日にか帰らん、   山はあおき故郷、   水は清き故郷。(高野辰之作詞・岡野貞一作曲「故郷」)  今や、この文部省唱歌をいつでも歌えるというのは、中高年層にかぎられるようになったのだろうか。

    それにしても日本人は実際の出身地とは無関係に、山と故郷のイメージを重ねあわせ、自分の深層心理に不思議な精神空間を構築し、そこにえも言われぬノスタルジアを覚えてきたのである。

    そのように、どこか日本人には子が母を求めるように、山を懐かしむ心情がそなわっているようだ。そのように山に親しむ感情は、やはり民族的なものらしく、現代人だけではなく、万葉人にも共有されていたことがうかがえる。

    ヨーロッパで山は魔女や怪物の棲み家ではなく、美しい自然環境であると山岳観が変わり、人々が率先して登山を試みるようになったのは、ようやく一九世紀になってからである。  このようにアルピニズムの先進国である欧米社会と比べても、日本人の山に抱いてきた親近感には歴史的な蓄積があるといえるが、そのような現象は、単に生活習慣的なものというよりは、日本人の体内の奥深くに埋め込まれた「根源的記憶」といったものに関係しているように思える。なぜ、そのように考えるのか、その理由をこれから次第に明らかにしていきたい。

     東西の山岳観においては、ずいぶんへだたりがあるようであるが、原始社会においては、洋の東西にかかわらず、山は貴重な食糧庫であった。なぜなら山には人間がサバイバルしていくうえで必要とするものが、すべて備わっていたわけだから、砂漠やサバンナに暮らしていた民族は別として、人間の山に対する依存度は相当高かったにちがいない。

    おまけに山は動く。雨の中では遠く霞んで見えた山も、雨上がりには手が届くほど近くに寄ってくる。いつの間に動いたのであろうか、恐ろしく速足である。イエスは 芥子 だね一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができると言ったが、イエスの号令を待たずとも、山は悠久の昔から地上を勝手に走り回っていたのである。

     〈原初の生命体〉である山は、まず産む力をかぎりなくもっていた。それは途方もない性欲をもち、立て続けに 孕み、そして次々と子を産み落としても疲れを知らない強じんな母体のようでもあった。そういう意味では、山のたおやかな膨らみは、妊婦の膨らみでもあった。

    おまけに山が産み落とす新しい生命は、人間がサバイバルしていくために何ひとつ欠かすことのできないものであった。それは山の分身としての動物たちだけではない。現代でも春の訪れとともに、人々はこぞって山菜摘みに出かけるが、ましてや畑を耕して野菜を栽培する生活が定着する以前の人たちにとっては、山は文字どおり無尽蔵の食糧庫であった。

    いや山菜以上にもっと大切な食糧を、山は産みだしてくれる。それは、秋になると必ず大地に落ちてくる木の実であった。ドングリ、シイの実、それに栗などは、カロリーが高いだけでなく、乾燥させたり、粉にしてしまえば、いくらでも保存がきく。とくに深い雪に覆われた厳しい冬を越さなくてはならない人々にとっては、木の実の存在は天の恵みそのものであっただろう。

     焼畑は今でもインドネシアやフィリピンの住民たちが広範囲にわたって実践している農法であり、それが近隣諸国に深刻な煙害を引き起こすことになっても一向に中止される気配がないのは、農地をもたない貧しい住民にとっては、かけがえのない生産手段だからである。シンガポールやクアラルンプールの上空にさしかかると、飛行機の窓から白くどんよりした霞が見えることがあるが、それはインドネシアの島々から流れ込んだ焼畑の煙と思ってもらってよい。

    山は食糧庫としての役割を果たすだけではなかった。なにしろ山には無限の森林資源があるのである。山から切りだした木材は、家を建てるにせよ、舟を造るにせよ、絶対に必要な貴重な資材だった。さらに加工された木材は宗教儀礼で大事な役割を果たす楽器にもなったし、剥がれた皮が衣料になることもあった。アイヌも、オヒョウやハルニレの樹皮を剥ぎ、それを温泉に浸けてから繊維をとり、アトゥシという見事な着物を作る。

    おそらく古代人は、森林を山という大きな動物の毛皮のように受け取っていたのではないか。羊の毛のように刈り取っても刈り取っても、生えでてくる森林。こんな素晴らしい贈り物を与えてくれる山の産みの力に、人々はおのずと敬服せざるを得なかったであろう。古代の人々にとって、山は限りなき産みの力をそなえもつ素晴らしい動物だったのである。現代人は週末になると郊外にある大型スーパーマーケットに出かけて、食料品から家具まで一括購入できる、その便利さを重宝がるが、古代人にとっては、山がその役割を果たしたと考えてよい。山は、人間が必要とするありとあらゆるモノを産み続ける〈原初の生命体〉にほかならなかった。

    しかし、いながらにして世界の霊山の神秘に触れさせてくれる白川の作品に、最大の敬意を表した上で発言するのだが、飛行機に乗り、神の 磐座 を眺め下ろすというのは、山岳信仰の観点からは、一種の冒瀆的行為のような気がしてならない。

    それとは対照的に詩人宮沢賢治が、山の 頂 に小さな太陽が浮かんだ「日輪と山」という不思議な水彩画を残している。山の端 に太陽が昇り、そして沈むのを麓から眺めた、あの構図こそ古代日本人が山に抱いてきた宗教感情を如実に表現しているような気がする。太陽は山の懐から現れ、山の懐に隠れてゆく。山と太陽は同じ〈いのち〉を分かち合っているのだ。 種山 ヶ原や岩手山は賢治の〈物質的想像力〉の供給源となっていたと思われるが、彼の四次元的世界では山と太陽が親子のように結ばれていたのだろう。

