【感想・ネタバレ】リスクの正体 不安の時代を生き抜くためにのレビュー

あらすじ

新型コロナウイルスの脅威、相次ぐ豪雨災害、首都直下地震の恐怖……。リスク社会化した現代日本において、私たちの日常生活はさまざまな「リスク」「不安」「恐怖」に囲まれている。これらの「不安」とどう向きあっていけばよいのか。科学史・科学論の知見を縦横無尽に駆使しながら、斬新な切り口で考察する。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

●→引用

●「宙づりの日々」 「その日」が来る前に
●26年ぶりに日本に現れた豚コレラ 人類の環境開発とウイルスの出現
 振り返ってみれば、狂牛病、鳥インフルエンザ、また口蹄疫と、近年、世界中で家畜の伝染病が繰り返し問題になってきた。それは結局のところ、人類が環境開発によって自己の領域を拡大させ、また工業的な農業によって肉食を薦めた結果でもある。さらにグローバル化の進展が病原体の拡散を加速したことも否定できない。
●地震のリスク 実態に即した対策を始めるべき
●ヒアリ騒動を考える リスクの全体像を捉えよう
●未来のリスク 「不吉な未来について語ること」と首都機能移転議論
 一般に、不吉な未来について語ることを、好まない人は多い。だがそれはもしかすると、「言霊思想」の影響かもしれない。これは、かつてどこの文化圏にも見られたものだが、要するに「言葉にすると、それが現実に起こる」という信念のことである。(略)さて、この信念が共有されている社会において、未来のリスクについて語ることは、別の意味で「危ない」行為となる。なぜなら、リスクを語る者は「危険をもたらそうとしている」と見なされるからだ。もちろん、多くの日本人はそんな迷信めいたことは考えていないと自認しているだろう。それでも「縁起でもないことを言うな」と私たちが告げるとき、ある種の言霊思想的な圧力の影響下にあるとは考えられないか。だとすれば、この社会がリスクと向き合う上で、それが障害となっている可能性は否定できない。問題を意識しながら対処できず追い込まれる企業も多いが、「都合の悪いことは口に出せない」という、この思想の影響もあるかもしれない。私たちの生きるこの「近代」という時代は、科学の知によって未来を予測し、それに基づく技術によって解決してきた。その達成は目に見張るものがあった。しかし、「できること」が増えれば増えるほど、「できないこと」が目立ってくるものだ。地震は、近代の成功物語からこぼれ落ちた難問であろう。そのような厳しい現実を前にした時、近代以前から続く古い心性が、不意に頭をもたげてくることはないか。
●日本の「イノベーション政策」 イノベーションとは何か
 だが、社会に強いインパクトを与えるようなイノベーションの多くは不連続的な現象であって、事前の計画や設計ができる類のものではないことも分かってきた。また、真に影響力の大きいイノベーションは、以下のような物語を伴うことも多い。少数のパイオニア、時には狂信的ともいえるような情熱を持った人たちが、世間の冷たい視線にもめげず努力を続ける。そしてついに成果を世に示す日が来る。人々は驚愕し、世界が変わる―この種のストーリーは当然、計画や設計には馴染まない。
●老朽インフラ劣化の危険 専門知と民主的決定の「組み合わせ方」
●「プロのモラル」 プライドと教養の復権を
 おそらく鍵となるのは、かつての「プロ」や「職人」が持っていた「プライド」と、失われた「教養」であると考えられる。すなわち、「目先の利益」や「大人の事情」よりも、自らの仕事に対する誇りを優先させることができるか、そして自分の専門以外の事柄に対する判断力の基礎となる「生きた教養」を再構築できるかどうか、ではないか。そのために私たちにもすぐできることがある。それは利害関係を超えた「他社」に関心を持つこと、そして、その他者の良き仕事ぶりを見つけたら、素直に敬意を表明することだ。人は、理解され、尊敬されて初めて、誇りを持てる。抜本的解決は容易ではないが、できれば罰則や監視ではなく、知性と尊敬によって世界を変えていきたい。
●高齢ドライバーの事故 別の角度からの再点検も必要
●相次ぐ品質検査の不祥事 不祥事の背景
 当然ながら、ルールを守らないことは決して許されることではない。しkし、古いルールが現実と齟齬を来している時、ルールの方を改めるのが妥当な場合もある。今回の自動車のケースがそれに当たるかどうかは検討を要する。だが、形骸化したルールが放置され、皆が守らなくなると、いずれは絶対に順守しなければならない重要なルールすらも守れなくなる。オオカミ少年の話にも似ているが、規範そのものを軽視する風潮が広がることこそが、最も危険な事態である。
●49日も逃走できた理由は… 「まれびと」を手厚くもてなす風習?
 このような日本人の古い心性は、共同体の外部の存在=「異人」を手厚くもてなす風習とも結びついていると言われる。だとすると、この容疑者は知ってか知らずか「まれびと的存在」に自分を偽装することを選び、だからこそここまで長期にわたって逃げ続けることができたのだと、考えられないか。(略)私たちはすっかり近代化した社会に生きているつもりになっているが、何かの拍子に、集合的な古い心性が顔を出すことがある。それは、街角で鏡に映った自分を見つけた時の、ある種の戸惑いのような感覚にも似ているかもしれない。
●過剰なバッシングのメカニズム 阿部謹也の「世間論」
 西洋中世史を専門とする阿部謹也はかつて、日本の本質は「世間」であって、「社会」ではないと看破した。世間は歴史的な秩序であり、この国を実質的に支配している原理だと彼は徳。そこには個人の概念はなく、おのおのの「地位」だけが存在する。また法や契約よりも贈与と返礼による「互酬」の原理が優越する。そして世間自体は、人為的に変えられない、外的条件と理解されている。一方で「社会」は明治の近代化によって輸入された外来概念であり、いわば「建前」の日本を支配するが、本当の意味で信じられているわけではない、というのだ。明治以来、150年にわたって、近代国家を建設、運営してきた私たちであるが、もしかすると基礎が不安定のまま、高いビルを建設してしまったのかもしれない。そのような国は、少し強い風が吹くと、容易に揺らぐだろう。最近の過剰ともいえるバッシングは、もしかするとその兆候の一つではないだろうか。
●「冷戦後」の終わり 冷戦後の環境変化にうまく対応できなかった日本
 あれから30年近くが経った。振り返ってみれば冷戦の終結は、私たちの国にとっては、どうやらあまり有利ではなかったようだ。そもそも「鉄のカーテン」の存在は、西側諸国にとっては、過度な資本主義化を抑制する作用を持っていた。たとえば、今から考えれば当時の自民党、特に田中派は、開発独裁の匂いが強かったものの、地方への富の再分配を強く進めたという点で社会主義的であったし、東側の諸国ともさまざまなルートでつながりを維持していた。そのような多元的なパイプと、日本国憲法というツールを上手に使って、当時の政権は、アメリカに対して主体性を確保すべく、踏ん張っていたという側面は否定できない。当然それは米国から見れば、本音では不快であっただろうが、東側と対峙する最前線でもある日本をむげにできない状況でもあったのだ。だが、グローバル化する世界に投げ込まれてからの日本は、ゲームのルールが変わったことになかなか対応できないまま、相対的な地位を下げ続けた。

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2021年02月07日

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