    ここで大切なことに気づかねばならない。それは古代社会に生きる人々が、現代人のわれわれと根本的に異なっていたのは、天動説を信じて疑わなかったことである。地球が丸いという知識を持たなかった人々の眼に映っていたのは、山の向こう側に浮き沈みする太陽ではなく、山そのものから生まれ出で、ふたたびそこに回帰していく太陽であった。つまり彼らにとって、山は人間生活に役立つモノを産み落とすだけでなく、真っ赤な炎の玉を吐きだし、呑み込むことのできる不思議な動物だったのである。

    山は人間の母でもある。モノも太陽も飽くことなく産み続ける〈原初の生命体〉が、人間の命をもこの地上に産み落とさなかったはずはない。古代日本人が信じた創造主は、天にいます父なる神でなく、地にいます母なる山だったのである。その証拠に、日本の民俗信仰における山の神と 産 の 神 は、同義語といってもよいほどの近さに置かれている。

    妊婦が寄りかかる 藁 の枕は、山の神が座る場所でもあったし、出産直後に炊きだされる産立て飯は、山の神の労をねぎらうためであった。食い初め式で、赤子の祝い膳に必ず添えられる小石は、山の神の 依り 代 であると同時に、赤子の頭が石のように固くなってほしいという祈りが込められていた。幼児の死亡率がきわめて高かった時代に生きた里人にとって、山の神は出産から育児まで母子を見守ってくれる心強い味方だったわけである。

    またクマが山の神と信じられていた地方では、クマの内臓の一部を乾燥させて、妊婦の腹帯の中に含ませたりした。そうすることによって、山の神が安産をもたらしてくれるという信仰があったからである。

    ところで、母なる山は限りなき産みの力をもつが、それと同時に、命を容赦なく奪い取る悪魔的な側面も備えている。このことは登山に親しむ者なら、すぐに理解できるだろう。神々しくも美しい山の魅力に取り憑かれて、人々は今日も山に入っていく。山の魔性に狂おしく魅せられずして、山を愛するということは、あり得ない。登山家は、いくつになっても恋愛感情を涸らすことのない、永遠の青年なのだ。

    あれだけ惜しみなくモノを与え続けてくれた山が、その一方では、人間の存在を容赦なく破壊しつくす。山の魔性は圧倒的な破壊力となって人間の前に立ちはだかり、それゆえにこそ人々は山に対して冒しがたい威厳を感じ、畏怖の念を抱くようになったのである。別な言い方をすれば、人々が山の恐ろしさというものを身に沁みて感じ続けているかぎり、つねに山は崇高なものとして仰がれることができたのである。

    また、たとえどんなに穏やかな姿をしている山であっても、もしそこに日没後、ただ一人残されるようなことがあれば、人はとたんに、山がそれまで決して見せることのなかった不気味な魔性に包まれて、思わず震え上がるであろう。

    漆黒の闇の中、どこから来るともわからない不気味な物音に起こされると、動物の眼か、はたまた妖怪の眼か、ギラギラと鈍く光って、こちらを睨んでいる。いかに腹のすわった人間でも、思わず鳥肌のたつ思いをするのが、夜の山である。私はむしろ、そのような山が秘める得体のしれない不気味さにこそ、山の本質があるのではないかと考えている。

    神学者ルドルフ・オットーは『聖なるもの』という本の中で、人がヌミノーゼ(聖なるもの)に抱く感情には、圧倒的な神に対して、思わず身震いをともなう畏怖(tremendum)と、うっとりと引きつけられるような魅惑(fascinans)の相異なる要素が混在していると指摘した。  このようなアンビバレントな感情は、まさに人間が産みの力と破壊の力の双方を備えている山に対して抱くものと同質であり、日本という風土の中で最初に芽生えた宗教感情が、山と切っても切れない関係にあったことが、ここでも納得されてくるのである。

    ところで、吉野裕子が『蛇』の中で、専門家から聞いた蛇の生態を詳しく報告しているが、元気のいい蛇は、うずたかくトグロを巻くそうである。たしかにトグロというのは防衛にも攻撃にも最適の蛇の基本的姿勢といってよさそうであるから、生命力のある蛇が、しっかりとしたトグロを巻くというのは、なんとなくわかるような気がする 11。

    そして狩りや採集を通じて蛇の百態を熟知していたであろう古代の人々が、円錐形の姿のよい山を、トグロを巻いたオロチに結びつけたとしても、少しも不思議ではない。日本にはコニーデ型、あるいは 神奈備 型とも呼ばれる山が、大は富士山から、小は神社の境内にある盛り砂まで多数存在することを思えば、山岳信仰の初期の形態が本質的には蛇体信仰であったことも、おのずから理解されてくるのである。

    全国的にハヤマと呼ばれる標高が比較的低い山が存在するが、それらの山々もたいていは円錐形であり、そこにいわゆるハヤマ信仰が伝わっている。ハヤマはふつう羽山、端山、葉山などとつづられるが、吉野裕子によれば、それらは本来、蛇山(ハヤマ)のはずであったとしている 14。

    前章で山には子宮があると書いたが、じつは頭もある。しかもそれはオロチの 頭 であった。後世の神道では、山頂周辺の岩石が露出している部分を、 磐座、 磯城、 磐境 という名で呼び、神の降臨する場としているが、大陸から天孫降臨説がやってくる以前の日本では、ゴツゴツとした山の頂は、オロチの頭にほかならなかった。

     ところで山の祭りには奇祭が多く、とくに火が登場するものが多いが、じつはそのことも大いにオロチと関係している。なぜなら神話の世界では、火こそオロチの血にほかならないと考えられていたからである。  たとえば、火の神カグツチもツチという語句から、蛇体神であったことを匂わせるが、イザナギは妻イザナミを死に追いやったカグツチに怒り、彼をめった切りにした。そのとき、カグツチの体からほとばしり出た血が、まわりの草や木、石の中にしみ込んで、火になったとされている。

    毎年二月六日に営まれる熊野新宮の 御 燈 祭 では、 神 倉 山 の中腹に突き出るゴトビキという巨岩の前で「火起こしの神事」が営まれ、大 松明 に点火されるが、あれはまさに石の中に火があるという神話に起源をもつものであろう。ゴトビキのヒキは、ガマのことだとされているが、私にはオロチの頭に相当するように思えてならない。

    火祭りの火がオロチの血だとすれば、今も全国各地に広く分布する火祭りを最初に始めたのも、恐らく焼畑耕作民であろう。彼らこそが火がもつ産みの力を自分たちの体験を通じて、最も直接的かつ具体的に理解していたわけだから、火祭りは彼らの手によって始められたと考えるのが妥当である。

    火祭りには、さまざまな形式があるものの、一般的に共通しているのはドンド焼きや松明で火をたくことと、その火で餅を焼き、参加者がこぞって食べることである。その神聖な火にあたるとか、あるいは焼き餅を食べるとかすれば、その年は風邪を引かなかったり、子供を授からなかった女性が妊娠したり、いろいろとありがたいご利益があると信じられている。〈いのち〉の火には、生命力がみなぎっているわけである。  また火には悪霊を 祓う浄化力があると信じられてきたので、農耕とは無関係に、正月に行われる火祭りもある。その土地に集結した悪しき物どもを年頭に焼きつくしておき、自分たちの身に災いが降りかからぬように祈るわけである。

    もう一つは、セクシャリティーの問題である。男が裸体をさらすような祭りでは、ほとんどの場合、女性の直接参加は許されていない。場合によっては、祭りの最中に男性は女性の体に触れることさえ忌み嫌う。祭りに参加する男たちは、数日前から妻と床を同じくせず、肉食を避け、精進潔斎のための物忌みに入る。  限りなき産みの力をもつ山の主オロチは、メスの帝王なのである。その壮大なるメスを祝福し、喜ばせ、さらなる産みの力を引きずりだすためには、男たちはみずからのオスの部分を最大に発揮して、山の神に接近していかなくてはならない。威勢のいいかけ声も、興奮でピンク色に上気した肉体も、まさにメスとしての山の神を 寿ぐための最良の贈り物なのである。

    この話はまだ続くのだが、ここでも注目すべきことは、子供の出産という一大事を迎えるとき、女性が自分だけの秘密の聖空間に閉じこもらなくてはならないことである。最近でこそ夫が妻の出産に立ち会うことは、家族の絆を強めるとして医師からも推奨されるようになってきたが、古代社会では、そのような行為は恐ろしいタブーであった。

    出産以外にも、「鶴の恩返し」の物語にあるように、布を織るなどの生産活動をするときも、女性は〈見るなの座敷〉に閉じこもって、本来の姿に戻る。この世でいちばん重要な創造的仕事を成しとげるためには、心理学でいうペルソナ(仮面)をぬぎ捨てなくてはならないのだ。建て前の世界では肝心なことができないのは、男も女も同じらしい。

    ただし巨木信仰には、山の神オロチヘの畏怖の念だけでなく、古代社会における性器崇拝の要素も含まれていると思われる。とくに曳建ては、境内の四隅に巨大な御柱を参加者全員が縄を引っ張り、垂直に立ち上げる勇壮な神事であるが、その様子から連想するのは、勃起する巨大な男根である。  現に曳建てでは、男たちが我先に御柱の上に跨がり、それが垂直に立ち上げられるときも、振り落とされないように必死にしがみつく。男たちは、オロチがもつ果てしない生殖力をわが身に注ぎ込み、絶倫の精力を手に入れようとしているかのようである。  つまり脱皮を繰り返しながら、しぶとく生き続けるオロチの執念深さと、勃起し続ける男根の生命力への強い畏敬の念が、巨木信仰にこめられているのである。伸縮自在の蛇の形状が、男根のイメージに結びつけられることになったとしても、少しも不思議ではない。

    性器崇拝は、ほとんどすべての原始宗教に必ずといっていいほど見いだすことのできる要素であるが、ここで指摘しておきたいのは、人々は性器そのものを拝んでいたのではないことである。彼らが大切に思ったのは、性器を媒体として人間界に突出してくる〈いのち〉の無限性であり、それを神のごとく尊いものとして、拝んでいたのである。

    伊勢神宮にある〈生命の樹〉とは、正殿の下に祀られている「 心 御 柱」のことであるが、それを眼にすることができるのは、神宮の神官でもごく限られた人だけだろう。それは直径約三〇センチ、長さ約一・八メートルのヒノキの棒で、ご神体の鏡の真下に位置しているとされている。一説によれば、かつて「心御柱」は現存のものより、はるかに大きかったそうであるが、内宮では完全に地中に埋められ、 外宮 では半分以上が地上に突きでている。この「心御柱」は 神嘗祭でも遷宮祭でも中心的役割を果たし、遷宮のたびに新しいものと取り換えられる。

    私も子どものおりに、京都の鴨川べりで遊ぶのを常としたが、夏の間に土手の草むらで遭遇する蛇の多さには、圧倒されるものがあった。今でこそ、日本中の河川敷はコンクリートで固められてしまい、蛇を目にすることは、めっきり減ってしまった。蛇はともかく、ホタルもメダカも日本の川からすっかり姿を消してしまったことは、まことに残念な話である。また子どもの頃、夜になると天井裏を這いずり回る蛇の音を聞いた人も少なくないと思われるが、そのようにごく最近まで日本人はさまざまな種類の蛇と生活空間を共有していたのである。

    ところで、交尾するオロチヘの畏敬の念が表現されているのは、シメ縄だけではない。今では人気スポーツの一つとなっている綱引きが、それである。日本全国の祭りの中で、伝統的な綱引きが継承されているところは多いが、そのごく一部を紹介してみよう。

    ところが母性には、子供を産み育てるのとまったく反対に、子供を喰い殺そうとする恐ろしい性格が秘められているのである。ちかごろの日本では、自分の子供でも殺してしまう母親が増えてきたが、ふつうわが子に対して攻撃的な態度をとることはまれである。

    母親の真の恐ろしさは、たいてい溺愛や過保護という形で現れてくる。とくに母系性病理社会とも呼ばれる日本では、そのような過干渉の母性の犠牲となって、精神的に骨抜きにされた人格が形成されやすい。

    現代の日本で、太古にあった神社の原型を見たければ、沖縄地方に多数存在する 御嶽 を訪れるとよい。一般的に、御嶽にはきわめて簡素な鳥居と拝殿だけがあり、その奥にある最も神聖な空間である 奥津城 は、しばしば白砂が敷き詰められ、石垣で囲まれている。それは神社の神垣に相当すると思われるが、岩や樹木以外には何もないその空間は、目に見えない何ものかに充たされているがごとくに、不思議な神聖感が漂っているものだ。

    人々は、海原のはるか遠くにある永遠の国ニライカナイから、そこにやってくる海の神、水の神、火の神、土の神などに真摯な祈りを捧げる。その祈りができるのは、ツカサと呼ばれるセジ(霊格)の高い巫女を中心にした村の女性たちだけである。そのような儀式を見ると、 邪馬台国 の 卑弥呼 も、ツカサ的な役割をもっていた女性ではなかったかと思えてくる。ともかく御嶽に見られるように、鳥居、拝殿、神垣の三点セットが、初期の神社の形態であろう。

    日本人はご来光 を拝むのがやたらと好きだが、あれも太陽を崇めた弥生人の血が騒ぐからかもしれない。ご来光を迎える場所として最も人気のあるスポットの一つが、伊勢の 二見 ヵ 浦 である。昔の人はその海辺に身を浸し、 禊 をした上で、 夫婦 岩 の間から昇る太陽を拝んだのである。今も 二 見 興 玉 神社に参拝した人たちが、輪ジメ縄という円形のシメ縄を奉納する行為には、太陽神をことほぐ意味が含まれている。

    さて日本を代表する神奈備山となれば、純白の冠をかぶった富士山(三七七六メートル)をおいてないだろう。この山は高さだけではなく、日本一秀麗な姿をもつ山でもあり、葛飾北斎から梅原龍三郎まで、富士山は日本絵画史の中で最も頻度の高い画題のひとつとなってきた。それだけではない。街角から急速に姿を消しつつある銭湯のタイル画のモチーフとしても、富士山はたいへんな人気を博してきた。風呂好きの日本人が湯に浸かりながら眺める風景としては、富士山がいちばん心に沁みてくるのかもしれない。

    日本列島最古の集落跡とされる静岡県 大鹿 窪 の 窪 A遺跡は、旧石器時代直後の縄文草創期に属するが、そこに暮らしていた縄文人も富士山を特別な思いで眺めていたことが判明している。なぜなら環状に並んだ竪穴住居跡が、富士山の見える北東方向にのみ、存在しないからだ。代わりに、そこには大小の石を同心円状に三重に並べた祭祀跡が発見されている。あきらかに富士の高嶺を遥拝しながら、何らかの祭儀を行っていたのである。

     私は以前から、山には人間性を根本から変容せしめるエロスがあるという持論をもっている。エロスとはギリシア神話に登場する神の名であるが、エロス神は地上的な美から神的な美へとみずからの変貌を遂げながら、人間の魂をさらなる高みへと導いていくことができるとされている。山にも、それと同様の働きがあるように思われるのだ。

    誰でも経験した人は、よく知っていると思うが、夜の山ほど無気味な世界はない。それはいわば渾沌未分の世界であり、底なき闇に包まれている。近くに民家でもあれば別だが、深山幽谷の静寂をたたえた闇となれば、よほど腹の据わった人間でなければ、耐えられるものではない。

    ましてや一昔前まで、日本の山には狼が生息していたわけだから、真夜中にギラギラと眼光を光らせている動物たちに遭遇するたびに、身の危険を感じたであろうことは想像にかたくない。そういえば私の知人にも、一二年籠山行をやってのけた天台僧がいるが、夜の山中で一番恐ろしいのは、自殺者の死体と野犬の群れに遭遇することだと言っていた。  しかも回峰行者は修験者と異なって、単独行である。回峰というのは、山を登る行為ではあるが、じつは生の根源にある死の闇とでもいおうか、カオスの世界に、我が身ひとつで迫っていくことを意味した。これほど孤独な行為があるだろうか。

    さて女人禁制の問題であるが、現代でもそれが頑に守られている場所として有名なのは、相撲の土俵である。時代遅れの掟を撤廃すべきだという意見と、伝統を守るべきだという意見に、まだ結論が出ていない。

    歴史学者の脇田晴子は、「そもそも平安時代までの日本に女人禁制という文化はなく、一般化したのは江戸時代中期。ちょうど被差別民が排除されていった時代と同じで、病になるのを恐れ、死や出産、生理を不浄のものとする、科学が未発達な時代の思想だ」と説いている。  女人禁制が是か非か、男と女がそんな喧嘩腰にならなくても、日本人の個人性(individuality)がもう少し成熟すれば、おのずと結論は出てくるというのが、私の意見である。

    それは白山には毒蛇が多く、人が咬まれることを恐れた泰澄が、一〇〇〇匹の蛇を捕まえて、山頂近くの池に封じ込め、雪で蓋をした。夏が来て雪が溶けそうになると、池の上にある「 御 宝庫」が崩れ落ちて池の蓋となるようにしたという話である。豪雪地帯の北陸にある白山に毒蛇が多いという事実は信憑性がなく、これは何度も繰り返される洪水を鎮めるために、泰澄が祈願したという意味ではなかろうか。

     天を突くような険しい山を仰ぎ見て、そこに何かしら崇高なものを覚えるのは、もちろん日本人にかぎったことではなく、人類に共通した感覚であるといってよい。たとえばエベレスト(八八四八メートル)は、サンスクリット語でサガルマータというが、「大空の女神」を意味する。筆者自身もベースキャンプまで登ったことのある美しい山アンナプルナ(八〇九一メートル)は、「豊穣の女神」である。ネパール人にとっても、山のヌシは女神だったのだ。

    そのすぐ隣に聳え立っているマチャプチャレ(六九九三メートル)は、さしずめヒマラヤの高千穂峰といった霊山であるため、ネパール政府が登山許可を与えていない。人間の足が踏み入れていない山は、気のせいか、よけいに崇高に見えるが、古代日本でも大半の山々が未踏峰だったわけだから、人間の眼には今よりもはるかに威厳に満ちた存在に映っていただろう。

    登山家は処女峰があれば、「そこに山があるから」と言ってヒラリー卿のように初登頂することに情熱を燃やすが、山岳周辺の宗教文化を愛おしむ者にとっては、未踏峰の山が一つや二つ地球上に残っていてほしいような気がする。地球上のすべての空間を人間の足が踏み締めなければならないという理由は、どこにもないはずだ。

    韓国にも慶州の 南山(四六八メートル)のように、新羅時代から信仰の対象となってきた霊山がある。私は日本が木の文化なら、韓国は石の文化だと以前から考えているのだが、南山にもあまたの石仏や石塔がひしめいている。韓国のシャーマンである 巫 堂 も、南山を聖地として崇めている人が多い。

    その代わり、産業技術においては目覚ましい貢献を残している。つまり日本人は、抽象的な理論よりも、具体的なモノ作りにおいて、 俄然 強みを発揮するのである。一言でいえば、日本人は徹頭徹尾、具象の民なのだ。

     山に暮らす 木地師 が見事に美しく、しかもきわめて実用的な木工品を作りだしたように、近代産業社会においても、日本人はモノ作りにおいて、その才能を最も美しく開花させることができた。戦後経済の奇跡的復興も、日本人がその特技を活かしたからこそ可能になったといえる。

    日本人は思惟を深めようとするときも、まずモノを作りはじめ、その思惟した結果を表現しようとするときも、またモノを作りはじめる。それはロダンの考える人のように頭をかかえこんで思惟する〈アタマの哲学〉ではなく、手先を動かしながら思惟する〈手の哲学〉なのである。

    このように日本人を具象の民に育てあげたのが、山という具体的な神の姿にほかならない。この国における山の存在を正確に把握することが、日本人やその文化を正しく理解する契機となることを、ここで改めて強調しておきたい。それにしても、同じ地球上に生きる人間同士であっても、どのような神を信じるかによって、その集団が生みだすことになる文化や社会の形式が、かくまで決定的に影響を受けることに驚かざるを得ない。

    いってみれば、つねに山に向かいあって生きてきた日本人は、この世に存在するありとあらゆるものを、物理現象としてではなく、生命現象として理解しているといえよう。それを生物学的コスモロジーと呼んでみたい。  すべての生命は一刻も静止することなく、誕生、生育、成熟、衰弱、死滅というサイクルを繰り返すが、その変化自体が、大きな〈いのち〉の流れに包含されている。そのような生物学的コスモロジーが基盤にある社会では、存在するものが有機物か無機物かということとは無関係に、すべてが生き物としてとらえられる。それは一種のアニミズムともいえるが、現代人の心理構造では、必ずしも宗教性をともなっているとはかぎらない。

    日本文化は受け身の文化であるといわれたりするのも、社会現象ですら、自然現象的な感覚で受け止められ、それを意志の力によって能動的に変えていこうとする心理傾向が弱いからではなかろうか。日本人の自我が、とかく集団に埋没してしまい易いのも、生命体として受け止められている個の輪郭が極めて曖昧であり、個と集団の間に明確な距離を置きにくいことに一因があるのかもしれない。  組織運営においても、一人の人間の強固な意志力で他者を力まかせに押さえ付けていくというよりも、全体の和を乱さないことを重視し、じわじわと組織に意見が浸透していく時間を持とうとするのは、生物学的コスモロジーをもつ社会ならではといえる。

    反対に西欧世界では「はじめに光あれ」(「創世記」)と父なる神が命じることによって、天空から光が差してくるという物理現象から宇宙創造が始まったことになっている。全智全能の絶対神という父性原理が、最初に絶大な力を行使し、そこから物事が動きはじめたわけである。  そのような物理学的コスモロジーをもつ世界では、個体の力と力が激しくぶつかり合ったり、バランスをとりあったりして、世界秩序が維持されていく。リーダーシップの所在も明確である。力の強いものが、力の弱いものを凌駕し、自分の世界を広げていく。  そのようなモノの動きには、一定の法則性があり、原理原則を設定しやすい。近代科学が物理学的コスモロジーをもつ西欧世界で最初に誕生…

    われわれが山に入っていくのは、「山のエロス」と交合し、本来、身体にそなわっている〈野性〉を回復したいという潜在的な願望があるからである。〈野性〉を取り戻した身体の細胞は、外界に向かっていよいよ開かれていき、新鮮な空気の匂い、走り抜ける風のざわめき、澄み切った水の色が体内に染み込んでくる。物言わぬはずの木々ですら、何か語りかけてくるように感じられるのだ。山歩きが楽しいのは、われわれの身体そのものが朗らかになっているからだ。

    われわれの大半は、文明生活の快適さを享受するうちに、すっかり身体感覚を閉ざしてしまっている。空調の効いた部屋でほんとうの寒暖を体験することも、肉体労働によって汗をかくこともしなくなった都会人は、自然への感受性どころか、すぐ隣に坐っている人間への感覚すらもたない。奇妙な人物が自分の心をふいに横切ることのないように、感情の遮断機を下ろしてしまっているとでも言おうか。人間がひしめき合っている都会の中では、自己防衛のためにおいそれと身体感覚を開くわけにはいかないのだ。

    そのような宗教的な意味合いをもった山に、スポーツとしての登山を始めた人たちが登場した。一九〇五年に創立された日本山岳会がその草分けであるが、面白いことにそのメンバーの多くが、日本を代表するようなインテリであった。  ちょうどヨーロッパのアルピニストたちが、中世の迷妄に包まれた山々を踏破したように、日本における近代登山の先駆者たちも、合理精神の持ち主であり、霊山にまつわる迷信俗信に躊躇することなく、次々と日本の山々を登りつめていったわけである。

    そこには功罪、相半ばするものがある。アルピニストたちが、一切の宗教色抜きに個人の意志力と体力を試すために淡々と山を登ってみせてくれたおかげで、山はもはや一部の宗教家たちの霊場であることを止めて、健康な者なら誰でも参加できる行楽地と化したのである。山の民主化である。  その一方で、神も仏も魑魅魍魎も等しく 蠢いていて、平地に暮らす人間の生活を意味づけてきた山は、一切の神秘性を失い、自然の一情景として人間から対象化されることになった。山がコスモロジカルな意味をもつ神話的空間であることを止めたおかげで、近代日本人はそれまで自分たちの生活をさまざまに規制してきた蒙昧な迷信から解き放たれることになった。山が、非神話化されたのである。

    山が民主化されたり、非神話化されたりするのは、文明の流れであって、それに抗える者はいない。私は迷信の復活を叫んでいるのではない。過去の宗教色いっぱいの山岳文化のほうが、現代のスポーツ化した登山文化よりもベターであったとも思わない。無理のない登山が健康維持に役立つことは、誰もが痛感するところである。  近代登山をきっかけとして、山にかぶせられていた神秘のベールがあっけなく取り払われ、べつに山に入っても、天狗に攫われるわけでも、山姥に取って食われる心配もいらなくなった。ましてや山の神の怒りを怖れて、さまざまなタブーを守るために…

    まさか山の美をこよなく愛して近代登山をはじめたアルピニストが山の破壊に手を貸したとは言わないまでも、山を対象化させた彼らにまったく罪がないことはない。何者の手によっても破壊されることのない〈原初の生命体〉であったはずの山が、いったんモノとして対象化されてしまうと、ダイナマイトやブルドーザーで、いとも簡単に破壊されるようになった。人間は、山に挑戦し、山を屈服させるだけの土木技術を手に入れたのである。…

    そのために、日本中の山々で太古の時代から生き延びていた原生林が、どんどんと切り倒されることになってしまった。本書で取り上げた霊山の中にも、無惨に山肌を抉り取られたり、醜悪な建物に覆われたりしたところも少なからずある。かつては、あれほどまでに謹厳な態度で山に向かった日本人が、どうしてかくも無思慮かつ無慈悲な行為をなし得るようになったのか、首をかしげざるを得ない。

     同じ山を何度も繰り返し登るのは退屈極まりないと思うのは、人間の不遜である。同じ山を何度も登ることによって、異なる風景の発見があり、異なる自己との遭遇もあるはずだ。  本章で触れた山岳写真家の大山行男氏は、富士山麓一帯の森に三百六十五日入って飽きることがないそうだ。なぜなら、山の気配は季節、天候、時刻によってダイナミックに変化するからだと言う。同じ山を飽きることなく繰り返し登ってこそ、そういう発見が可能となるのではなかろうか。  私は瞑想を専門とする人間だが、瞑想においては「反復」がキーワードとなる。同じマントラ、同じ呼吸法を一定時間、反復することによって、意識はどんどん深化していく。スポーツでも、ハイになり、フローになり、最終的にゾーンに入っていくためには、同じ行為を集中的に反復しなくてはならない。そんなことは、スポーツに没頭したことがある人間には、体感的に理解できると思う。

    このような感覚は深い瞑想に入ったときにも経験することがあるが、山は人間の意識を変容させるだけの不思議な力を備えている。山が光れば、うちなる心の山も光る。ということは、山の破壊が人間性の破壊へと帰結していく可能性だってあるわけだ。

    広大無辺の宇宙そのものが永遠の〈いのち〉であるとすれば、宇宙の一角で蠢いている小さな地球にも、永遠の〈いのち〉が刻々と脈打っているのであり、それをもっとも直接的に表現しているのが、山なのだ。つまり山は、極めて限られた感覚機能しか持ち合わせない人間が、永遠の〈いのち〉を感じることができる神聖空間なのだ。

    山には山の心があり、意思がある。山が突如として噴火したり、崩落したりするのは、地質学的な自然現象であるとしか考えることができなくなった私たち現代人の唯物的感性が問題なのだ。日本列島には、幾多の活火山が存在するが、どこの火山がいつ爆発するか、現代の先端的火山学の見地からも、正確には予測不可能である。それは、個々の山には個性があり、独自の意思があるからだ。同じ気象状況にあっても、土砂崩れを起こす山と起こさない山が同じ地域に存在している。それも、それぞれの山にそれなりの意思があるからだ。

    祈りは、できれば一つに限定したほうがいいかもしれない。同時に二つ以上の願望を持ってしまうと、祈りのフォーカスがぶれてしまうからだ。神棚や仏壇の前に静かに佇み、経典を読み上げることなどには、まったく無関心な人間であっても、風光明媚な山を黙々と登ることならできるのではなかろうか。それを祈りとするのである。

    病身の家族の健康回復を祈る。わが子の幸せを祈る。事業の成功を祈る。何か一つの思いを強く抱いて、山に入るのだ。そうすれば、汗を掻きながら一歩一歩、山道を踏みしめていく行為が全身全霊の祈りとなる。  世界の宗教には、まさに無数の祈りの形態が存在する。祭壇の前に跪くだけが、祈りの形ではない。滝に打たれたり、食を絶ったりすることも祈りだし、時には歌うことも踊ることも真摯な祈りとなり得る。今ではエンターテインメントのように受け止められているハワイのフラダンスやスペインのフラメンコもまた、祈りの全人格的表現である。かつて部族の宗教儀礼だった時、踊り子たちは振り付けの間違いを犯したりすると、厳しく罰せられることもあったと聞く。神に捧げる祈りに、粗忽さが許されなかったのである。

    その証拠に、ヒマラヤや富士山のようにプロやアマチュアの登山家がひしめく有名な山には、ゴミが散乱している。大自然に親しむつもりで山に入ったにも関わらず、まさに山に唾を吐くような行為である。そんな浅はかな行為に何ら羞恥心を覚えることのない人間にかぎって、下山後、自分は世界的高峰を制覇したと他者に自慢するのではなかろうか。それではエゴを膨らませるために山に登っただけであり、そこに一抹の敬虔感情を見いだすこともできない。

    山は祈りの場であると同時に、大自然の威力を目の当たりにした人間がみずからの卑小さを自覚し、どこまでも謙虚であることを学ぶ精神修養の場でもある。もしも山に登れば登るほど、自身の体力と精神力の強靭さを誇り、他者に対して傲慢さを見せる人間がいるとしたら、それは山に対する最大の冒涜であり、登山家の称号にもっともふさわしくない人間と言わざるを得ない。

    悲しいことに全国各地の山で目撃することだが、山中にゴミの不法投棄をするなどもってのほかだ。そういう不埒な行為をして平然としていられる人間が、一切の幸運から見放されるのは、火を見るよりも明らかではなかろうか。公衆道徳の観点から、そのように考えるのではなく、神聖空間である山の霊力を損ねることは天罰に値するからだ。山はそこにあるだけで十分な霊力を発しているが、人間の意識の持ち方次第で、その貴重な霊力が消滅することだって十分にあり得る。

    一方的な決めつけとして発言するわけではないが、山の霊力に対して敬虔感情を欠いた時、遭難の危険性が増大するような気がしてならない。日本国内だけで、毎年二〇〇〇件以上の遭難事件が発生し、そのうち三〇〇名前後の人たちが死亡したり、行方不明になったりしている。やむを得ない状況で不幸にも遭難した人たちもいるに違いないが、入山前に山に対して、もう少し敬虔な気持ちを抱くことによって、回避し得る遭難が大半ではなかろうか。

    むしろ人跡未踏の地をできるだけ多く地球上に残したほうが、人間の想像力が豊かになるだろう。夜空に浮かぶ月を素朴に見上げていた時代には、兎が餅つきをしているというようなファンタジーを人々は楽しむことができたが、アポロ計画で人間が月面着陸を達成し、そこがゴツゴツとした岩に覆われる潤いのない世界であることを目の当たりにして以来、いかなる想像力も駆り立てられなくなった。

    どこにでも足を踏み入れ、すべてを見尽くそうとするのは、人間のエゴイスティックな貪りではなかろうか。「見るなのタブー」を犯したために大きな損失を被るというのは、世界の神話や民話に共通するモチーフである。それだけ普遍性のあるモチーフとなっているからには、そこに過去の人類が経験則から学んだ知恵が凝縮されているはずだ。見なくていいものは、どこまでも見なくていいのだ。先ごろ、世界遺産に指定された玄界灘の沖ノ島は、宗像大社の神領として厳しい上陸制限が布かれている。私は日本各地で古来、信仰対象となってきた霊山の山頂付近は、今からでも入山制限をしてもよいのではないかと考えている。現代における〈見るなのタブー〉の創設だが、そのことによって日本人の情緒が、かえって深まるような気がしてならない。

    少し前に「山は無言だ」と書いたが、本当のことを言えば、山は無言どころか、大いにお喋りなのだ。「山鳴り」という言葉があるように、山はむやみと音を立てる。土砂崩れがある前兆として不気味な地鳴りがすることは、よく知られているし、雪崩が起きる直前なども必ず「ワッフ音」という静かな音を出すと言われている。

    科学者、作曲家・大橋力著『ハイパーソニック・エフェクト』(岩波書店)よれば、森林には可聴域をはるかに超えた超高周波音が含まれており、それが皮膚から体内に入り、骨伝導により脳深部を活性化させ、心身の健康に貢献するという。森林浴で人が癒されるというのも、肺を新鮮な空気で満たすというだけではなく、そのような超高周波音を全身に吸収することが出来るからだ。

    そんな科学的裏付けを持ち得なかった時代の人々も、山の声を大いに楽しんでいたことは言を俟たない。中国宋代の詩人・蘇東坡は山に入って、次のような詩を詠んでいる。 渓声便ち是れ広長舌 山色豈清浄身に非ざらんや 夜来八万四千の偈 他日如何が人に挙似せん  谷川のせせらぎの音は、まさに仏陀が説教しているようなものだ。  山肌の色も、清浄なる仏身そのものと言える。  夜通し聞こえて来る山の音は、仏陀が詠む無数の詩のようだ。  この感動をどのように人に伝えていいか、私は分からないでいる。

    野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしはなりたい  私たちが山から学ぶべきは、このようなデクノボーであり続けることの喜びだ。山が祈りであり、山行もまた祈りであることを噛みしめながら、今日も真摯に山に向き合いたいものである。

    山は、賽銭の要らない霊場である。

    山には、〈いのち〉がある。その〈いのち〉は、天を突く巨岩、何世紀も生き抜いてきた老木、人間の手によって飼い馴らされていない動物の姿などをとって、私たちの眼に具体的に飛び込んでくる。いや、そんなものが何も見えないほどの白濁の霧に包まれたなら、それはそれで濃厚な〈いのち〉を感じさせてくれるだろう。現代人の最大の弱点は、生命感覚がすっかり鈍ってしまっているところにある。だから誰しも、ときどきは山に入って、〈いのち〉の充電をする必要があるのではなかろうか。

    田園にいれば、私の不幸な聴覚も私を苦しめない。 ここでは一つ一つの木々が私に向かって、「お前は神聖だ、神聖だ」と語りかけるようだ。 森の中の歓喜、恍惚! 誰がこれらの崇高な出来事を表現できるだろうか。  と日記に書き留めたのは、誰だろうか。じつは、あのベートーベンである。

    本書は、講談社選書メチエシリーズで一三年間も版を重ねてきた『山の霊力』に新たに加筆し、新生版として刊行されることになったものである。長い歳月の間に、私の山に対する考え方にも新視点が生まれ、それを第七章にまとめさせてもらった。高い山には登らなくとも、今も相変わらず山行は続けている。私にとって、山が限りなき学びの場であることには変わらない。

    絶版となり、本来なら書店の棚から消えてしまっていた本書を再発掘して下さったのは、山と溪谷社の編集者・高倉眞氏である。自著ながら、その内容に心惹かれるものが多かった本書が高倉氏との稀有な出会いによって、新たな読者の手元に届くことになったのは無上の喜びである。

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    2024年03月12日
  • なぜ宗教は平和を妨げるのか 「正義」「大義」の名の下で

    Posted by ブクログ

     宗教家である町田氏は、世界で起きている宗教にまつわる武力紛争などを直視しつつ。最後には『もし宗教が真理や正義というまことしやかな表現で「とらわれ」を説き続けるかぎり、われわれは毅然たる態度で、その宗教を踏み越えていかなくてはならない。神にはたった一人で立ち向かえ。』と説く。
     無論、この事がテロの犠牲者の方々、そしてそのご家族を慰謝するには物足りないかもしれない。しかし、宗教を「客体」として捉えている限り、不毛な二元論的論争・闘争から我々は脱却できないのだと思う。
     恐らく、イギリスではテロ対策として宗教指導者への国外退去処分などの措置が採られる事になり、それに対する反発や、新たなテロの惹起が懸念される事態となろう。
     かつては国家という幻想が、実像を伴って人々を支配していたが、今は国境の概念さえ薄れ、宗教は空間を越えて伝播する。それを批判し、対処しようとしても、そこに対象は見えない。確かに、テロの犯人は実在し、どこかに居るだろう。しかし、彼らを捕らえる事で、世界は果たして安全になるのだろうか?
     『アメリカも「アメリカという名の宗教」を広めようとしている』という説が、この本の中に披瀝されている。確かに、アメリカ程強いソフトパワーを持っていた国は無い。日本でもいまだに『アメリカ』という言葉に特別な意義を感じてしまっているのであろう。
    その「特別な意義」が「とらわれ」であるならば、それは超克すべき何物か、なのではないか?
     政治が宗教を制御する事を「宗教弾圧」といい、「信教の自由」を守れ、と言う。
    一方、宗教は「聖戦」を唱え、無辜の民を傷つけ続けている。
     これは「政治」や「宗教」で解決出来ない問題なのではないのか?
     事実、二千年以上我々は宗教と政治の相克を解決出来ないでいるではないか。
     その事を論じる識者を、私は多くは知らない。

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    2020年05月01日
  • 人の運は「少食」にあり 「プチ断食」がカラダとココロに効く理由

    Posted by ブクログ

    私にとっては、文句なしの星5つ評価です。
    著者が企画したセミナー?の宣伝みたいな件も、特段気になりませんでした。
    ただ、「良かったら参加しませんか?」ぐらいです。

    江戸時代の観相家である水野南北のくだりは、非常に参考になりますし、
    説得力をもたせる文章でした。「少食開運」なんて、言われると、
    やはり、やってみようかなと思ってしまいます。

    私の場合は、このレビューを書く数ヶ月前から、朝食を食べていません。
    甲田先生、あと石原先生の著作を参考にして、朝は生絞りジュース(にんじん、りんごなど)を1~2杯飲んでいます。
    それまでは、朝食といったら、適当に詰め込むような感じでした。

    喫煙、寝酒、コーヒー、チョコレートと、ニコチン、アルコール、カフェイン、糖分を病的に摂取していました。
    そのせいで、体調がいつも悪く、同僚からは、「顔色悪いよ」「なんで、そんなにやる気ないの」と言われる始末でした。

    しかし、朝ジュースの生活を始めてから不思議とタバコをやめて、そんなにお酒を飲まなくなり、コーヒーをお茶に切り替え、
    甘いものを極力減らせるようになりました。おそらく、カラダが本来の免疫を回復する過程で、そういういった刺激物を
    欲しがらない体質に移行しているんじゃないかと思います。また、食べる量も以前と違い減ったと感じます。

    お腹いっぱい食べる→義務みたい感じがして、食べていたのですが、そんな生活をすると、
    カラダも精神も良くない方向にいくと思います。

    この著作は、町田先生の、ユーモアな語り口から、少食って、もしかしたら、良いかもと思わせてくれる本です。
    ちなみに、少食にすると、以前より、味に敏感になり、素直に美味しいなと思うことが多々あります。

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    2017年06月06日
  • 人の運は「少食」にあり 「プチ断食」がカラダとココロに効く理由

    Posted by ブクログ

    第1章は、水野南北の紹介である。小説(神坂次郎「だまってすわれば」小学館文庫)しか知らなかったので興味深く読んだ。少食が

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    2013年02月24日

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